第8回 ブラジル入国直後(9/1/2003)

5.2. ブラジル入国直後

空港からサンパウロ市の中心街までのリムジーンバスからみた、ブラジルの最初の印象は興味深い。植物相の目新しさがまず新鮮である。たとえば竹だが結構生えているのだが、何本も密生した株があちこちの家屋の庭に見受けられ、日本で観るように一本ずつ群生している竹林とは違う。サトウキビやブ−ゲンビルなど熱帯の植物も目についたが、これは一年後のハワイでの強烈な日射しと原色の濃さと重なり印象は薄れてしまった。住宅街に入ると、ブロック石畳の街路とさまざまな色の低い石塀にかこまれた家々が目についた。石の白と屋根の橙の取り合わせと庭園の初めて見る草木花々がまざって、なんともゴージャスな気分を発散している。小じんまりとしている点では、日本の家屋と似ているが、庭が外から見えるよう工夫してるのが好い。

サンパウロ市内に入ると、いかにも崩れそうな高層ビル(地震がほとんどないとのことで、東京で見なれたビルと較べ、20階、30階の高層ビルの華奢な支え(後で聞いた話だが、実際に高層ビルが突然崩れる事故がときどき起こるとのこと)の立ち並ぶ狭い路地をボンデBonde (サンフランシスコのケーブルカーの薄汚れた感じの市電)が人を両側にぶら下げて隙間を縫うように走っていた。人ひと、自動車、ボンデ、それになんとロバも荷車を引いていた。暑い日射しのなか、さまざまな皮膚の人々が右往左往しているさまはまさに自分がブラジルの人種のるつぼの中に居ることを改めて実感した。

地形的に谷間のようなアニャンガバウで、市廳側の斜面に位置するホテルに到着。一人部屋に案内され、とにかくひと休みということになった。外からはいわゆる都会の雑踏で生じる大小のノイズや高い人声が聞こえたが、いつのまにか寝たようである。

眼を覚ましたときはもう夕方で、急に腹が減っていることに気付いた。そういえば昼食を食べていない。空港でドルをクルゼイロに両替しなかったので、まずはとホテルで聞くと、ホテルで両替はしないという。銀行ももう閉まったから明日9時だという。

その後どうしたか記憶は定かでないが、なんとか食事はとったのであろう。今考えると泊まったホテルは小さかったようだ。このホテルには1週間滞在した。

最初にするべきことは外人登録である。オフィスがどこにあるかわからないので、それではと日本領事館に行った。旅券を見せて、空港で2週間以内に外人登録をしなければならないと言われたので、どこにその建物があるのか?どのような手続きをすればよいのか?を尋ねた。「何処そこの弁護士adovogadoに頼みなさい」という答えを引き出すのに1時間以上もかかってしまった。入国スタンプをみて、あらまたハンコが変ったのとのたまい、ブラジルへ来た目的、滞在期間、どの経路で来たのか、と事細かに聞かれた。仕事のパトロンがアメリカ人だと言うことで、アメリカ領事館に行く必要があるとまで言い出した。別にメモを取る様子もない2人のセニョーラ(日本人か日系ブラジル人かはわからない女性)が、もちろん「流暢な日本語」でしゃべるのである。次第にいらいらしたが、こちらは情報を求める方だったのでとにかく、がまん、がまん!その足で弁護士の事務所を尋ねて所定の手続きを依頼した。アメリカ領事館の方にはモートン先生も用事があるからとのことで一緒に行った。モートン先生が私の立場を説明してくれたのはよかったが、副領事が一枚の紙きれを示し、所定の項目にチェックし、宣誓しろという。私はNIHのグラントのサポートで仕事をするのだから宣誓をしなければならないのだという。一般旅券を携帯しているが、私の身分は日本国国家公務員であるからここに書いてある事項すべてについてアメリカ政府に忠誠を誓うことはできない。モートン先生と副領事はしばらく話していたが、一部の宣誓項目は除くということで、結局片腕を胸に、片腕の手のひらを領事に向けて副領事のいう英語を反復し、その書類にサインをした。

外人登録が済んだのはほぼ1ヶ月後であった。その間、弁護士事務所から2度呼び出され登録所へ行った。一度は十指に墨を塗る指紋登録を含めて前後左右から写真を撮られた。別に犯罪行為をしたわけではない。こんなことは初めての体験である。登録所の入り口には剣付き鉄砲を持った番兵が2人立っていた。忘れたがかなりの金額を弁護士に支払った憶えがある。登録が2週間以上もかかったため、「遅延課税」も含まれていた。Espere um momento!(一寸待て)。 依頼した方が再催促しない限りいつまでも埒があかないブラジル流を垣間見た気分であった。「ブラジル時間」のスピードに頭も身体もが適応するまでには結局のところ駄目でであったが、1年後ハワイに着いたとき若干慣れていたことに気付いた。慣れとは恐ろしい。Puxa vida!(なんてこった!)。

