6. ホノルル、ハワイ着
ホノルル空港に着いた(June 3,1963)のは昼時であったか、滑走路のコンクリートが照り返すギラギラする光りをまともに浴びながら建屋に向かって歩いて行くと、出迎えの人々に会った。ドクター・モートンの学部秘書のYosie KANESIRO(金城?)さん、モートン夫人のお母さんなど数名の人たちである。もちろん初めて御会いする方々ばかりであったが、私にもアローハの声をかけて幾つものレイを首に掛けてくれたのには感激した。ブラジルでの一年は調査研究に没頭してきたのだが、これからPh.D.をとるための必須科目の消化が待ち構えているのに感激ばかりしていてはならぬと気を引き締めた。日本を離れてからすでに2年が経過していた。
Research in Hawaiiのタイトルのノートが13冊手許にある。この他、学科の受講ノートも8册ある。もっとあったような気がするが、何ぶん40年以上も前の資料をすべて保存できる程、大きな家に住み続けてきたわけでもない。これらはSeptember 29,1966に横浜着のPresident Wilson号で日本に戻るまでの3年間の勉強の記録でもある。私の記憶をこれらのノートをめくりながら、書き留めることにしたい。3年間の出来事を時間を追って紹介したいのだが、この3年間を一区切りということでご勘弁願いたい。
6.1. The daily grind
住所はSHINSHU KYOKAI MISSION(真宗教会)という高校生や学部学生のドミトリ−にまず落ち着いた。家主はハワイに移住した日本人で、佛教の真宗派のお坊さんであった。一年後に母がホノルルに来てはからずもわかったことは、我が家の檀那寺(?)の坊さんの親戚とか。日本を離れての不思議な仏縁であった。場所はS Beretania St, で大学まで20分ほどの距離のところにあった。このドミトリ−にはハワイ各島々からの主に日系男子寄宿学生であふれ、はからずもかれらの日常生活や高校生活を垣間聞くことができた。ある高校生の話では、授業は勉強よりも社会生活のマナーを學ぶことが主体だという。男性が女性とパーテイに出席するのも実習があって、好みでないタイプのクラスメートに当って閉口した話しなど、男女交際の守るべき約束事を実践的に教わるそうである。
ドミトリ−のベレタニア街の反対側の真向かいに広々とした緑の芝生がありその奥に白い尖塔のあるキリスト教会がある。日曜日の朝は正装の老若男女のにぎわいをみせていた。夏の真っ青な空と白と緑と街路に沿って咲くハワイ州の州花ハイビスカスの赤、黄、白、と人々の衣装の動きが、不思議と調和して、まさに絵葉書である。すぐ近くにワイキキへ行くカラカウア大通りの始まりとベルタニア街の接点にモルモン寺院がある。静かな雰囲気はキリスト教会と対照的であった。ユタ州ソルトレイク市にある本院の分院だと聞いた。オアフ島の北西端ライエにはより大きなモルモン寺院がポリネシアン文化センターの隣にあると聞いた。
朝食と夕食はドミトリ−の食堂で賄いで済ました。ただし、日曜祭日、学校の夏や春の休みには食堂も休みであった。そういうときは近所のDelicatessen、日系のお惣菜屋でおにぎりやちょっと調理したお肉や野菜の煮付けを買い込んで食事がわりにした。ときにはS. King StのWisteriaという日本料理店ですこし改まった食事をしたこともある。寿司の美味しい小店で食べた大きなマヒマヒ (マグロの仲間) のとろは美味であった。一月一日はレストランも閉まってしまうので、インスタントラーメンの厄介になったことも多い。中国系の食堂は元旦でもオープンしていたようだが、油気が多くて入る機会は少なかった。昼は大学のカフテリアのお得意さんであった。
6.2. 散歩寸景
