第5回 ウィスコンシン大学での勉強(8/16/2002)

4.2. ウィスコンシン大学での勉強

覚悟はしていたが、変身のためとはいえ、これほど集中的に勉強したことはなかった。大学受験のときは自分なりに猛勉したつもりでいたが、とてもとても比較のしようがない。あえて違いを探すなら、大学受験は孤軍奮闘でまったくのんびり孤独なやり方であった。一方、ウィスコンシン大学では勉強したい人を能率的に磨くシステムがしっかり機能している。その方針といえば、大学は勉強するところだから勉強すれば疑問が生じるに違いがない、したがってどんどん質問をしなさい。教授側(教生も含めて)は柔軟な対応で答えるシステムが確立しているのである。つまり、本人が質問をすればその質問のレベルに合った内容の適切な答えが必ず戻ってくるということである。尋ねた先生が答えられない場合には必ずわかる先生を紹介してくれる。あるいは適切な文献を紹介してくれ、分からない点があれば親身になって納得の行くまで答えてくれるのである。不精を決めてそのままにしておくと、しばらくして、あれはどうなったのかとfollowしてくる。授業はむしろ勉強の切っ掛けのために行われるのだから、まさにSpeak up! とAny question?には答えをしなければならない。沈黙は先生も困るのである。
印象的であったのは、すでに何かの分野で確立した人でも、授業の始めではその学科の内容につて生徒は全員初心者である!おれは集団遺伝学を知っているぞと力んでも、ポルトガル語の授業では、何の関係もないのである。冷静に考えれば当たり前のことなのだが、年輩の人、特にある分野で名の知られた人に対しては何となく頭を下げたくなるのが日本人的感覚であるが、そういうことはまったくない、平等なのである。ただし最終試験のときには差がつく。どれだけしっかり勉強したかは、どうやらどれだけ多く質問をしたかにかかっているようである。質問するには勉強してどこがわからないかはっきりさせなければならない。使用言語はもちろん英語である。
ウィスコンシン大学は外国人学生に対してまず英語能力が授業についていけるか否かのテストを行う。韓国、インド、フィリッピン、それに中南米、ヨーロッパからと国籍は多彩である。丸山毅夫さんが登録に行こうと話してくれていたので私もそのつもりでいた。ところがその話を聞いたモートン先生いわく、「のりかず」は来年ブラジルへ実地調査に行くことになっているから、ポルトガル語を私と一緒に勉強する。英語はいやでも覚えるはずだし、とてもそれに割く時間はないだろう。専門科目の授業はクロー先生の集団遺伝学をまず聞きなさい。そのほか、授業には出席しなくてもよいが、クロー先生の「遺伝学概論」で使う資料、テキストを入手できるようにするから、幾つかのテストを受けて合格点を取りなさい。それからもう1つ、C Sternの「人類遺伝学」も読んでおくように。統計の単位は早稲田大学の成績証明書をみるかぎり取らなくてもよいだろう、と言う。その時は気軽に、Yesわかりましたと言ったのだが、いやもう時間が足らない。モートン先生が私の主任教授で4人だったか、関係学科の教授に声をかけて、私がPh. D を取るためのカルキュラムを作ってくれたわけです。びっくりしたのは修士をとらずPh.Dを取れというのです。リスクはあるけど、お前ならやれる筈だと巧みにおだてられたような記憶があります。後にPh.Dをとってから、アメリカ人学生にこの話をしたところ、びっくりしていました。そのようなことはまれにはあるそうです。モートン先生の秘書のKANESHIRO(金城)さん(ハワイ大学)曰く、「のりかず」は遺伝学でPh.Dをとるのに授業を集団遺伝学から始めて「動物学入門」で終わる、通常の学生とは全く反対の勉強の仕方をした唯一の学生だ、と言って妙な感心をしていました。
具体的な話をしましょう。以上のような状況で変身の第一歩が始まった。まずはポルトガル語です。INTENSIVE Portugueseの名の通り、集中授業でした。1時限1時間で、月曜日に2時限、火曜日に1時限、木曜日に2時限の週あたり計5時限、それに水曜日は講師の部屋でinformalなおさらいが1-2時間ありました。講師陣は2人で、1人はブラジルのパラナ州出身の若い女性Brener先生でした。生徒の方はモートン先生(聴講生、試験を受けなくてよい特典あり!)と私の他3人の合計5名(女性1名、この人はアンゴラに行くとか言っていました)。なにしろ、最初の授業で、まず先生の英語がわからない。授業がどう進行しているのかおたおたしているところへ、先生や同級生の顔が一斉に私の方を向いている。こちらはいかなる状況に陥っているのかかいもくわからない。先生も信じられないという顔つきできょとんとしている。モートン先生が状況打開のため何かしゃべった。Miss Brener先生はなるほどという顔をして、それから授業の用語はすべてポルトガル語になった。ポルトガル語の読み書き話しを勉強する授業だから、なるほど賢明な選択であったわけである。授業の終わりころ、同級生から、英語の説明がなくて、最初は戸惑ったがポ語を勉強するのにかえってよかったと、妙な感謝をされた。毎週、日常会話、聞き取り、文法(Mr ReRoy先生)、作文とそれはまた大忙しの毎日でした。毎時間、授業の終わりに簡単なクイズがあり、学んだことを理解したかのチェックがあった。水曜日はBrener先生の部屋でその週の復習と勉強の進み具合のチェック。Man-to-womanの会話ももちろんポ語だけ。英語が役立たずだからである。テープに録音をとられ、自分の声を聞いてがっかりしたことも度々でした。ブラジルの歴史や国歌、民謡、それにブラジル探検Bandeiraなどことばを覚えるだけでなく、文化や地理、気風などにも接する機会を努めて紹介してくれました。
