国際放射線防護委員会(ICRP)第一委員会の作業部会の一員として、テーマRisk Estimation for Multifactorial Diseasesについてまとめることになった。テーマの内容は次の4項目である。
(ⅰ)ヒトの多因子性疾患についての知見をレビューすること。
(ⅱ)多因子性疾患の有病率が突然変異率の増加でどのような影響を受けるかを現状のモデルでどうなるかを調べる。
(ⅲ)必要な特定疾患についてそれらを評価する。そして
(ⅳ)放射線被ばくによる多因子性疾患のリスクを推定する。
作業部会は次の構成であった。
主査 Dr K Sankarnarayanan
委員 R Chakraborty, A E Czeizel, N Yasuda, C Denniston
Corresponding委員 J F Crow, G Michaletzky, S E Humphries, G Tusnady
委員の当時の簡単なプロフィイルを述べると、主査のDr K Sankarnarayananはオランダのライデン大学の放射線遺伝学の教授で、長らく国際連合科学委員会報告書(国連科学委員会報告書)の一つ「放射線の遺伝的影響」の執筆者であった。
委員のR Chakrabortyは米国テキサス大学人口遺伝学集団遺伝学健康科学センターの教授で米国における数理集団遺伝学で高く評価されている研究者の1人である。広島・長崎の放射線の遺伝性影響の調査研究に長く携わっているDr J Schullから、この作業部会のメンバーに加えるよう強く推薦された。Dr J Schull も後にCorresponding委員として、この作業部会に参加された。A E Czeizel教授はハンガリーの国立衛生研究所人類遺伝学奇形学部教授であった。彼はMDであり、ハンガリー先天異常登録センター所長、遺伝性疾患の地域社会コントロールについてのWHO協力センターの所長も兼任していた。ハンガリー先天異常登録のモニターリングの資料は国連科学委員会報告書に、カナダのブリティシュコロンビアの資料と共に、ヒトを代表するデータとして扱われている。C Dennistonは米国ウィスコンシン大学遺伝学部教授で長らくJ F Crowと、多因子性疾患のリスク推定について突然変異成分の考えなどの共同研究を行なって来た。米国科学アカデミー報告書Ⅴの遺伝の項を執筆している。奇しくも私がウィスコンシン大学に留学したとき、科目「ヒトの進化」のラボで「メンデルの法則」を教えていただいた当時は人類学部の助手であった。奇遇というのはこのような出会いをいうのであろうか。
Corresponding委員のJames F Crow先生はウィスコンシン大学遺伝学部教授であった。C Denniston教授と共に多因子性疾患のリスク推定について数学的モデルを開発していた。木村資生先生の先生でもあり、私の先生であるN E Mortonの先生でもある。ちなみに両先生はクロー先生に同時期に師事してPh Dを取っており(きょうだい弟子?)、一方は中立説を他方は連鎖分析のロッド値や分離比分析などの遺伝疫学の分野で優れた貢献をされておられる。クロー先生には1年間ではあったが集団遺伝学の講義やその他直接、間接的にお世話になった。当時の私は医科遺伝学部に所属し、そこの学部長がクロー先生であった。Dr G Tusnadyはハンガリー科学アカデミー数理研究所の著名な数学者/統計学者で、多因子性疾患のしきい値モデルの改良を当時行なっていた。Dr G Michaletzkyは彼の共同研究者で、彼の地位はハンガリー・ブタペストのEotvos 大学確率統計学部の教授であった。Dr S E Humphriesはイギリス・ロンドンのCross Sunley医学研究センター所長で、ヒトのポリジーン性疾患の分子的アプローチのエキスパートである。特にアポリポタンパク質遺伝子などの遺伝的変異に造詣が深い。R Chakrabortyからの強い推薦があったという。冠心疾患についての知見がリスク評価の例題として当作業部会の報告書に求められていたので、主査としてはたいへん心強かったのではなかろうか。
