人獣共通感染症連続講座 第127回 牛乳の安全性

(1/27/02)

牛乳の安全性

牛乳が「ドイツで回収された!」

週刊文春1月17日号に上記の見出しの記事が掲載されました。その主な根拠は以下の点です。

  1.  牛乳の感染性を調べる手段として、マウスへの脳内接種では不十分であるという英国リーズ大学リチャード・レイシー教授の指摘。
  2.  英国ケンブリッジ大学のマルコム・ファーガソンースミス教授もマウスではなく、子ウシへの脳内接種で行うべきだと指摘していること、さらにBSEはリンパ組織を通じて広がっているので、牛乳に含まれる白血球に病原体が入っている可能性のあること。
  3.  ドイツやEU諸国でBSE感染ウシの牛乳の回収を行っていること。
  4.  英国政府が牛乳の安全性を調べるための実験をあらたに始めていること。 そして、「マウス実験結果を振りかざして、感染性はないと言い切っていたのだから、日本の専門家のレベルも知れたものである」と述べられています。

これらの指摘について、レベルが疑われた専門家のひとりとして見解を述べてみたいと思います。

2000年8月頃の状況

まず、見出しの「ドイツで回収された」という事実はまったくありません。週刊文春の記事の主な根拠となったのは2000年8月7日付け英国ガーディアンの記事と思われます。そこで当時のドイツの状況を眺めてみます。
ドイツは2000年8月頃には英国からの牛乳の輸入を中止していました。これが、回収とみなされたようです。当時ドイツは国境を越えてBSEが自分の国に侵入することはないと主張しつづけていました。その対応が牛乳の輸入禁止につながっていたと考えられます。
ドイツ政府は自国でのBSEリスクをずっと否定してきていました。1994年に、EUが特定危険部位の食用禁止を提案した際には拒否権を使って阻止していました。その結果、EUが特定危険部位の禁止措置を行ったのは2000年10月まで延ばされてしまいました。肉骨粉の全面的使用禁止の措置に対しても強力に反対してきました。ところが、2000年11月にドイツでBSEのウシが2頭見つかりました。しかも、それは民間業者が自主的に行った迅速BSE検査の結果です。EU委員会はそれまでのドイツの傲慢な態度を批判し、国内の批判も受けて保健相と農業相が辞任しています。
そのような背景のもとに、ドイツでは英国からの牛乳の輸入中止を行っていたのです。

リチャード・レイシーとマルコム・ファーガソンースミス

上記のコメントを発表した2名の科学者について、専門を簡単にご紹介します。リチャード・レイシーは元来、ブドウ球菌の抗生物質耐性を研究していた微生物学者で、食中毒の専門家として活躍していました。もっとも本職の細菌学の研究では、文献検索(Medline)をしてみても、ほとんど論文は発表していません。
彼は、1989年に英国でニワトリの卵からのサルモネラ中毒が大問題になった時、毎年15万人が卵のサルモネラで感染し、少なくとも毎週1人は死亡するという推定を発表して一躍有名になりました。翌1990年にBSEに汚染したキャットフードが原因と考えられるネコ海綿状脳症のネコが見いだされた時、今後ネコと同様にBSEに感染する人の数は、数百万人になり病院は数千人の患者で一杯になるだろうと予言しています。もちろん、どちらの予言もあたっていません。
ともかく、政府のBSE対策を真っ向から批判してきて、おそれを知らない改革者とか知的テロリストとも呼ばれて、彼は大変人気のある人物になりました。
ファーガソンースミスはケンブリッジ大学病理学部の教授です。しかし、専門は遺伝学で主に染色体異常の研究で立派な業績をあげています。とくに胎児の遺伝子診断という倫理的にも難しい問題に深くかかわってきています。それが英国政府BSE調査委員会の3名のメンバーに選ばれた理由のひとつと推測されます。

