6. 8. ハワイ大学の諸先生
ハワイは地理的にアジア、アメリカそれにオセアニアの諸州を結ぶ航(空)路の中継点の位置を占めるためか、人の往来が盛んである。毎週大学からラボに配られるセミナーの案内には著名な学者や研究者の名前が数ページにも及ぶ。学部の非常勤講師やモートン教授をはじめ学部の各先生を個人的に訪ねて来られる人も結構多かった。時間的な前後関係は40年以上も昔のことなどであまり確かではないが、思い出す諸先生の印象について述べよう。
Chin S Chung教授. ハワイ大学疫学部の教授で、韓国系アメリカ人である。私がウィスコンシン大学遺伝医学部に着いて早々お会いした時はモートン先生の助手であった。ブラジルへは同行しなかったが、ハワイに来てみるとハワイ大学疫学部の教授に治まっていた。もの静かで話をよく聞いてくれて、一言一言噛み締めるように話をする人であった。モートン先生の分離比分析のモデルを実際のデータに適用する仕事を何度かセミナーで聞いた。モートン先生と共に遺伝疫学の先駆者として位置付けられる仕事を当時行っておられたのだが、データ解析に暗い私にはデータとモデルの対応がなかなかしっくり行かない点で懸念があった。実際は理論通りになかなかうまく行かない。後にUSAの先天奇形の発生率のデータなどをまとめた論文を放射線の遺伝リスクの仕事の際に読んだ記憶がある。もっとも印象に残っているのは彼の自宅でのパーテイに招待されたときの事で、何人かと気軽な談話をする機会があった。話しが韓日の関係に言及したとき「安田が嫌いと言うのではないが」と前置きして、「日本人には好感が持ち難い」と一言話した。一瞬あれ!と思ったが、彼は力むところなく淡々と喋ったのである。その当時、私は日韓の歴史のしらがみについてはまったく無知で彼の言葉の意味がまったく理解出来なかった。帰国後、折に触れて少しづつ日韓史を調べたりした。お互いの文明を寛容に認める必要のあることは言う迄もないが、すこしでも真剣に考えてみたいと思う。先生は私のPh D委員会メンバーのお1人であった。
Lucian M Sprague博士. ホノルル水産研究副所長で遺伝学部のaffiliated メンバーであった。恰幅のよい紳士で、何度かイーストウェストセンターの近くの研究所を訪ねた。私のPh.D委員会のメンバーの1人であったが、多分メンバーの員数合わせにモートン教授が声をかけたのではないかと思う。私の学位論文のタイトル”Genetic Structure of Northeastern Brazil”に対してのコメントがWhat is of Northeastern Brazil?と表紙にあったのみであった。多分genetic structureの意味がとれなかったのではと想像している。先生のお仕事は当時電気泳動法でアイソザイムの遺伝的多型の研究が盛んに導入されていたので太平洋のカツオなどの魚類の酵素多型の調査でも行っていたのであろうか。藤野和男さんという日本人研究者がSprague博士のところに留学していた。
平泉雄一郎先生. 1964年か1965年の頃に平泉先生ご一家が客船でホノルル港に到着された。三島の国立遺伝学研究所からの着任で2人の研究補助員を伴ってきた。桟橋で声をかけたが私の出迎えには気付かなかった。平泉先生はクロー先生のウィスコンシン大学でかって行っていた仕事「ショウジョウバエのMeiotic Driveの研究」をしっかりまとめたいと言っておられた。マノアキャンパスの近くの大学職員用の宿舎に入られた。平泉先生のセミナーや講義は一つも記憶にない。セミナーぐらいはあったのであろうが、記憶にないのは私がわからなかったか眠っていたのではなかろうか。実験室からあまり出てこられなかったようにも思える。断片的な記憶としては、なにかの折り大学図書館に同行して、数学の書棚を眺めたことがあった。なにげなくHalmosのMeasure Theoryを手に採られ、「安田さんこの本は阿片だよ。読み出したら病みつきになって実験が出来なくなる」、と言われた。確かにルベーク測度など嵌り込むとやめられなくなりそうな学科であるが、普段あれほど実験に打ち込んでおられる平泉さんが意外な数学でも結構難しい課目に興味を持っておられるのにはまさにBIG SUPRISEであった。平泉先生のお仕事はGanetzky B,Genetics 152:1-4, 1999 に概略が載っている。真面目な先生であったが、ユーモアの人でもあった。一度オアフ島の最北西のUpolu岬を家族と一緒に便乗させてもらい車で廻ったことがあった。その他大学の同僚の車も一緒であったが、路らしき路がなく背の高い雑草の間を縫うようにそろりそろりと車を動かしていた。思い掛けない所に車標識“go at own risk”とある。誰かが読み上げると、平泉先生の奥様がもう帰りましょうと不安顔。先生曰く「かくれんぼに最高!」。どんな意味があったのでしょうね? 先生のその後のお仕事の概略についてはGanetzky B氏のannotationをぜひ読まれることをお勧めする。
