第32回 オランダ-ブタペスト出張(10/19/2007)

ICRPの会議でオランダ、ライデンへ5回、ハンガリー、ブタペストへ4回、そしてアメリカ合衆国、ヒューストン、テキサスへ2回出張した。最後のブタペストへの出張は定年退官後になった。

 オランダ出張:パスポートをみると第1回目は1990年5月28日に成田空港から出国し、成田への帰国は6月9日となっている。オランダ航空(KLM)の飛行機で、21:30pm成田から新潟上空、日本海をロシアの黒竜江河口を目指し、そのあとシベリア上空を経由して、ヨーロッパに向い、最終点はオランダのスキポールSchiphol空港である。離陸の際にはガソリン満タンで翼が重そうであったのが、着陸の際にはピンと上に反り返っているように見えたのは気のせいであろうか。長い旅である。スキポール空港には29日の午前11頃に到着した。飛行機は極東から太陽を追いかけて飛ぶので、体力的にあまり負担は掛からなかったが、とにかく長いフライトではある。

空港にはサンカラ先生が車で迎に来られていた。空港を出て直ぐであったか、旅客機が自動車道路を跨いで通過していくのをみて、何となく異国に来たのだと思った。オランダというと日本が鎖国をしていた時代にヨーロッパとコンタクトを持った唯一の国であり、特に幕末のシーボルト先生と若き蘭学者たちの交流が印象的である。青い空の下、広々とした平坦な大地を多くの自転車が併走る。もちろん自動車の方が速い。サンカラさんは今回の予定をドライブしながらぽつぽつと話してくれた。オランダでの滞在先はサンカラさんのご好意でご自宅に泊めていただくことになった。

その後、ライデン大学で今回の予定の打ち合わせをしたが、今回はハンガリーのグループとの打ち合わせが主であるとのこと。数日ハンガリーのブタペストに滞在して国立衛生研究所のツアイツェル博士A CZEIZEL, MDやハンガリー科学アカデミー数理研究所のツナーディ G Tusnady C Scと会い、新生児のモニタングの実際とその調査計画についての詳しい理解と情報を得る、というプランであった。

サンカラさんのお宅は2屋建ての1つで、3階建てであった。瀟洒な建物でK夫人が出迎えてくれた。簡単なベジタリアン昼食のあと、疲れているであろうからと、3階の一室(息子さんの部屋)に案内してくれた。何はともあれ午後は部屋を暗くしてゆっくりと休んだ。夕食前の散歩ということで、近くの公園まで歩いたが、大きな水車と澄み切った小川に満々と水が流れていたのを覚えている。何人かにすれ違ったが、同じように散歩を楽しんでいるようであった。サンカラさんは少しずつこれからの予定を話してくれた。

夕食はインド方式で右手で手づかみで食べる、にわかベジタリアンに変身した。オランダで食べるインド料理、それに会話は英語、これはまさにインターナショナルのひとつの具現化?であった。その晩は12時過ぎまで話し込んだ。サンカラさんの国際性を表すかのように、いろいろな国のみやげ物が居間に置かれていた。酒々井産の甲子正宗の陶性ボトルもその晩新たに陳列棚に加わった。

翌日の午前はサンカラさんのオフィスを訪ねた。正確にはMGC Department of Radiation Genetics and Chemical Mutagenesis, Sylvius Laboratories, State University of Leiden, Leiden, The Netherlandである。鉄道のLeiden駅から其れほど離れていない大学キャンパスの隅にその建物はあった。何階建てかわ忘れたが、サンカラさんのオフィスは5階?であったと思う。リフト(エレベータ)で上がった。サンカラさんのオフィスには書籍とファイルされた論文がほとんど満杯の状況であった。あまり広くないスペースに両側の壁にぎっしりと詰め込まれており、真ん中の作業?テーブルが僅かに紙を置ける具合である。サンカラさんの論文はまず10ページ以上であり、添付する引用論文もレビューになると300近くにもなる。その読書力は驚異的ですらある。

学部長の EF Sobels教授と会うことができた。昔、放医研の仲尾遺伝部長がセミナーでソーベル教授の論文を紹介していたことを思い出し、仲尾部長の部下であったことを話したところ、大変喜んでいた。ライデンで何か希望することはないかとのことで、シーボルト博物館へ行ってみたいと話したところ、即座に電話をして、残念ながら改築中で閉館しているとのことであった。私はソーベル教授の仕事はほとんどしらないが、化学変異原の泰斗であると聞いている。壁に日本人の寄せ書きやら、様々な賞状が額縁入りで沢山並んでいた。

