第28回 放医研2-2期 (08/02/2007)

11. 放医研2-2期

昭和47年(1972)年10月1日にスタンフォード大学でのポストドクを済ませ、千葉の稲毛に戻った。以後平成7年(1995)3月31日の定年退職までのほぼ22年間放医研に勤務した。放医研20年史と30年史をみると、昭和61年までの研究課題は

昭和47年 姓氏を用いたヒトの移住と近親婚の研究

レコード・リンケージのある問題(M Skolnickとの共同研究)

昭和48年 ヒトの突然変異発生の機構の統計遺伝学的研究(昭和51年まで継続)

昭和50年 ヒトの組織適合性遺伝子(HLA)と疾患のとの関連についての統計

遺伝学的研究(昭和53年まで継続)

人類集団構造の解明のための電子計算機プログラムの開発研究

昭和51年 日本人集団のHLA分布

昭和53年 ヒト突然変異率の性差の調査研究

ヒト出生時性比の変動に及ぼす諸要因について調査研究

8月 フィンランド・オーランドでの「隔離集団の集団遺伝学国際シンポジウム」に出席。

スエーデン、ウメオ大学訪問。USSRモスコー大学で第14回国際遺伝学会に出席。

10月―昭和54年3月 ハワイ大学で「突然変異遺伝子の動態に関する調査研究」(N Mortonとの共同研究)

昭和54年 まれな遺伝性疾患の有病率の研究

昭和55年 デュシャンヌ型筋ジストロフィー症児出生時の親年齢についての調査

昭和56年 グレーブス病とHLA, Gm の関連について

11-12月、ハワイ大学で「遺伝疫学における電子計算機の利用」(N Mortonと共同研究)

昭和57年 HLAと疾病の関連の統計遺伝学的研究

昭和58年 不規則性遺伝病の分離比分析、先天性代謝異常症の監視方法の開発

昭和59年 不規則性遺伝病の分離比解析、新生児の外表奇形発生頻度監視方法の開発

昭和60年 不規則性遺伝病の分析、DNA制限酵素の多型と不規則性遺伝病の関連

昭和61年 スギ花粉症を例とした不規則性遺伝病の分析

DNA多型と不規則性遺伝病の関連、不規則性遺伝病の突然変異成分

この期間、あらためて見直してみると、放射線と関わりのある研究テーマは一つもない。これも研究環境をすっかり受動的に受け入れた形をとり、決して無理をしなかったからといえよう。幸い研究補助員1名と研究室一つが与えられていた。また放医研の電算機はTOSBAC-3400と今考えるとメモリーも小さく不便きわまりないが、使い勝手は自由であった。むしろメモリーの小さいほど、プログラミングの技術向上に役立つった(?)。プログラムを走らせるのには電算機付きの福久健二郎さんに随分とお世話になった。放医研50年史に当時、福久さんが苦労されていたことを書かれており、そんなことも知らずに無理な相談を多々していた次第で内心忸怩たるものがある。

この最小限の研究環境で、集団遺伝学の理論を実証するデータが得られれば、それが何であっても論文が書けるという戦略であった。そのため、人類遺伝学会の諸先生方との共同研究という形でデータを入手することを試み、ほぼその線でうまく行った。一見様々な研究テーマが不規則に並んでいるが、これらは無理にテーマを絞るのではなく、状況に応じてデータを得た結果である。もちろん既存のデータだけでなく、必要ならば私が病院を訪ねてカルテ等の症例の家系調査などを行った。もちろん共同研究者のドクターの指導の下である。これらの研究が退官前後に行った「放射線の遺伝性影響に関する調査研究」を統合する基礎となったのはProf. K Sankaranarayananとの出会いがきっかけであった。
「ヒトの突然変異発生の機構の統計遺伝学的研究」は514名のデュシャンヌ型筋ジストロフィー症男児のカルテに基づき、突然変異率の男女差がないこと、また患児が出生したときの親年齢の影響がないことの二点を実証した。これは生殖細胞での減数分裂が年を重ねるにしたがってDNA複製のときのエラーが蓄積する、という一般的な事実とは反するのである。事実、四肢短縮症は古くから、きょうだいの末子に多く顕れるということが知られている(Weinberg 1912)。これらの結果はYasuda N & Kondo K, 1980. J Med Genet 17(2):106とYasuda N & Kondo K, 1982. Amer J Med Genet 13:91に発表した。実はもう一報、家系図を含めた詳細をまとめるつもりでいたが、他の仕事に紛れてとうとう発表せずに終わった。鉄は熱いうちに打たなければならない。