M先生. Microbiologyの講座で担当のベネデクト教授が特別講義として「免疫学の基礎」を依頼したと記憶している。ドクター(MD)の先生で、日本から直接来られたのでなくすでに何年かアメリカ本土の研究所や病院で研鑽を積んで来られた由。それにしても典型的なJapanese Englishで学生の多くがノートを取るのを止めてあんぐり。後で担当教授に不満を訴えたとか。内容はブラジルで血液型判定の実習をやりながら勉強したRace & Sangerの名著Blood Groups in Man(3rd ed)やLandsteinerのテキストのレベルに最近の知見を加えたものであった。学問のことは別として、個人的なおつき合いの機会を持てたのが有難かった。先生は日系のクアキニ病院にも兼職されていたので結構お忙しかったようであるのに、奥様との先生のアメリカ遍歴のお話しを聞かせて頂いた。
Professor G Malecot. モートン教授はこのフランスの数学者をカルフォルニアBerkley Symposium の折にハワイへ招聘した。一週間程の滞在だったと思う。Lyon大学のマレコー教授はDiffusion法による集団構造の研究をしており、特に地理的距離と親縁係数の関係については独創的である。S Wrightは集団が隔離により分割された状態で、谷川に沿った一次元、大洋の島々の二次元モデルを考案したのであったが、マレコー教授は具体的な物理距離を導入したのである。一次元では親縁係数は距離の指数関数で、二次元ではより急速に減少する修飾型ベッセルK関数(紹介していただいた特殊関数の参考書’Special Functions of Mathematical Physics and Chemystry’ IN Sneddon 1961, Okiver and Boyd Ltdは私のMalecot記念本として保存している)、さらに三次元の関数を予測した。一次元のモデルについてはすでに淡水産の巻貝について検討されていた(Lamotte M, Bull Biol Fr Belg suppl 35 1-238, 1951)が、ヒトで検証したのはブラジルの資料が最初であった。当時までの新しい成果や、マレコー教授の院生の論文などを頂き、むさぼる様に読んだ。フランス語はほとんど勉強したことはなかったが、同じロマンス語族のポルトガル語の知識と仏英辞書で何とか読んだ。数式は万国共通であるから、抵抗なく理解できたのも有難かった。フランス語まじりのたどたどしい英語での討論もポイントとなるところは黒板に数式を書くことで意思の疎通が計れた。理解できないでいると、丁寧に図を書きながら丁寧に説明してくれたのが印象的であった。また先生は院生の仕事を熱心に紹介された。
週末のある日、モ—トン、マレコー両教授と共に(3人)タンタルスドライブを登り、途中でヌアヌパリ方面の山道へ行くハイキングを楽しんだ。道の両側に茂る草木を掻き分けて行く両教授の後を追ったのだが、なぜか一番若い私が遅れ気味になるのであった。マレコー教授と個人的に接する機会を持てたことはその後の研究に大きな励みとなった。(マレコ−の業績については Nagylaki T, 1989. Genetics 122: 253-268参照。)
モートン先生はその後Isolation by distanceと称して指数関数モデルをデータに適用し関数のパラメータを推定して、さまざまな隔離集団の集団構造を比較する研究を続けた。ヒトの多くの集団で親縁係数と距離の関係が指数関数で表わせるのは地理的には一次元モデルではなく一次元と二次元の間のフラクタルな次元である(Yasuda N, Annual Report, Natl Inst Genet, 17:73-74, 1966 )。モートン教授は単純なモデルでデータを解析するのが上手であるが、この場合、集団によって次元という尺度の影響を無視してしまうのは強気過ぎる。
CW Cotterman教授. 日本に戻る1966年の夏にコッタマーン先生がハワイに来られた。ウイスコンシン大学、ブラジル移民局と3度目の巡り会いである。前2度お会いしたときはゆっくり話をする機会がなかったが、今回は私の下宿の近くのマンションに居を構えられたため、夕食後たびたび訪れた。彼は独身で、部屋中一杯に書類やら何やら一杯であったのにはびっくりした。私もそれほど部屋をきちんと整頓する者ではないが、私以上である。ここで毎夜、私のABO遺伝子座のF推定に見つかった特異性の論文作成の指導をして頂いた。コッターマン先生の定式化された多型座位のファクターユニオン系で表現することを学び、それに沿って遺伝子頻度とF値を最尤法で解析的に求めることにした。それまで実験で観察される対立遺伝子(2〜3個)についてであったが、相互優性で任意個の複対立遺伝子の場合など解析解を得ることに成功した。これは今日のマイクロサテライト座位に応用できる。特にFについてはF=0の近傍の解を得た(Yasuda N, Biometrics, 24:915-935, 1968)。この結果はさらに詳しく調べられている(Robertson A & Hill WG, Genetics 107: 703-718, 1984)。