午後は少しオランダを見に行こうといってハーグDen Haagまでドライブをした。ハーグまで南下して、車を止めたのは北海海岸のクールハウスであった。北海に突き出ているピアDe Pierの中ほどまで行き、海から海岸を眺めたり、海岸から北海を展望したりした。どんよりとした灰色の雰囲気、あまり穏やかでない波と水着姿の人々、多分観光客であろうか、が結構沢山海岸に居た。ハーグは高校で勉強した世界史にでてきた条約名として記憶にあったが、自分がその地に来ることが何かの奇遇であるような気がした。

翌日も午前中は大学のオフィスでブタペストへ行く準備をサンカラさんと共に行なった。午後は折角オランダへ来たのだからと、北ホランド州の大堤防Afsluitdijkを見に行こうということになった。交通渋滞を避けるため、アムステルダムは迂回して行ったから、多分、ハーレム、アルクマールを経由して行ったのであろう。大堤防はアイセル湖Ijsselmeerと外海のワッデン海Waddenzeeを仕切る土手でデン・ウーベルDen Oeverから対岸レー・ワルデンまで続く。そのほぼ中間点と思しきところに休憩所があり、結構観光客が群がっていた。外海と湖の水面は見た目にも落差があり、もちろん外海の水面の方がはるかに高い。オランダの領土が相当海面下にあることがよくわかる。堤防がどのくらいの長さであるのか覚えていないが、凄い大工事であったことは堤防に立てば誰でも納得しよう。ワッデン海の外側には西フリージア諸島が連なり、北海の荒海を和らげるような地形であるのも合理的である。

ブタペスト、ハンガリー出張:スキポール空港までは鉄道で行った。駅には切符の改札口はなく、車内で車掌が切符をチェックしに来る。切符は前の座席の後ろに挟むところがあり、乗車中はいつでもチェックできるように挟んで置くのがルールだとか。確かアメリカでも同じであったが、おそらくアメリカへのヨーロッパ移民が持ち込んだ習慣であろう。

ハンガリーのブタペスト・フェリヘジFERIHEGY空港にはツアイツェル教授の医局員が迎えに来ていた。とりあえずということで、地下鉄3号線レヘル・テールlehel ter、(鉄道の)西駅の近くの病院の付属宿泊施設とおぼしき1Kぐらいの部屋に案内された。窓を開けると、鉄道の車庫らしきが見え、宿泊中は客車や貨車の入れ替え作業を毎朝みることになったが、これが結構うるさい。ベジタリアンのサンカラさんは水が不味くてコーヒーも飲めないし、電圧が違うためヒゲが剃れないとぼやいていた。食堂はあったが、我々2人以外に人影は見かけない。ハンガリー語はさっぱりで外食もできない。一度夜のスナックを食べようと、サンカラさん共々に露天でピザを買ったが、どうにも食べられる代物ではなかった。どうにも堪らんとので、ツアイツェル教授に話して、ホテルを見つけてもらい、この件は解決した。どうやら手違いがあったようである。

医科大学は地下鉄3号線フェレンツ・ケルートFerenc korut下車で5分ぐらいのところにあった。教授室のある建物はビルではなく、平屋でもなかった。そこで日程の打ち合わせを行なったが、サンカラさん曰く、Norikazuが遠い日本から来たのだからブタペスト観光に一日費やしたいがと提案してくれた。後で聞いたところ、彼はすでに何度もブタペストに来ていたが、一度も観光はしていないので、彼自身も今回がチャンスだと思ったからだといっていた。もちろん仕事の予定が第一優先であったことは言うまでもない。

1970年からのハンガリー全土で、毎年150万~200万の総分娩の赤ちゃんの異常をモニタリングしており、その後の健康状態の追跡調査も行なっている、その概要を各担当者から聞いた。健康調査などは登録がほぼ強制的で、ハンガリー全集団をカバーしているという。サンカラさんはヒト集団のベースライン(P)として信頼の置けるデータの一つとして、このデータを考えている。もう一つはカナダ・ブリティシュコロンビア州での調査データがある。数理研究所のツナーディG Tusnady C Sc氏にお会いしたのもこのミーテングのときである。背の低い典型的なマジャール人である。ところでハンガリーの人名は、日本と同じで姓・名の順序である。ツアイツェル・アンドレ、ツナーディ・ガボールという具合である。ツナーディ氏は調査計画と多因子性疾患の統計遺伝解析のアウトラインを話した。後者の新しいコンピュタープログラムをG Michaeletzky氏がほぼ完成しかかっているので、後日お話したいとのことであった。これについてはたいへんな目に会うことになるのだが、これについては別の機会に述べる。