デュシャンヌ型筋ジストロフィー症遺伝子は14kbとジャンボ・マンモスと呼ばれる巨大遺伝子で、ジストロフィンタンパク質をコードしていることは、私がこれらの論文を発表したときはまだ知られていなかった。この遺伝子の中央部だけでも塩基配列に様々のタイプの欠失があり、点突然変異率の男女差もそのぼう大な異質性によりかすんでしまったのが性差の見つからない原因ではなかろうか。遺伝子の物理化学的構造が知られてくると、統計遺伝学的方法で導かれる結果の重みは霞んでくるようである。しかし、遺伝学的アプローチの長所は「物」が分からなくてもhereditaryの現象から、その本質に迫ることができることにある。もちろん「物」がはっきりする方が理解し易いことは明らかである。論文の発表の時期は結果的にみて良いタイミングであった、と私なりに思う今日この頃である。なお、集めた資料は退職時にすべて処分した。この研究は放医研の「指定研究」に2年間採用されたことも触れておこう。

この期間の外国出張で、8月のフィンランド・オーランドでの「隔離集団の集団遺伝学国際シンポジウム」への出席、スエーデン、ウメオ大学訪問、それにUSSRモスクワ大学で第14回国際遺伝学会に出席は、初めてのヨーロッパ行きであった。

「隔離集団の集団遺伝学国際シンポジウム」1978.8.13~1978.8.16:このシンポジウムには順天堂大学眼科の中島 章教授のご好意で出席することができた。中島先生は日本における眼疾患の臨床データを集めておられ、私はその統計遺伝学的分析についての共同研究を行った。日本人の眼障害の遺伝的荷重が0.15の他、遺伝疫学的にまとめた結果を中島先生が発表した。私は統計遺伝の処理などで質問があれば答えるということで、参加した次第であった。シンポジウムの参加者は約40名で、NE Morton先生の顔もみられた。血友病の一種であるVon Willebrand 病(常染色体劣性)の出現頻度が比較的高く、近親婚率と相まって典型的な隔離集団の様相が伺われた。プロシーデングがAcademic PressからPopulation structure and genetic disorder, ed AW Eriksson et al, 1980と出版されている。オーランドはボスニア湾口のバルチック海に面した小島で、他に6,500余の島からなる人口およそ22,000の自治領で首都はマリーハムである。フィンランドのヘルシンキからスエーデンのストックホルムまでの海のほぼ中間に位置する。到着したときはヘルシンキからの飛行機から虹が見えて印象的であった。夕方、中島先生と共に、郷土館の展示を見に行き、記帳に日本語でサインしたが、我々が始めての日本人来館者であることを確認し、あらためてオーランドが僻地であることを実感した。

スエーデン:シンポジウムの後ストックホルム(北のベニス)に寄った。飛行機の都合でほぼ一日ゆっくりとストックホルムの街を海岸沿いに散策した。母親が2人の小さな子どもを連れて歩いていたが、2人それぞれ胴にロープを巻きつけ、日本でよく見る犬の散歩のごとく引き連れていたのには、一瞬呆然とした。ところ変われば品変わる! 王宮の内部も見学した。廊下の突き当たりにロープが張ってあり、そこから先は私室である旨の張り紙があった。随分とオープンだなとの印象を受けた。市内の観光案内の掲示をみながらの行き当たりばったりの散策である。沈没していた古きバイキング船の竜骨の大きさにびっくりし、スエーデンはかってバイキングで活躍したことに気付いたりした。午後、飛行機で北上してウメオに着きホテルに泊まった。地理的にはほぼ北極圏(北緯66゜30’)に近い。翌日はウメオ大学にL Beckman教授を訪ねた。私がハワイ大学の院生であったとき、生化学遺伝学やセミナーで教えをいただいた訪問教授がベックマン先生である。久方ぶりの再会であった。大学は夏季休暇でひっそりしていたが、澄み切った青空とひんやりとした白樺の白さが目立つ並木道が思い出される。夜はいわゆる白夜で真夜中を過ぎてもカーテンの隙間が明るくて、寝不足気味になった。なぜか木材加工工場や保育所の見学に案内していただいたが、保育所の施設やおもちゃ類が木材の加工品であふれている感じであった。ウメオには2泊3日を過ごし、ストックホルムに戻り、モスクワに飛んだ。