おかげ様で1学期(3ヶ月!)が終わったとき、国民学校6年生から始めた10年以上も勉強している英語よりも確かにポルトガル語を喋っている自分に気がつきました。語学を学ぶには異性の先生から習うのがthe bestだとも変な実感も持ちました。ラボにたイタリー人のポスドクのDr. I Barraiがイタリー語訛りのポルトガル語で話しかけて来たのには妙な気持ちでした。

クロー先生の集団遺伝学の授業は先生の早口英語がわからず残念なことをしました。しかし、1960年頃までの木村先生の論文を大部分曲がりなりにも読んでいたので、クロー先生が黒板に書く図表や短い単語から、大体の内容は把握できました。残った問題は、理解した内容を英文にまとめることでしたが、これは自宅で足りない時間内に字引き片手にどうにか済ませました。その他、ホームワークとして、集団遺伝学の論文を最低20件以上をレビューして抄録を書く課題がありました。結構大変で、終わりの頃は日本人の書いた論文を大分抄録したのを覚えています。単に読み易かったからで、クロー先生も苦笑いしながら見たと思います。最後の試験も、試験当日中に答案を提出すればよい。ただし互いに相談はしないこと。といった配慮があり、なんとかAをとりました。ちなみにウィスコンシン大学のGraduate studentはすべての学科成績がB以上であることが必要条件でした。Cを1つでも取ると落第ということです。
結構大変だったのがGeneral Geneticsでした。テキストはCrow: Genetic Note, Srb & Owen: General Genetics, Peters: Classic papers in Geneticsなど。それに、トピックス的な論文、これが結構多いのです。このコースは学部の学生向けで、事実を組織的に覚えることを狙いとしていたようです。その後いくつか学部のコースをとりましたが、ともかく知識を確実に覚えるという作業はかなり苦痛でした。放医研に入所して指導者もなく自己流の勉強で研究者でございと自惚れていたこともあって、それを矯正する機会が早めであったことに感謝した次第です。同室のM Conneally(2002年にアメリカ人類遺伝学会会長なった)が、ずいぶんと手ほどきしてくれました。質問することに慣れていない私から、声を引き出そうとして学位論文を書きながら、わずかの時間を割いて会話の時間を設けてくれました。聞き取れないとすぐyesという私の本音を見すかして、すぐsay, again!とやられたのにはまいりました。ぽっつん、ぽっつんと答えることが多かったのですが、本当によく辛抱してトレーニングをしてくれました。ちなみにDr. M Conneallyはモ−トン先生のThe First Ph.D student です。私は5年後に第2号となりました。
授業の他セミナーがありました。Visitorのセミナーの他、医学遺伝部のセミナー、それにモートン先生の自宅で夜20:00からのセミナーなど多彩でした。私もMN血液型の多型について話しました。しゃべる原稿作りに随分時間をかけた記憶がありますが、しゃべり終わった後のDiscussionは十分なFllowが出来なかったけれども、やれやれ済んだ、今夜はきっとよく眠れるぞ、とえらい現実的な安心感がありました。Dr. O Smitiesはハプトグロビンのアミノ酸でのレベル遺伝子重複の仕事で有名な方ですが、使用してるプロジェクタ−が東芝製で使い勝手がよいなどと言っていました。
息抜きは金曜の夜です。土曜の午後から復習予習とまた忙しくなります。Student UNIONの劇場で、黒沢の「羅生門」を見た記憶があります。当時1$360円の頃で、50¢だったか。白黒で「薮の中」という言葉の意味を理解したことを妙に覚えています。結構忙しく、丸山さんは彼なりに忙しく頑張っていたようです。よく、英会話で学んだイデオムの話しを題材として、周りの人たちとおもしろおかしく話していたようです。こちらは、ともかくポルトガル語、ポルトガル語の毎日。Barraiさんは陽気な人で、よく引っ張りだされ、私のポルトガル語の進捗状況を確かめるかのごとく、話ながら(ポ語で)湖のほとりの散歩をしました。なぜか途中から女性(精神科医)が必ず散歩に参加したのは、こちらはだしで引き出されたのかも?