牛乳の安全性についてのこれまでの知見

BSEウシの乳に感染性のないことは、マウスへの脳内接種(マウス・バイオアッセイ)で確認されてきました。脳内接種は経口接種の10万倍の感染効率のあることが実験的に確かめられており、したがって、この実験は脳内に投与したサンプル量の10万倍の量を経口で与えたものと同等と見なされます。
牛乳の安全性で注目しなければならないのは、あたりまえのことですが、牛乳はウシも飲んで育つものです。つまり、種の壁がない状態で経口接種が自然界では起きているわけです。ほかのプリオン病(ヒトのクールーとクロイツフェルト・ヤコブ病、ヒツジのスクレイピー)でも同じです。1996年のBSEパニックの際に、WHOとEC(欧州委員会)の獣医科学委員会はBSEが牛乳を介してウシの間で伝達されている証拠はなく、したがって牛乳からヒトへのBSEの感染の危険性は無視できると報告しています。同じ内容の結論を英国の海綿状脳症諮問委員会は1997年に発表しています。

牛乳の安全性に対する疑問とその背景

マウスへの脳内接種は前述のように現在、可能なもっとも高い感度のBSE検出法です。
しかし、ウシと比べるとマウスBSEに対する感受性は1000倍低いこと(すなわち種の壁が存在すること)も明らかになっています。そこで、マウスへの脳内接種ではなく、ウシへの脳内接種をしなければ感染性の否定はできないというリチャード・レイシーのような意見が出てくるわけです。マルコム・ファーガソンースミスも同様の意見を述べていると週間文春には書かれていますが、BSE調査報告書には、そのような意見はみあたらず、彼の個人的見解です。
ところで、マウスとウシの間に種の壁があることは事実ですが、サルではマウスよりもさらに大きな種の壁があることを示す実験成績があります。BSEウシの脳を脳内接種した場合、マウスでは1年あまりの潜伏期で発病しますが、サルでは3年以上かかっています。潜伏期の長さは感受性に相関しますので、サルよりも高い感受性を示すマウスを用いて牛乳のヒトに対する感染性が調べられていることになります。したがって、マウスがかからなければ、サルと同じ霊長類のヒトでも安全とみなせます。
この実験はフランスの原子力庁研究所のコリンヌ・ラスメザスたちが行ったものです。プリオン病の専門家の間では有名な論文ですが、遺伝学者であるファーガソンースミスは多分知らないのでしょう。英国政府のBSE調査委員会報告書の第2部は「サイエンス」のセクションで、ここだけでも274ページありますが、その中にラスメザスの成績はまったく触れられていません。
ついでですが、現在、日本の屠畜場で行われているエライザ法は、ラスメザスのグループが開発したものです。

誤って受け止められた実験事実

1997年12月25日号のネイチャー誌に発表されたひとつの論文が波紋を引き起こしました。それはアドリアノ・アグッチ教授(チューリッヒ大学神経病理学)の論文です。スクレイピーのマウス・モデルでの実験で、スクレイピー病原体が脳に到達するのにBリンパ球が必要という成績でした。実際の実験はBリンパ球を欠損させたマウスにスクレイピー病原体を腹腔から接種しても発病しなかったという内容です。この成績について、アグッチはBリンパ球が病原体の増殖の場になるのではなく、病原体が最初に増殖する小腸(ウシでは回腸遠位部)の濾胞状樹状細胞が成熟するためにBリンパ球が必要という見解でした。つまり、病原体が増殖するための場所ができるためにBリンパ球が必要という考えです。現実にBリンパ球に感染性はまったく見つかっていません。私は昨年春、来日したアグッチに、その点はかなりくわしく再確認しました。
しかし、彼の実験結果は、リンパ球が病原体の増殖の場、おそらく運び屋になると、一部の人にあやまって受け止められてしまいました。そこで乳房の中の白血球で病原体が増える可能性が問題になったのです。BSEはリンパ系を伝って広がると述べているファーガソンースミスの指摘も同じ背景と考えられます。しかし、そのような事実は見いだされていません。
リンパ系組織でのプリオンの増殖については、よく誤解されますので、簡単に説明します。大量のBSE病原体を経口接種した実験で、BSEウシのリンパ組織で感染性が見つかるのは、回腸遠位部のみです。おそらく、ここにあるパイエル板と呼ばれる小さなリンパ節の集まった部分に口から摂取された病原体が最初にとりこまれて増殖するものと考えられています。ほかのリンパ組織には、感染性はこれまでまったく見つかっていません。
ところが、BSE病原体に感染したとみなされている変異型クロイツフェルト・ヤコブ病の患者では虫垂、脾臓、扁桃といったリンパ組織に異常プリオン蛋白が見つかります。そこで、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病の患者の血液には、病原体が付着した白血球が入り込む理論的危険性が問題になり、日本でも英国などにBSE大発生時に6ヶ月以上滞在していた人からの献血を拒否しているのです。
もっとややこしいのは、BSEをヒツジに実験感染させると、ヒツジでは、脾臓などのリンパ組織で感染性が見つかることです。BSEを実験感染させたウシの脾臓ではかなり詳細に調べられていますが、まったく見つかっていません。つまり、病原体と動物種の組み合わせで、病原体の増える部位に違いがあるのです。これが混乱を招いている大きな原因です。
ともかく、このアグッチの論文がきっかけで、消費者から牛乳の安全性について心配する声があがってきたのです。そこで英国政府の食品安全局は、牛乳の安全性に問題がないという立場に変わりはないと述べた上で、安全確認実験を2000年に計画して、獣医研究所(Veterinary Laboratories Agency: VLA)で実験が開始されました。
なお、獣医研究所はテニスで有名なウインブルドン近くにあり、かっては中央獣医学研究所(Central Veterinary Laboratory: CVL)と呼ばれていましたが、最近、VLAに改称されたものです。