サンカラさんと共に、ツアイツェル教授の自宅で夕食に招待された。オーブタOBUDAの郊外にその家はあった。私どもの他、何人かの教室員も顔を見せていた。教授の夫人や娘さん他合計10人ぐらいであったか。教室員にはエジプト、チェコスロバキア、ロシアなどの東欧諸国出身がおり、ブタペストがそれらのセンター的役割を果たしているのかなとも思われた。スタンフォード大学でエジプトの女性ポストドクがいたことを思い出した。居間兼書斎にはたくさんの書籍が見られ、その頃まとめられ新生児モニタリングの本を一部、サイン入りで頂戴した。

 ブタペスト観光:名前は失念したが女性教室員の案内で、ブタペストとセンテンドレを観てまわった。言うまでもなく,ブタペストはハンガリーの首都である。ブタ、オーブタとペストの3地区が1873年に合併して今のネーミングとなった由である。大学生の頃、ある日の授業開始を待っていたとき、この話題について話したことが何故か思い出される。ブタは遊牧民の族長の名だそうである。ダニューブ川の東側がブタで西側はペストである。オーブタはブタの北部でブタペストの発祥の地区とのこと。ダニューブ川は日本ではドナウ川と呼んでいるが、この由来はドイツ語とか、英語はダニューブ川であると聞かされた。観光の出発点はブタの北部のゲッレールトの丘Gellert hegyであった。標高235mの岩山で、王宮、ダニューブ川、ブタとペストをつなぐ鎖橋Szechenyi Lanchidなどペスト地区のパノラマが見事である。丘の頂上には女性の自由像がある。ブタ王宮、三位一体広場、マーチャーシュ教会、漁夫の砦、ベーチ門等などは一つ一つが重厚な歴史を垣間見るようであった。王宮を取り巻く壁に銃痕がいくつかあり、ナチスドイツ占領時のものだという。その時、鎖橋も破壊されて、ブタとペストの交通も遮断されたという。国立美術館は別の機会に参観した。マルギリット橋を渡りペストに入る。ダニューブ河沿いに下流の方向に行くと国会議事堂Orszaghazがある。外から眺めるだけであったが、クラシック、ゴジック、ルネッサンス、バロックなどの多彩な様式を組み込んだハンガリーの歴史を象徴するかのような素晴らしい建物である。ブタからのダニューブ川越しにみる国会議事堂もよい。ヴェレシュマルティ広場Vorosmrty terから歩行者天国のヴァーツィ通りVaci utcaを抜ける。このあたりは憩いの地らしく、カフェテラスもあり、観光客も含めて人がたくさん居た。ハンガリー産の刺繍を売る若い女性が客を追うように歩きまわっていた。ブタとダニューブ川を背景として走る路面電車の風情もなかなかよい。

ドライバーの自宅へ伺い、小休止をする。お住まいはビルの5階(?)で、居室はおしゃれな雰囲気であった。日本のマンションの一区画とでも言えそうである。サンカラさんも今回の観光はゆったりとリラックスした様子であった。

センテンドレSzentendre:ダニューブ川のブタ側を上流に向って約1時間弱のドライブで着く。その途中、ローマ軍の遺跡がある。ローマはその勢力範囲の限界をライン川とダにニューブ川としたとのこと。ブタペストもローマ軍に占領されたことがあったという。センテンドレの町の礎を築いたのはセルビア人で14世紀の頃という。町のただ住まいはその面影を残しておりバルカンの風情を残しているとの説明があった。コヴァーチ・マルギット美術館を訪れた。現代ハンガリーを代表する女性陶芸家・彫刻家の作品を集めた個人美術館とのこと。庶民の普通の生活や宗教を題材とした作品が多く、ほのぼのとした、生き生きとした表情が伺える。壁画や立体作品も多い。電柱など無いのもよかった。

ペスト:リスト・フェレンツ記念館Liszt Ferenc Emlekmuzeumの前を通った。アントラシー通り andrassy utにあり、リストが最晩年の5年間、暮らしていた場所に造られた記念館とのこと。音楽にはあまり馴染まないが、学生の頃「労音」の安い切符を買い、神田の共立講堂などへ聞きに行ったことを思いだした。英雄広場Hosok tereも車の窓から眺めた。マジャール人がハンガリーを征服したのが896年。日本の大化の改新後280年ぐらいである。その1000周年後に造られた広場だとか。中央に天使の像が、その下に7人の諸部族長、歴代の英雄のブロンズ像が左右半円型に囲んでいると聞かされた。

帰りは来た空路を逆行する形となった。スキポール空港でサンカラさんと別れ、空港の免税店でオランダのヤングチーズとスイスチョコレートを買った。沢山の買い物客でレジに行列ができる賑わいであった。店舗の種類や数も多く、どの店も人で一杯であった。一時間ほど待たされたあと、シベリア経由のKLMで成田に戻った。成果のあった充実した外遊であった。多くの人にお世話になりました。ありがとうKozonom(ケセネム)!