2学期の授業は有機化学とその実習、それに人類学のヒト進化を学習しました。この学期は不安のどん底で、あんなみじめな気持ちになったのは私のこれ迄の人生でありません。有機化学の講議はさっぱりわかりませんでした。仕方がないので結構厚い教科書を何度も繰り返し読みました。丁寧に7回読んで、化学反応式や触媒の名前などすべて暗記しました。講議の内容はどうやらテキストから離れていたらしく、中間テストは全滅に近い点だったと思います。何せ恐くて聞きに行く勇気がありませんでした(英語恐怖症!)。最終試験は教科書から出ましたので少々ホットしましたが、かりに100点に近い点をとったとしても、中間テストとの平均をとれば50でこれは落第です。有機化学の実習はラボの助手(女性、失礼ながら名前は黒板に書いてくれなかったのでとうとう分からずしまいです。申し訳ありません)の早口の英語がわからず、大変なことになりました。まず、これから1学期間使用する実験器具を倉庫からもらってきて確認せよとのこと。もらったリストと器具の対応がわからんのです。たとえばリストにgraduateとある。おれはgraduate studentと力んでも、箱の中にそれらしき器具はどれか、これはまさに判じものである。コンサイスの英和辞書でgraduateの名詞の項を必死の思いで見ていくと、度盛り器という項がある。それではと箱の中を調べてそれらしきものはと改めてみると、よく知っているメスシリンダーのことらしい。後者はドイツ語と英語の混成語でこれはもう日本語である。高校のとき化学が好きで化学クラブの部長をしたことがあるが、英語で器具の名を覚えることはしなかった。こんなことでたちまち10分ぐらいあっという間に過ぎる。まわりでは、もう湯気らしきものだし、ごとごとという泡立つ音をたて始めている。これはいかんと思うが、どういう実験をするのかわからので、仕方なしに実験テキストの最初のページを読み、始めようとするがどうもまわりと勝手がちがう。ふっと気づくと助手が私の机のそばにきており、What are you doing?と宣う。この位の英語ならわかるが、英語で答えられない。だまって、テキストの最初の実験のページを示すと、そこではなく此所だ別のページを指示する。
私にとってはやれやれだが、助手にして見れば大変な奴が飛び込んできたと思ったようだ。事実、最終試験で6炭糖の異性体を分離同定する実験の答えを1番最初に答えを出したとき、眼を大きく開けて信じられないという顔をした。私が答えを得るに至った過程を箇条書きにしたメモを見ながら説明したら、納得していわく、最初はどうなるかと思ったが、このぶんなら講義の試験で良い成績をとればパスすると励ましてくれた。その講義の最初の成績が0点なのだ。成績はサンパウロでモートン先生から聞いた。Satisfactoryとのこと。つまり合格です。どうやら尻上がりに成績があがったことを評価してくれたとしか思えません!
一方、ヒトの進化のコースは学部学生の授業で、これも英語で泣かされました。答えがわかっていても英語の綴りがだめなのです。たとえば、化石人類のピテカントロプスの綴りが分からんからカタカナで書いた。もちろんペケです。先生は日本語がわかりません。小論文のテストは作文ができないから、答えは箇条書きになる。答案が帰ってくつと、これはessay questionだとあり、10点野ところが8点である。2割り引きである。これではどんなに頑張っても80点しかとれない。要するにBしかとれない。授業の終わりに必ずペーパーバック1冊を読めとくる。次ぎの時間の冒頭にクイズがあり、これは読んでおれば答えられる簡単なものですが、読書力がとても及ばない。実習もあるが、標本の名前などともかく理屈抜きに覚えなければならない。本当に精も根も尽きました。CL Dennistonという人類学の助手がラボの先生で、奇しくも彼からメンデルの法則を教わりました。この方は私がウィスコンシン大学を去った後、Dr. C Cottermanに師事して、GeneticsでPh.Dをとりました。不思議な縁で、放医研を退官した後、ハンガリーのブタペストで御会いしました。放射線の遺伝リスクのタスクグループの会議(放射線防護委員会ICRP)です。それでも徹夜したのは1回だけ。それもあまり良い結果ではなかったので、勉強は結局午前2:00までで止めることにしました。それで調子はまあまあであった記憶があります。
私の身分はResearch Assistantでしたから、当然ながらブラジル行きの準備作業をやらなければなりません。モートン先生は21:00頃ラボに戻って来られて、調査に使用する血清のテストをして居ました。私はもちろんモートン先生のラボで助手の役割をさなければなりませんが、翌日テストのときなどは本当に困りましたが断るわけにはまりません。テスト後、車で送ろうかといわれ、もう少し勉強すると答えるとGood luckといって帰っていったのを覚えています。ブラジルの実験器具の一部はDr. C Cotterman教授が器用に作っていました。プラスチックの試験管立てなどは使い勝手のよい逸品でした。オート接合とヘテロ接合の考えを考案した先生ですが、遺伝学のCombinatorial Problemに凝っていました。ハワイで再会しましたので、研究の内容についてはまた後程お話したいと思います。