第25回 生物学と遺伝学の基本 – 放射線の遺伝的影響(11/22/2005)

8.3. 生物学と遺伝学の基本

ヒトへの放射線の遺伝的影響を間接的に評価する尺度として低LET線量緩被ばくでの倍加線量1Gyが有用であることはほぼ定着した。被ばくにより遺伝性疾患の発生頻度がどの程度増えるか。 実験生物のように計画的な放射線照射はヒトへは絶対に許されないから、ヒトに近い実験動物から得た突然変異誘発率と自然突然変異率との比、これは相対的な被ばく線量の評価になるが、これはまた倍加線量でもあることを利用して、ヒトの健康への影響を見積もるのである。これを倍加線量法という。注意しなければならないことは、倍加線量が遺伝子あるいは配遇子(ゲノム)レベルで観察される数量であるのに対して、遺伝性疾患の頻度はヒト集団レベルの数量であることである。まずこの二つの数量をつなぐ生物・分子的知見についての概略を調べてみた。
DNA、遺伝子、染色体:生物のDNAは染色体にあり、染色体は細胞核に含まれている。もちろん、ミトコンドリアにも遺伝子DNAがあるが核遺伝子に比べてはるかに少ないので全体のリスク評価にそれほど影響するとは思えないのでとりあえず計算から除くことにする。染色体には遺伝の基本単位(因子)の遺伝子がある。ヒトは23対の染色体があり、各対の一つは父親から、もう一つは母親から由来する。男子は22対の常染色体とXとY染色体(この2つを性染色体という)があり、女子は22対の常染色体と二つのX染色体がある。正常な体細胞は必要十分な23対の染色体(二倍体)で構成されており、成熟精子や卵子の染色体数はそれぞれ体細胞の半分の23本の染色体(一倍体)で、DNAの塩基対(bp)総数3×109から成る(これをゲノムと呼ぶ)。遺伝子は染色体の特定の位置にあってその位置を座位という。各座位には父方と母方由来の二つの遺伝子があり、これらを対立遺伝子という。(二倍体)個体の遺伝子構成を遺伝子型と言い、その形質を個体の表現型という。
ヒトを含めた多くの真核生物の遺伝子はタンパク質を構成するアミノ酸配列をコードするエキソンとそれらの介在配列イントロンから成る。遺伝子はタンパク質の特定のアミノ酸に対応するDNA配列に違いがあるだけでなく、その構造にも相違がある。ヒトのヒストン、インターフェロンやミトコンドリアなどの遺伝子にはイントロンがない。ある遺伝子にはかなりの数のイントロンがあり、数塩基から数キロ塩基もの長さもある。たとえばX連鎖のDMD/BMD(デシャンヌ/ベッカー型筋ジストロフィー症)のジストロフィン遺伝子は2400キロ塩基対で構成されており、79個のイントロンがある。
遺伝子の5’末端は翻訳開始部位としてATGコドンがある。この上流にはプロモーターといういくつかの非コード配列がある。さらにその上流にはTATAAAやCCAAATモチーフと呼ぶ配列があって、構造遺伝子の発現にシス作用で調節する要素や、翻訳を促進することで組織特異的に特定のタンパク質に応答するエンハンサーがいくつかある。3’末端には終止コドン(TAA、TAG、TGA)とポリA末端配列がある。
DNAの遺伝情報からアミノ酸やタンパク質を生じる最初の過程を転写という。まず、イントロンとエキソンを含む全ユニットは前躯RNA(mRNA)に転写される。次いで、前躯RNAのイントロン部分が切り取られ、エキソン部分が繋ぎあわされ遺伝子産物の最初の構造を定める(完成)RNAが生じる。完成RNAはその後タンパク質合成が行われる細胞質に輸送される。

8.3.1. 突然変異と表現型への影響

突然変異は遺伝物質に生じる恒久的な遺伝的変異である。突然変異は自然にも生じるが、放射線や化学物質に暴露して誘発することがある。体細胞に突然変異が生じると、たいへん小さい確率だががんの原因となることがあるが、体細胞突然変異は子孫に伝わることはない。生殖細胞に突然変異が生じると、子どもは遺伝性疾患となるかも知れない。突然変異は生物の物理的様相である形質すなわち表現型への影響で、優性、劣性と分類される。優性突然変異はいずれかの親由来の1個の突然変異対立遺伝子が表現型を変えるのに十分なときである。生物個体は1個の突然変異対立遺伝子と1個の正常対立遺伝子を保有し、問題の遺伝子に関してヘテロ接合体となる。劣性突然変異は突然変異表現型を生じるのに、父方と母方からの同じ突然変異対立遺伝子を必要とする。このとき生物体はホモ接合体であると言う。一般に、構造タンパク質をコードする遺伝子の突然変異は優性で、酵素などのタンパク質をコードする突然変異は劣性である。