作業グループの会合はテキサス大学ヒューストン校で2回、それにハンガリーのブタペストで1回行なわれた。その前と間に何度かライデンとブタペストを訪ねる機会があった。ヒューストンで第1回目の会議の前にはライデンでDrs J Shull、Dr R Chakraborty、Sankar先生それに私の4人で作業部会のスタートにあたっての打ち合わせを行なった。その後、Dr J Schullを除いた3名はブタペストに飛び、Drs G TusnadyとG Michaletzkyの多因子性しきい値モデルとそのコンピュータプログラムの有用性を確かめることになった。Dr R Chakrabortyと私はDr G Tusnadyのしきい値モデルの有用性についての討論をしたが、その目的に適合度の検定をも含めていることがわかり、作業部会が問われているのはモデルそのものの妥当性であることから、検討の末使用しないことになった。平行して私はG Michaletzkyからそのコンピュータプログラムの使用方法を学んだが、長旅の疲れで、説明の声が子守唄になってしまい、ついうつら、うつら...。その間Snankar先生からNori! Open your eyes! と一生懸命励まされた始末であった。なんともはや情けない話である。なんとか理解して、プログラムのコピーをフロッピーに落として持ち帰り検討することにした。最終的にはChakrabortyからのモデリングの妥当性に難点があること、それにCzeizel教授からデータとの不一致を説明できないなどの諸点が第2回の会議で指摘されて、ハンガリーグループのモデルは作業部会では採用しないことになった。やれやれご苦労さんという結末である。
第1回の作業グループの会合は1994年2月にテキサス大学ヒューストン校人口遺伝学集団遺伝学健康科学センターの一室で行なわれた。出席者はChakraborty、Schull、Denniston、Snkarnarayanan, Boerwinkleそれに私であった。Boerwinkleさんは遺伝疫学について研究を行なっているとのこと、Schull先生の紹介で今回オブザーバーとしての参加であった。まずSankar先生が
(ⅰ)当作業部会の説明、目的と範囲、それに取り扱う問題の内容と手許にあるデータなどの概略を話された。次いで全員で多因子性疾患の臨床/医学/集団 遺伝的な側面について討論を重ねた。そしてリスク推定にどのような多因子性の疾患について考慮したらよいのかについて共通の認識をまとめるよう努力をした。
(ⅱ)Ranajit ChakrabortyがTusnadyのモデルの解説を行い、詳しい討論をした上、モデリングの難点について説明を行なった。
(ⅲ)Ranajitと私は現状で用いられているポリジーン性しきい値モデルのレビューを行い、それらに欠けている、継世代的な考えを取り入れた簡単なモデルを説明した。
(ⅳ)Carter Dennistonは突然変異成分の考えを中心とするウィスコンシングループの仕事について説明を行なった。
(ⅴ)これからどのように仕事をすすめるか?各自の分担や時間の配分など、ICRP第1委員会への作業の進展状況についての詳しいプランについて話合った。
(ⅵ)次回の会合での内容と日時について。
以前カヴァリ・スフォルッア博士の所にポストドクで滞在していたとき、バスで全米を一巡りしたが、その途中オースチンからヒューストンを経由してアトランタへとバス旅行をしたことがあった。ヒューストンはバスターミナルに寄っただけで、夜行バスでアトランタへ向った記憶がある。今回でテキサス大学のオースチン校とヒューストン校の両方を訪れたことになる。オースチンでは平泉雄一郎先生ご夫妻を訪ねて歓談する機会があったが、それが先生ご夫妻とお会いした最後になってしまった。ヒューストン校のRanajitの部屋は前任者の根井正利教授の居室であったとのことである。壁の書棚にアメリカ人類遺伝学雑誌がずらりと並んでいたのは圧巻であった。マリオットホテルから大学の人口遺伝学集団遺伝学健康科学センターまでは数ブロックの距離であったが、その1ブロックの大きいこと、流石はテキサスである。Schull先生のご自宅で夕食をご馳走になった。大きなビルの何階であったか、眺めのよい部屋で、サントリーの「だるま」ウイスキーを頂戴してしまった。日本のお土産がいくつも壁や部屋に飾られていたのが印象的であった。昭和30年代に日本人類遺伝学会でSchullさんの特別講演を聴講したこと、英語がさっぱり分からなかったがスライドの数式はよくわかったと話したところ、苦笑いされておられた。
帰りにハワイに寄った。Prof. Ming P Miの要請で「低線量放射線の遺伝性影響は現在の知見では統計学的に検出されない」という内容のセミナーを行なった。久し振りに旧知の先生方、共同研究者、それにプログラマー等に会い、旧交を温めた。結果的に、これがハワイを訪ねた最後となった。モートン先生は既にハワイを去られて、集団遺伝のラボも警備員の溜まり場になっていると聞かされた。帰りの飛行機はエコノミークラスの席が満席で、フヮーストクラスに座席に案内された。ちょっぴりリッチなフライト気分を味わうことができた。旅をするとこう言うこともあるのですね。