第6回国際人類遺伝学会は1981年9月13日から18日までの6日間イスラエルのイエルサレムで開催された。手許のプロシーデングをみると日本からの参加者は23名で世界34ヶ国からの人々が、キリスト教の聖地に集まった。プロシーデングはUnfolding Genomeと Medical Aspectsの2巻からなり、基調講演と小シンポジウムがまとめられており、ポスター展示には触れていない。私は医科歯科大学の笹月健彦教授の共同研究者の一人としてHLA-疾患関係のシンポジュウムセッションと、デシャンヌ型筋ジストロフィー症の遺伝疫学についてポスター展示を行った。私にとってはポスターの方がメインで、この疾患遺伝子の突然変異率に性差のないことを患者の家系調査を行い、分離比分析を用いて間接的に証明したものである。かなり熱心な質問が結構あり、Scientific Committeeのメンバーから小シンポジウムで口頭発表をしてどうかと言われ、念のためにと用意してあったスライドが役に立つことになった。その見返りというのか、晩餐会に招待され、松永英遺伝研部長やAG Motulsky博士とテーブルを共にした。そのときはそれだけのことであったが、後にホーゲル/モトルスキー両博士の「人類遺伝学」の大著を私が翻訳することになるとは夢にも考えていなかった。
久方振りに旧知の人たちに会うことができた。PM Conneallyは私がウィスコンシン大学に留学した時のResarch Office-mateで、ハンチントン病家系の連鎖分析をしているとのことであった。Dr J Ottの連鎖分析プログラムを有効に使用している旨、話が進んでプログラムデックを送ってくれる話になった。当時はまだプログラムのステートメント1つを1枚の紙カードにパンチしたデックか磁気テープに記録したものであったが、これはまさにknow-howの結晶であるから、本当にありがたいことであった。しかし残念ながら、当時日本にはそのプログラムLIPEDが適用できるデータがなかった!Dr横山省三は九大の出身であるが、USAに帰化した日本人の一人である。彼とは二人で旧市街の市場などに出かけたが、何処え行くにも当然話しが通じるに決まっているかのように、道行くごとに英語でどんどん話しかけていくのには、すっかり彼はアメリカ人になってしまったのだと印象を深くした。根井正利さんはエジプトのピラミッドを見てきた話をしていた。ブラジル-ハワイと研究生活を共にしたDRs ES Azevedo とH Kriegerとも久方振りにComo vai? Todo bem? モートン先生はいずれまた今年中に1ヶ月弱の間ハワイでお会いすることで、分離比分析と連鎖分析の発展について若干話を伺った。
エルサレムは、標高800メートルぐらいの山の上にある。峰が入り組み、街並は坂道が多く、変化に富んでいる。石垣に囲まれた旧市街と、周辺に広がる新市街とに町は大きく分かれる。旧市街は周辺を山がとりまく小高い丘の上にある。その中心に対照的な風景の旧市街がある。
石壁に囲まれている旧市街には8つの門があるという。南にある糞門から入るとよく知られた嘆きの壁がある。その前の広場に立つとユダヤ人と思しき人々が壁に向かって独特のスタイルでお祈りをしている。聖書とおぼしい書を持ち、首を縦にふっている。ひげを伸ばし、黒い帽子に黒いベールで黒いマントに首に金色の十字架を下げて何やら聖書の文句を口ずさんでいる。嘆きの壁は離散の憂き目にあったユダヤの聖地である。壁への思い、神殿に対する思いは、非ユダヤ人には理解なかなか理解できないものがある。それにしても紀元70年に破壊された神殿の壁が、この一部だけなぜ今も取り残されているのであろうか。この壁に近づくには、必ず帽子をかぶらなければならない。帽子のない人には紙の帽子を貸してくれる。壁のすきまには祈りを書いた小さな紙片が挟まれていた。祈りを終えた人は後ろ向きで帰らなければならないとのこと。壁のすぐ向こうには岩のドームが、黄金の顔を覗かせている。ユダヤもイスラムもそしてキリストもすべてまとめて一つのエルサレムがあることを改めて実感した。
旧市街のほぼ真ん中に聖墳墓教会があった。これはイエスが処刑されたゴルゴタの丘という場所に建てられたのだという。外国人とわかる観光客が沢山いた。キリスト教徒にとっては、はるばる来たという思いが強いのか、キリストの最後を思う気持ちなのであろうか、沢山の人々が涙ぐんで、ゴルゴダの岩をなでていた。私も列に連なりなでた。すべすべした感触で気持ちが改まると思ったのは雰囲気のせいか。