8.3.2. 遺伝性疾患

遺伝性疾患は通常メンデル性と多因子性に分類している。メンデル性疾患は単因子遺伝子の突然変異が主な原因である。多因子性疾患は多くの遺伝子と環境因子の複合作用で生じるといわれている。
分子レベルの解析から、メンデル性疾患はかなり多くが突然変異による変異であることがわかった。1塩基対置換、1ないしいくつかの塩基対の欠失、挿入、重複などの「微損傷」;遺伝子や遺伝子族そのものの欠失、複雑な再配列(逆位、転座など)、それに挿入、重複などの「大損傷」がある。メンデル性疾患のスペクトルをみると微損傷が支配的である。ヒトでの最新の自然発生頻度は常染色体性、X連鎖、常染色体劣性それぞれで1.5%、0.15%、0.75%、合計2.4%で、個々の疾患は大部分が0.1%以下であるが、民族とくに隔離集団では劣性のメンデル性疾患が顕著であることがある。一方、多因子性疾患の自然発生頻度は先天性奇形の生産児が6%、がんを除く慢性疾患が65%である。ヒトの一生で最大おおよそ3/4の人々は何らかの遺伝性疾患に罹病するだろう。
機能面で、突然変異は機能喪失か新機能獲得の原因としても分類される。正常遺伝子の機能は、遺伝子の一部あるいは全部の欠失、遺伝物質の転座あるいは逆位で遺伝子構造の破壊など、ある種の点突然変異で損なわれる。多くの場合、酵素をコードする遺伝子の機能喪失は劣性である。それは遺伝子産物の50%は正常機能を維持するのに十分であるのが普通であるからである。しかし、構造あるいは調節タンパク質をコードする遺伝子の突然変異はハプロ・不充足性(ヘテロ接合体の遺伝子産物が50%減少すると正常機能としては不十分だが生存力は維持できる)で優性表現型となるか、優性否定効果となる(ヘテロ接合体の機能で、突然変異遺伝子の産物がそれ自身の機能を喪失するのみならず正常対立遺伝子の産物の機能をも妨げる)。優性否定効果は二量体あるいは多量体などブロックの産物が機能する遺伝子群で特にみられる。
一方、新機能獲得は特異的な変化がある疾患の症状に見られた場合に該当する。本当に新しい機能が獲得されることはがんを除いてあまりないが、遺伝性疾患での機能獲得は、通常突然変異遺伝子の発現が発生時期の誤り、間違った組織での発現、間違ったシグナルへの応答や不適切な高レベルである場合を指す。したがって、新機能獲得の突然変異スペクトルはかなり限られたものであり、遺伝子の欠失あるいは破壊での遺伝性疾患は起こらないであろう。

8.3.3. 放射線の遺伝的影響

生物やその細胞の電離放射線被ばくはDNA損傷の原因となる。DNAへの放射線誘発損傷の細胞レベルでの過程は酵素により、正常の配列と構造に戻ることもあるし、あるいはこの過程は致死として生存し得ずに失敗またはDNAの変化で遺伝性変化(突然変異あるいは染色体異常)として生き残る結果となろう。生殖細胞に誘発された遺伝性変化は次の世代へ伝えられある種の遺伝性疾患の原因となる(放射線による遺伝的リスク推定の核心となる考え)。体細胞に誘発された変化は小さいが有限の確率で複雑ながん発生に寄与するであろう。
放射線で誘発される突然変異のタイプは自然に生じるタイプとおおよそ同様であるが、それぞれの割合は同じではない。実験生物の生殖細胞での放射線誘発突然変異や哺乳動物の体細胞実験での分子レベル研究から、多くの放射線誘発突然変異は一つ以上の遺伝子にわたる欠失のようなDNAの長い断片が関与しているということがわかった。したがって、放射線はゲノム配列を傷つけ混乱させ、がんを引き起こすある種の分子的変化を容易に起こし得る。逆に、このような変化の多くが生殖細胞に起これば胎児の発生期に適応できず、その結果発生異常か生殖細胞系の致死突然変異となり子供は生存し得ないであろう。