2001年におけるEU科学運営委員会の見解

2000年秋からのヨーロッパでのBSE発生急増を受けて、EU科学運営委員会はあらためて牛乳の安全性を検討し、2001年3月に見解を発表しています。
その要点は以下のようになります。

  1. これまでに、クールーやCJDの患者,BSEウシ、スクレイピーのヒツジのいずれでも、マウスへの脳内接種で母乳に感染性が見いだされたことはない。
  2.  実験感染で、(サルを含めて)どのような動物種でも母親から子供に伝達性海綿状脳症が伝達された例はない。
  3. 唯一の例外として、1992年に38歳の孤発型CJDの妊娠した女性の初乳が、脳内接種でマウスに感染を起こしたという報告がある。しかし、その成績は確認されていない。(これは北里大学の玉井洋一教授のグループの報告で、発表された時にはとくに関心はもたれませんでしたが、1996年のBSEパニックで一躍有名になったものです。厚生省では緊急の委員会が開かれ、保存してあったマウス脳のサンプルを東北大学の北本哲之教授が調べることになりました。その結果、初乳の接種後に死亡したマウスの脳に異常プリオン蛋白は検出されず、初乳に感染性があったことは確認されていません。この結果は厚生省遅発性ウイルス感染調査研究班の報告書に載せられています。私は英国海綿状脳症諮問委員会委員のレイ・ブラッドレーから依頼されて、この報告を英文に翻訳して提供しており、それが科学運営委員会報告書では、私からの私信として引用されています。)
  4.  クールーやCJDで母親から子供に病気が移った疫学的または実験的証拠はない(これまでに、数例の医原性CJDで妊娠していた患者から生まれた子供がいるが、健康である(1例では30年に達する)。
  5.  これまでにBSEウシの母乳で育てられた子ウシで病気が移った例はない。
  6.  英国でBSEを発病したウシから生まれた子ウシでBSE例が多いということはみいだされていない。英国以外でBSEウシからの子ウシがBSEを発病した例は、これまでに見いだされていない。

以上の検討結果から、これまでに何回かにわたって出されてきた牛乳の安全性に関する見解は現在も変わっていないという結論です。
この委員会での議論で注目される点は、牛乳についての議論がヒトへの感染の危険性だけではなく、ウシでの母子感染を媒介する可能性の面もかならず絶えず取り上げられていることです。肉骨粉だけでなく牛乳もBSEがウシの間で感染の広がりの原因になると、BSE対策の上で大きな問題になるからです。また、ウシの間で感染が起きていなければ、ヒトへ種の壁を越えて感染を起こすことは否定できることにつながります。