コッターマン先生は自炊をしておらず昼食や夜食によくレストランに誘われた。ほどほどにおつきあいしたが、とりわけ亀のスープがおいしかった。コッターマン先生との会話から汲み取れることに「アイデアに興奮して早とちりしそうになったときは一服して気持ちを落ち着かせ、最初に戻って見落としがないか点検することが肝要である」がある。慎重にということであろうが、アイデアがなければこの様な心境にはなれないのだから、考えてみるとすごいことである。下宿では独りギターを楽しんでいたようである。コッターマン先生はCeliac diseaseで永眠された(Opitz JM, Amer J Med Genet 34:149-154, 1989)が、最近数年前からアメリカ人類遺伝学会は彼が第1代の編集長として学会発展に貢献した(Journalの表紙は縁を緑色のウエーブで囲んだ白抜にcontentをあしらったデザイン)ことや私もその1人であったのだが多くの若い人達を育てたことが評価されたのであろう「コッターマン賞」が創設され、毎年総会の際に若い研究者を受賞対象としている。もちろんCotterman’s k-coefficient(Cotterman CW, 1940)の考えがMalecot(1940)と並んでIdentical by descentの基礎となったoriginalityにも配慮したのであろう。因みにhomozygoteがautozygoteとalozygoteに分けることを明確に示したのはCottermanである。
Professor Li CC. 1948年に”An Introduction to Population Genetics”の初版を北京大学から出版した教授がハワイに寄られた。Wright S教授の仕事をわかりやすく解説したテキストで何度か版を重ねて、1980年頃まで広く読まれた。ハーデイワインベルグ平衡からのずれを推定する式を最初に発表(Li CC & Horvitz DG 1953, Am J Human Genet 5: 107-117)、行列を用いて近親者の頻度を求めるITO法(Li CC & Sacks L 1954, Biometrics 10: 347-360)の開発など人類遺伝学の実際に役立つ研究でも著名である。ハワイでのセミナーは分離比分析に関わる一工夫についてであった。モートン教授がすでに一般的なモデルを考案し計算をコンピュータで行うシステムを開発していたので、リー教授のアイデアは電算機の利用が当時まだポピュラーでなかった頃なので簡便法としての有用性はあろうと思った。技術が進むと評価の基準も遷移する。小柄な方でご自分のアイデアを訥訥と話をされた。教授は昨年(2003年10月20日早朝2〜3時ごろ)逝去された(Chakravarti A, 2004. Amer J Human Genet 74: 789-792)。
Professor C Stern. インドでの研究の帰りに寄られ、耳に剛毛の生える家系の調査からこの形質はY染色体上の遺伝子によるのではないかという話しをGenetic seminarでされた。調査データに基づいて仮説をテストしていく過程をじかに拝聴することができて大変興味深かった。当時日本では田中克己先生が訳された初版「カートスターン人類遺伝学」が分りやすいことで知られていたが、生のお声を拝聴して改めて納得した。
多くの諸先生は決められた時間に丁寧に講義をされ、教科書、参考書、参考文献などの紹介、説明、解説など内容の密度は高かった。それでも中には3回の講義後、無断で雲隠れした先生がいたのには驚愕した。おかげでショウジョウバエ遺伝学の授業は取り消しとなり単位はとれなかった。先生仲間でも相性がよくなくfire あるいはresignした先生もいたし、学生にもkick outする者もおり、洋の東西を問わず人間関係は複雑多様である。
毎週月曜日に大学で行われる講演会、セミナー、学位試験など開催の週間予定表が配布される。Ph Dをねらう院生として、時間に余裕があるわけでもなく、あまり出席することはなかった。数少ないうち出席したのが、Dr Miに誘われてのノーベル賞受賞者ライナスポーリングの講演であった。参加者の多かったのが印象的であったが、どのような話であったのかは覚えていない。知名度抜群の人物の顔、声を一目見聞したいという「野次馬」が私を含めて多かったようである。ポーリング先生にはたいへん申し訳ないことをした。高校生の頃、私は化学に関心があり部活動に化学クラブに所属していた。書店でポーリングの「一般化学」の訳書をみてどうしても欲しく、しかし経済的に余裕もなく経緯は忘れてしまったが叔母に(上巻だけ)買ってもらったことがあった(下巻の方は就職してからもちろん自腹で購入した)。もちろん高校生ごときが理解できるレベルの本ではなかったが、毎日少しづつ見ていたがなんとなく分かるような気になったから不思議である。化学結合のところがわかり易く面白かった。その著者のお顔と生の声を聞くことができたのだ。