旧市街の中に入るとアラブ系の商人が多く、さながら日本の縁日を思い出させるものがある。薄暗いせまい迷路のような路地をめぐりあるくと、石壁の門に行き当たる。引返してもうろうろするのが落ちである。さすがに観光地なので英語でなんとか話しが通じたが、商品の値段は適当である。ちなみにヘブライ文字は楔形文字で右から左に書く。文字や発音に至ってはさっぱり駄目である。分からないことをIt’s Greek to me.というが、ギリシャ文字は、学生の頃の数学でお馴染みのα、β、...などであまり違和感はなく、アテネの街路標識を読むことができ、感激した(?)くらいである。楔形文字はギリシャ文字以上に不可解である。文章を右から左へと読むのは、明治大正それに昭和の太平洋戦争まで、横書きの日本語も右から左であった。ブラジルとハワイで実見したが、当地の日本人街でそのような看板や表札には右から左へと書いたのがあった。左から右というのもあり、これはまさに英語流で、両者の混在は文化の混合である。縦書きの日本語は縦列で右から左と今でも書くが、英語はもっぱら左から右だけである。さすがに下から上へ書く言語に到っては、私は知らない。
学会の企画したバスで死海観光に行った。エルサレムの市街をでるとすぐ砂漠である。うす赤茶色の土砂にぶつぶつと植物らしきものが見られるが、道は山を下るように不毛の岩山を走る。たっぷり30分も過ぎた頃か、岩にブルーの線が引かれ、SEA LEVELと書かれた文字が見えた。これは海抜ゼロメートルという表示である。ときたまロバ?を引いた人とすれ違う。死海への道はさらに下っていく。最初は死海に寄らず、ヨルダン河沿いを北上してジェリコの古井戸を見に行った。紀元前3000年の遺跡といわれて、観光客のincreditable!の声が印象的であった。今は砂漠と化しているが、昔はレバノン杉で緑豊かな大地であったのだとガイドは強調していた。
バスは南下して死海に向かったが、その途中ガイドは右手エルサレムよりの岩山を指差して「死海写本」が発見されたクムランQumranだという。横穴住居様な穴がいくつか見られ、これらはユダヤ教の一派であったエッセネ派と呼ばれる人たちが作ったものだという。かれらはユダヤ教団を離れ、独自の修行のためこのクムランに住み着いたという。紀元前8世紀の話である。彼らは古くなった経典を壷に入れて岩山の穴に収めていた。
エッセネ派は約200年前に消滅したので、その後くわしい情報もないままに時が過ぎ、穴に納められた経典はだれにも知られずに過ぎていった。イスラエルが建国を宣言した1947年にベトウィンの少年が山羊を追っているうちに穴に入り、壷の中の経典を見つけた。
これが20世紀の大発見の糸口である。 紀元前2世紀に書かれたヘブライ語の経典である。それまで写本で一番古いものとされていたものより、1000年も古い経典が出てきたのである。それもほぼ完璧な形である。世界中の聖書学会が驚いたのは当然のことであろう。写本は現在エルサレムのイスラエル博物館の死海写本館で見ることができるという。
クムランから左手に死海を望洋しながらエン・ゲティに着く。ここには入場無料のパブリックビーチがあり、どうぞ泳いでみて下さいとガイドはにこにこしながら言う。私は水着など用意していなかったし、気も進まなかったので、人様の浮かんでいる様を見るだけにした。海辺の水は以外に澄んでおり、底にある石はカバーをかぶせたように塩分が白くついているのが見えた。水温は外の暑い太陽に比べてひんやりとして冷たかった。何人もの人々が水に浮かんでいた。もっぱら背泳ぎのパターンである。顔は濃厚な塩水に浸けないようにとの注意があった。眼がやられることがあるとのこと。首を上げ両手を両側に広げて両足は真っ直ぐ揃えて伸ばした形でOK、浮いているのである。ところどころに塩柱が望見された。海岸には泥パックをしている紳士淑女がいた。美容効果があるとのこと。不思議なことに、海岸のあちこちで真水が湧き出しており、身体についた塩分はきれいに洗い流すことができる。これも海面下400メートルで真水が押し出されてくるのだとの説明を受けた。これらの真水を利用して死海の沿岸にナツメ椰子が盛んに栽培されていた。砂漠や死海という生物の生存を脅かす環境で、育つ植物があるという、一見矛盾した混在に生物の不思議に思いを馳せた。対岸はヨルダンである。霞がかかりぼんやりとしていた。
帰りは飛行機便の都合によりアテネで一泊して翌日の午後の飛行機でドバイ、マニラ経由で帰国した。ドバイからはインド洋、インド大陸の上空を過ぎ、インドシナ半島をベトナムのダナン辺りを眼下にし、東シナ海を過ぎてマニラに着陸した。かっての国際紛争の地域を何事もなく通過できる平和のありがたさを実感した。