英国で進行中の追加実験

前述のように、英国で牛乳の安全性についての実験がふたたび開始されたことが、牛乳の安全に疑問があると一部で受け止められています。そこで、実験内容を実験計画責任者である獣医研究所のダニー・マシューズ博士にメールで問い合わせてみました。数日前にメールで送られてきた実験内容の要点をご紹介します。
「食品安全局から牛乳の安全性についての実験の提案があった際に、これまでの実験成績から大規模実験を行う必要性は科学的には考えられないとの意見を述べた。また、もしも低いレベルで感染の伝達が起きた場合には、サンプリングの際のエラーが必ず問題になる。BSEウシでは、この点にとくに注意しなければならない。そこで、我々が提案した実験は次のとおりである。
まず、10頭ずつ2群のウシにBSEウシの脳1グラムまたは100グラムを食べさせ、定期的に乳を採取して、免疫学的に異常プリオン蛋白の存在を検査する。もしも陽性のものがでれば、その際にマウスへの脳内接種を考慮することになる。」
実験は中間段階であり、まだ何も成績は出ていないとのことです。

BSEの母子感染に関する問題

BSEは肉骨粉を介した経口感染で広がっているとみなされています。現実に肉骨粉の使用禁止措置で英国のBSE年間発生数は2003年には50頭台に低下すると推測されています。しかし、ごくわずかのチャンスであっても、ほかの経路、すなわち、水平感染、母子感染の可能性も考えられます。そのうち、水平感染は野外での発生状況についての疫学的解析から、その可能性はまずないと考えられています。一方、母子感染については、300カ所の農場から1頭のBSE母ウシと1頭の外見上健康な母ウシ由来の子ウシを各1頭ずつ、全部で300頭ずつを七年間、隔離飼育する大規模な実験が行われました。これはブラインドテストで、すべての実験が終了した際にコードが開かれることになっていました。どれがBSE由来で、どれが健康なウシ由来か分からないようになっていて、主観的判断を排除するわけです。ところが、1996年に変異型CJDが見いだされた際のBSEパニックで、行政の圧力がかかってコードが開かれてしまいました。その結果、BSEウシ由来の子ウシで15%、健康なウシ由来の子ウシで5%にBSEが確認されました。その結果から、最大10%の母子感染の可能性があるかもしれないが、それはBSEの流行を維持できるものではないと結論されました。
私は1996年6月厚生省調査団の一員として、CVLに実験責任者、ジョン・ワイルスミス疫学部長を訪ねた時、彼からコードを開けという行政の圧力を受けていると聞かされました。その後、8月にCVLの病理学部長でBSE専門家としてもっとも有名なレイ・ブラッドレーにイスラエルで会った際にコードが破られたことを聞かされて驚きました。その2ヶ月後にふたたびジョン・ワイルスミスを訪れたところ、彼は悲しそうな顔で、この実験で見いだされたBSEの大部分が実際にはブタやニワトリの餌のウシへの餌からの交差汚染による可能性が高いが、コードが破られてしまったのでその後の解析は行えなかったと語っていました。
現在、肉骨粉の全面的規制でEU科学運営委員会は、肉骨粉以外の経路での感染の可能性を詳しく調査しています。肉骨粉が最大の、おそらく唯一の感染原因と考えられるが、わずかの可能性として、牛乳も含めてほかの原因もかかわっているかもしれないという立場です。
そこで問題になっているのが、牛乳が母子感染にかかわってはいないかという点です。その結果は、前述のようにこれまでのところ、その証拠はないという見解になっているわけです。ただし、たしかに乳房炎などで白血球が乳に多く含まれるような場合、わずかの可能性でウシへの感染を起こす可能性は否定できません。もっとも、これは前述のようにウシという同種動物に対しての話で、大きな種の壁のある人間に対するものではありません。

感想

週刊文春の情報源と思われるガーディアンの記事は断片的事実だけでなく、その背景を正確に述べています。一方、週刊文春の方は断片的事実のみをとりあげており、その背景の調査が行われたとは思えません。ガーディアンの記事が出た後で起きたドイツでのBSE初発、その数ヶ月後に出されたEU科学運営委員会の報告なども取り上げるべきです。
ヨーロッパでのBSEをめぐる動きは非常に流動的です。また、BSEに関する安全性の議論は科学運営委員会を中心に活発に行われています。これらの状況はすべてオープンになっています。もっと、しっかりした情報収集を行った上で正しい情報提供を行うのがメディアの義務ではないでしょうか。