USSRモスコー大学で第14回国際遺伝学会:この大会は西欧諸国が政治上の理由で出席をボイコットしたので、著名な遺伝学者の出席は少なかった。ソ連の研究者の講演のほとんどが母国語であったので、スライドでなんとか理解しようと試みたが、さっぱりであった。遺伝医学研究所訪問ツアーに参加して、デュシャンヌ型筋ジストロフィー症について若干討論できた(英語!)のが、収穫といえば成果である。学会主催のクレムリン宮殿内への招待、個人的には赤の広場にあるレーニン廟や、パレードのお立台下の壁に刻まれた共産党功労者の名前の拝観が記憶に残っている。宮殿内にはナポレオン軍のモスクワ占領時に鹵獲した大砲が幾つかあり、歴史を感じた。レーニン廟へは長い行列を2時間以上も待ち、廟に近づくにつれて、衣服を正され、襟を正し歩調を整えて中へ入った。中には服装が恐れ多い(?)とて、入廟を拒絶されている人がいた。入り口に2名、廟内にも何人かの正装の護衛兵がおり、しっかりと参列者をチェックしていた。国民学校で奉安殿の前を通るとき、歩調をとり最敬礼をさせられたあの雰囲気を思い出させるものがあった。宿泊したロシアホテルは随分大きいとしかいいようがなく、滞在中はホテルの入り口のガードマン、各階の階段の横にある「番台」のホテルの大きさに比例してか大柄な女性が座っており、出入りのたびにチェックされた。モスクワ大学には遠くからも良く見える高い塔のような建築物があり、大きな赤い星のマークが頂上にあった。国が広いせいか、建物のスケールも大きい。

昭和10月―昭和54年3月 ハワイ大学で「突然変異遺伝子の動態に関する調査研究」(N Mortonとの共同研究):デュシャンヌ型筋ジストロフィー症のデータ分析を確かめるのが、一つの目的であるが、ある意味でポストドクのトレーニングを提供して頂いた期間でもあった。マノアキャンパスのイースト・ウエストセンターの近くに木造の高やぐらのロの字型の建物で、Population Genetics Laboratoryと呼んでいた。フランスのMalecotの学生J-M LalouelやモートンのポストドクDC Raoなどがいた。J-M Lalouelは私のプログラムALLTYPEを評価してくれた。院生のときにお世話になったプログラマーやオペレータがおり、再会を喜んでくれた。行動遺伝学のCR Cloningerもいた。
柳町隆造先生のセミナーを聴講したのもこの時であった。ハワイへこられて間もなくであったか、黒板一杯に講義内容を書かれ、一生懸命話されたのが印象に残っている。モートン夫人のDr. P Jacob-Mortonが司会をされて、柳町先生の生殖細胞の仕事を高く評価しておられたのが印象的であった。
助教授であったDr. MP Miはモートン先生から独立して、ハワイ大学の遺伝学教室の教授となっていた。旧交を温める機会を持ち、お互いにその後の研究について、学生の指導について、あるいは私的な出来事について話し合った。コンピュータのこと、プログラミングのこと、量的形質の話など、さらには将来、共同プロジェクトを持とうと話が弾んだ。しかし、現実は厳しく、そのほとんどは実現しなかった。今となっては夢物語となってしまったが、懐かしく思い出される。