アテネのホテルはアポロ宮殿の近くにあり、半日の余裕があったので訪ねることにした。たまたま広島の放射線影響研究所の阿波章夫さんと一緒になり、丘を登ってアポロ宮殿を見学した。偶然、その日は入場無料デーということで、これも女神の施しかと冗談を言いあった。大理石の白さとイオニア曲線などの人工美が混ざり合い、不思議な温かみを感じさせるものがあった。宮殿の隅で、アテネの市街を見下ろす丘の縁に並んで座り込み、阿波さんとしばし、研究所の話やこれからの研究の方向などを話し合った。内容はすっかり忘れてしまったが、なにかを話したことは鮮明な記憶として残っている。不思議な体験である。アポロ宮殿の丘を下りホテルへ戻る道を迷子になり、阿波さんと二人で丁度座り込んだ丘の真下あたりに来たとき、ふっと沸いたかのように一人の中年の男が現れ、日本語で「このあたりは物騒なところなのにどうして来たのか」という。道に迷ったのだと答えると、このあたりは観光客の来るところではないからとホテルへの道を案内してくれた。
再びハワイ大学:1981年11月16日から1ヶ月間Visiting professorとしてハワイ大学のモートン教授に招聘され、集団遺伝学研究室population genetics laboratoryに滞在した。短い期間であったが、このときは連鎖分析について研究を行った。Dr Keats BJBがいくつかの疾患について連鎖マーカーに関する文献を収集しており、その厖大な量に驚かされた。ヒト疾患の原因遺伝子を染色体上にマップするには、細胞遺伝学的方法は別として、位置の知れているマーカー座位と疾患の連鎖を見つけるのが遺伝疫学的方法である。当時、マーカーとしてはHLAやアロザイム多型が主体であった。ある神経疾患とHLAの連鎖分析を手がけたが、一つのランに一昼夜の長時間掛けるほどの計算をしたのを覚えている。プログラムの内容もよくわからずに、またメンデル性の単因子疾患でない複合疾患の医学的側面も知識としての理解しかなく、計算するパラメータの意味がなかなか理解できず、無駄なランを行うこともしばしばであった。旧知のオペレータやプログラマーがいろいろとアドバイスして助けてくれるのだが、ランの後、モートン先生と得られた数値のデスカッションをして、新しいアイデアが生じ、それではそれで行こうかということになる。モートン先生もいろいろと考えているのである。こんな状況で、1ヶ月は瞬く間に過ぎてしまった。明日の朝の飛行機に搭乗するという日の前日の夕方、研究室で最後のランをコンピュータに掛け、結果が出たのが明け方の6時、急ぎモートン先生の机上にメッセージを残してホテルに戻り慌ただしく帰国するというはめになってしまった。コンピュター・シミレーションとは違い、多数のパラメータを用いる遺伝モデルから得られる結果が果たして生物学的に意味があるのかという疑問が浮かび、この疑念については今日のゲノム解析の手法についても気懸かりの一つである。計算すればアウトプットは出てくるが、その途中の過程は計算機まかせでチェックの仕様がない。数値計算などでは桁落ちの問題があるように、計算を繰り返すことでゴミが溜まることがある。アウトプットをみて生物学的に無意味であるかどうかを判断するだけでは心もとない。
Dr. MP Miはハワイ大学教授となっており、量的遺伝や集団遺伝の授業の内容、Ph D院生の研究指導の内容、それにハワイのがん登録のデータの研究への活用について熱っぽく話してくれた。拙著「人のための遺伝学」裳華房を一部進呈したが、日本人学生もいるのでありがたいと言ってくれた。彼はときどき台湾に行くことがあるので、機会があったら知らせるから成田空港ででも会いましょう、とも言ってくれた。
11月から12月のハワイはアロハウイークもあり、一番気持ちのよい時期である。空気が澄んで、名物のシャワーも少ない。1月に始まる雨季はまさに土砂降りの日が2月末まで続く。モートン先生はその後ハワイを去り、ニューヨークのスローンケトリングがん研究所Sloan-Kettering Institute for Cancer Research, New Yorkを経て、イギリス、サザンプトンのCRC Research Group in Genetic Epidemiology, University of Southampton, South Block, Southampton General Hospital. Tremona Road. Southampton. SO16 6YD. UK.に移った。その後モートン先生とお会いすることがなく、はからずもこの時が最後になっている。