「習うより慣れろ」ということで下宿はE. Azevedo, MD女史の紹介で、サンパウロ大学医学部の医師の卵の巣のようなところに入り込んだ。これは失敗であった。ポルトガル語に慣れる点では良かったのかもしれないが、毎夕食後(午後8時過ぎ)から翌朝2時ごろまで医師の卵達はしゃべったり、歌ったり、踊ったり、社交的とでもいうのか。騒がしいの何のって今考えると、彼等がいつ勉強していたのか不思議である。下宿に入ると大きな広間があり、私の部屋は入り口のすぐ横で広間とドア(曇りがラスに内側にカーテン付き)一つで隔てられているに過ぎない。最初は会話の練習のつもりもあって集まりに参加していたのだが、そのうちに私の部屋へずかずかと入って来るのである。要するにAmigo(友人)に親密さを表わす行動らしいのである。一週間も経たないうちに、これはたまらんのでドアを閉めて電気を消したが、広間の騒がしさは変らず、あまつさえドアをドンドン叩く始末である。これが毎夕続いたのである。これではプライバシイなぞあったものではない。夕方の一時はゆっくり論文の一つも読みたいし、あるいはのびのびともしたい。それでも2ヶ月は我慢した。

たまには広間に顔をだしてDoctorinhos?(医師の卵達)の話も聞いた。彼(女)等の多くはブラジル各地からの優秀な学生で、サンパウロ大学医学部で学ぶことに誇りを持っている。いわゆるエリートなのであろう。お互いにドクターの称号をつけて呼び合っていたのもその現れであろうか。もちろん学位は所定の課程を済ませ、試験をパスしなければ正規のMDではない。社交的には如才がなく、会話も好奇心に富み、まずは自己紹介から始まり、いかに自分が選ばれた者であるかを売り込む。一時の会話が済むと、次ぎはお国自慢や得意な歌が始まる。メキシコ、ペルー、ボリビア、ウルグアイ、チリ−、キューバ各地のローカル色のある歌が個人あるいは合唱で始まる。私も歌へ、歌への大合唱に抗せず、止むえず「黒田ぶし」をやった。皆シーンとして聞いてくれたが、bonita(きれい)と言われたのには驚いた。よく歌われていたのがメキシコのマリアッチで、なかでもシエリト・リンドは何度も合唱していた。黒田ぶしでは調子が合わなかったのかもしれない。ほうほうの態で2ヶ月後には朝夕食賄い付きの「トウーダハウス」(Rua Teodore Sampario 399)という下宿に移った。ここにはブラジルを離れるまで居たが、学位論文のコアになるアイデアがここで生まれた。そのときの様子はまた後に触れることにしよう。

ひどいインフレーションが現在進行形とのことで、給料はドル払いにしてもらい、ドルを売って生活に必要なクルゼイロを買うことで給料の貨幣価値が下がらぬよう自己防衛をした。これはモートン夫人のアドバイスであった。ちなみにどの位のインフレかと言うと、絶対価値は忘れてしまったが、クルゼイロの価値は1年後の出国時には入国時の約半分に下がってしまった。はからずもインフレの恐さの実体験をしてしまった。日本の戦後のインフレもひどかったが、子供であった私(当時20歳)には実感もなにもなかった。私が昭和9年に生まれたとき、20年満期の月掛け生命保険1,000円が満期受け取りで600円前後+保険会社の名入りの風呂敷1枚であった。千円の価値は戦前と戦後でどのくらい違いがあったのか、凄いインフレであったことは確かである。デザインが「米国」の拾円札が新円として流通していた頃の話である。今年2月に亡くなった母が、「毎月50銭から1円のお金を払って積み立てた結果がこれだ。でも戦争に負けたのだからしょうがない」、と言っていた。

仕事は「移民局」(ホスペダリア・デ・イミグラサン・;Hospedaria de Imigracao, Departamento de Imigracon e Colonizacao. A/C Servico Medico, Visconde de Parnaiba 13/6, Sao Paulo)で、セ広場(プラッサ・デ・セ;Praca de Se)の近くであった。この広場の傍に大きな教会があったのが印象的である。マイクロバスが朝・夕の定時に幾つかのストップポイントをまわり、仕事人をピックアップする通勤体系をモートン先生は採用した。これで作業時間は定時に開始できるし、また帰りの時間も一定となる。とこどきモートン先生の都合で遅れたり、早くなったりした。それに通勤途上でサンパウロ市内の様子や地理を観ることもできた。慣れたころ、土日の休日に地図を確認しながら市内を散歩するのに随分助かった。この移民局はブラジル国内のノルデステ(東北地方)から南部への国内移民の中継所で、政府が経済的な補助をしているという。ノルデステはブラジルの大西洋に突き出した尻のような地区で、絶えまない旱魃で多くの貧民がブラジルのサンパウロ州、パラナ州などの南部諸州に向かってパトロンを探しに移動している。この現象は18世紀末から記録があり、ブラジルの為政者にとっては重大な社会問題の一つとなっている(ブラジル史、アンドウ ゼンパチ著—岩波書店)。移民の流れを中継所でピックアップして、調査側は動かずに集団を調べてしまおうというのがモートン先生の着眼点であった。