せっかくハワイに来たのだから、休日はよく歩きまわった。自動車は運転できないから、歩ける所はどこまでもあるいた。オアフ島は四国の半分ぐらいの大きさだと聞く。Highway、Freewayは自動車専用で歩けないが、Boulevard(BLVD)、Street、Avenue、Roadと名のつく道は少なくとも歩行者は通れる。道幅でネーミングされているわけでもなさそうだ。ワイキキへ行く道はKalakaua Avenue、それと交差するKapiolani BLVD。いずれもハワイ王族の名が用いられている。途中から呼称が変わることも多い。Kalakaua Avenueもワイキキを過ぎてダイヤモンドのそばまでくるとDiamond Head Roadとなる。ワイキキ(ビーチ)、ホノルル動物園、パンチボール戦没者墓地、タンタルスドライブ、ホノルルダウンタウンなど随分と歩いた。当時のホノルルはまだ日本人観光客も多くなく、アメリカンであり、各人種の特徴が体感でき、あえていえば観光ずれしていない素朴な雰囲気があった。こんな小さい島なのに、道路にしろ、建物にしろ、広く太っ腹に設計されているのである。観光地には日系の売り子さんはいるが、通りをあるくのはほとんど白人で、ときおり場違いな背広姿の日本人ビジネスマンに会うばかりである。ワイキキの喫茶店で会った2人組のビジネスマンから、ここで何をしているのかと聞かれ、大学で勉強しているのだと返事した。ハワイに大学があるのかと吃驚したような顔をして、こんな楽しいところで勉強できて羨ましいと宣った。冗談じゃない、こちらは毎日、楽しいことを我慢して学問に励んでいたのだ。
ハワイへ来てから2年ほど経ったころには、バスを利用して島のあちこちを訪ねた。島一周の循環バスは均一料金でどこでも乗り降り自由であったが、一時間に一本の割合でそれに合わせて降りた所を歩きまわった。パール・ハーバーの中も、また港口にも行った。アメリカ兵の操船するボートで着いた軍艦アリゾナメモリアル墓地は国民学校一年生のときに聞いた大本営発表と重なり、あの戦争と自分が古戦場に佇んでいることが不思議であった。港口には別の機会にEwa Beachまでバスで行き、長々と続くサトウキビ畑をくぐり抜けた所にEwa Beach Parkがあった。そこはホノルルから真珠湾をぐるりとまわってホノルルを真正面に見遣る港口のそばである。日本からの航空機はこの上空を飛びホノルル国際空港に降りる。港の入り口は思ったより幅が狭く一泳ぎで容易に対岸に渡ることが出来そうであった。もちろん遊泳禁止区域である。
開戦時の大本営発表の「九軍神」の乗った特殊潜航艇の一つがここを目指してきたのに、駆逐艦に阻まれて成功しなかったという話しを思い出していた。特殊潜航艇は実際には5艇10人であったが、1人は捕虜となり戦後日本に戻った。その人の身分証明書がワイキキにある軍事博物館に捕虜第一号として展示してあったのを覚えている。20年前の戦場跡を訪ねてその間のさまざまな出来事に思いを馳せると、月日の流れが重くのしかかってくる。ちなみに、太平洋戦争で最初に発砲したのは波間の黒い不審物を見た米国駆逐艦の方で、日本の航空機の攻撃はそれからしばらくした後であったという。
タンタラス・ドライブはパンチボールの山よりのところから始まり、タンタラスの丘に至る。ここからホノルルの全貌を見下ろすことができる。さすがに歩いている人には会うことはほとんどなく、時折車が抜き去って行く。ウオーキングのよいところは道端の草花や人家の佇まいに触れることができる点である。パンチボールの山よりにいわゆるNative Hawaiian(カナカ人、もっともカナカはハワイ語で人を意味するのだが)の集落があり、断片的にわかるハワイ語が聞こえてきたり、今ならさしづめ小錦を思わせる体格の男女を見かけたりした。日本でみる生姜より一回りも二回りも大きいGingerの花があちらこちらで赤、黄、白、ピンクと咲いている様子を見てとても食用とは思えなかった。ゆるやかな道をさっさと行くと数軒の家があり、道に水を撒いているのに出会った。アローハ!と挨拶をかわすと繋がれているがワンワンと吠えるのを家人が気の毒そうに犬を叱っているのは、のどかな風情である。道の上には山側からの木の枝が垂れ下がり、うまい具合に日射しを遮ってくれているし、さわやかな涼風もあるので汗もあまりかかない。ようやく木立がとぎれて褐色の芝生で覆われた丘の頂上に到着する。そこには小さな小屋があり、中にはベンチが用意されている。
一番高いところから、遠くを見渡すと左からダイヤモンドヘッドからワイキキの海岸、アラモアナ公園、ホノルル港のアロハタワー、その先にサンド・アイランド、さらに右の遠くに真珠湾と続く。右の足下には先程訪れたパンチボールが小枝を通してみえ、左の足下にはハワイ大学のキャンパスが見える。真宗教会の寄宿舎も中程に見えた。絶景とは言えないが、青い空と顔をなでる貿易風がここちよい。夜ここは自動車でのデートスポットだと後で聞いた。