人獣共通感染症連続講座 第145回   SARSウイルスと公衆衛生対策

(6/11/03)

 SARSウイルスと公衆衛生対策

SARS出現を契機にウイルスについての関心が高まってきました。そのような背景をふまえて、6月2−5日の4晩にわたって、NHKラジオ深夜便ナイトエッセイ「ウイルスを科学する」という一般向けの話をしました。その際の原稿を掲載します。

(1) ウイルスとは

20世紀は微生物学がめざましい進展を示した世紀でした。細菌感染症の多くは抗生物質で治せるようになり、天然痘、狂犬病、ポリオなど急性のウイルス感染症もワクチンで予防が可能になりました。

しかし、現代社会の発展に伴い、新しいウイルスや細菌などの病原体が続々と出現してきました。その中でも、もっとも社会に大きな衝撃を与えているのがSARSウイルスです。SARSの出現を契機にウイルスについての社会の関心がいちじるしく高まってきました。

そこで、この4回のシリーズでウイルスの特徴と発見の歴史、つぎに、SARS ウイルスの特徴、さらにウイルス感染と人類の戦いの歴史を振り返り、最後に感染症対策における公衆衛生の重要性を述べてみたいと思います。

第1回目の今夜は、ウイルスの特徴と発見の歴史についてお話します。

まず、ウイルスと細菌の違いを簡単にご説明します。両者の間での大きな違いは2つあります。1つは大きさです。多くの細菌は1000分の1ミリメートル前後の大きさです。ウイルスは細菌の10分の1から100分の1と小型です。細菌は普通の光学顕微鏡で見ることができますが、ウイルスは電子顕微鏡でなければ見ることができません。もう一つの違い、これがもっとも重要な点ですが、細菌は1個の細胞から出来ていて、その中に核酸であるDNAと、いくつかの蛋白質などが含まれています。細菌の子孫は、その設計図ともいえるDNAの遺伝情報にしたがって作られるのですが、そのために必要なエネルギー源や蛋白質合成の機能は、その細胞の中に含まれています。つまり細菌は、増殖するのに必要な情報と機能をすべて持っていることになります。

一方、ウイルスは、核酸としてDNAもしくはRNAを持っています。しかし、ウイルスの構造は、細菌のような細胞ではなく、核酸のまわりが蛋白質の殻で取り囲まれた単純な構造のものです。子孫を作るための遺伝情報としての核酸は持っているのですが、その情報にもとづいて子孫をつくるためのエネルギー源や蛋白質合成の機能は持っていません。これらは、すべてほかの生物の細胞に依存しています。したがって、ウイルスはほかの生物に寄生することで、はじめて増殖できるわけです。

ウイルスはさまざまな生物に感染しています。動物では哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、昆虫があります。植物のウイルスもあります。かびや細菌のウイルスもあります。国際ウイルス分類委員会の分類では、全部で3万種くらいのウイルスが見出されています。

そのうち、哺乳類と鳥類に感染するウイルスは約650種あります。しかも、1つの種はさらにいくつものタイプに分けられます。たとえば、人で風邪を起こすウイルスにライノウイルスというのがあります。これは1種ですが、その中に110ものタイプがあります。20年ほど前、米国の国立衛生研究所で人に感染するウイルスを整理してみた結果、平均的アメリカ人は一生の間に200回くらいウイルスに感染していると報告しています。

これらのウイルスの多くは風邪などの軽い症状、もしくはほとんど症状を引き起こさないため、私たちは感染したことも気づかないで済んでいます。

これらの数多くのウイルスのごく限られたものが重い病気を引き起こしているのです。

つぎに、ウイルス感染症の歴史を振り返ってみたいと思います。ウイルス感染症は有史以来、人類を悩ませてきました。その最大のものは天然痘と狂犬病です。

天然痘は、紀元前9000年頃、古代エジプトとメソポタミアの大河流域で人々が農業を始めるようになって、人口が増え始めたために、人々の間で広がるようになったのではないかと推測されています。紀元前1500年には、サンスクリットの医学書に天然痘と思われる病気の流行が書かれています。紀元前1157年に死亡したエジプトの王、ラムセス5世のミイラがカイロ博物館に展示されていますが、天然痘に特徴的な発疹の後がはっきり残っています。

狂犬病については、紀元前1885年、メソポタミア文明を築いたシュメール人の法律に、狂犬病に関するものと思われる文章が残っています。紀元前500年にはギリシアのアリストテレスやヒポクラテスが狂犬病のことを述べています。

しかし、ウイルスが初めて分離されたのはわずか100年ほど前の19世紀の終わりです。それはウシの口蹄疫ウイルスとタバコのタバコモザイクウイルスです。ヨーロッパではウシの間で急速に広がる口蹄疫が畜産上の大きな問題でした。その原因解明をドイツ政府から命令されたフリードリッヒ・レフラーの研究チームが、発病したウシの口や乳房にできた水疱を直接、子牛に接種した結果、1898年、病気を再現するのに成功しました。しかも、その水疱を細菌が通過できないフィルターで濾過しても、子牛に病気を起こせることが確認され、その結果、濾過性の病原体、すなわちウイルスという存在が明らかになったのです。一方同じ年、オランダではタバコの葉に斑点ができるタバコモザイク病で、タバコモザイクウイルスが分離されました。

ウイルスの存在は、ウイルス粒子という実体ではなく、病気を起こす要素として見つかってきたものです。

約50年前、私がウイルス研究の世界に入ったころは、実験動物にサンプルを接種して病気が起こるかどうかを調べてウイルスの存在を推測していました。その後、現在では試験管内で培養した細胞を破壊するかどうかでウイルスの存在を調べるようになりました。どちらの方法もウイルスそのものを見ているのではなく、ウイルスの感染性と病気を起こす能力、つまり生物学的性質から、ウイルスを間接的に検出しているのです。

最近では、ウイルスの遺伝子を検出することで、ウイルスの存在を知ることも可能になりました。物質としてのウイルスも取り扱えることができるようになってきたわけです。

(2)SARSウイルス

今夜は、現在国際的に大きな問題になっているSARSウイルスについて、お話したいと思います。

世界保健機関 WHOが全世界に新型肺炎の発生を知らせたのは3月12日でした。そして、15日には初めてSARSの名前を用い、感染地域への渡航中止の勧告を出しました。

WHOは直ちに世界10カ国13の研究所の協力を得て、原因解明のための国際研究グループを結成しました。4月上旬には、国際的学術雑誌に新型コロナウイルスが患者から分離されたという論文が、ホンコン大学、米国CDC、ドイツの研究所と3箇所からそれぞれ発表されました。そして数日後には全部の遺伝子の配列が明らかにされました。

さらに、オランダの研究所ではカニクイザルに新型コロナウイルスを接種する実験を行いました。サルは3日目には動きがにぶくなり、4日目には呼吸困難となり、解剖した結果、肺炎の起きていることが確かめられました。これらの結果からWHOは新型コロナウイルスがSARSの最大の原因であると結論したのです。

感染症の病原体を確定する条件として、コッホの原則というのがあります。これは100年あまり前にドイツのロベルト・コッホが結核患者から細菌を分離して、これが結核の原因であると決めた際に提唱されたものです。それをSARSにあてはめてみますと、まず患者から、そのウイルスが分離されること、そのウイルスは人に近縁のサルで同じ病気を起こせること、そして病気になったサルからは、同じウイルスが分離されることが条件になります。新型コロナウイルスでは、これがすべて満たされたのです。そして、このウイルスはSARSウイルスと命名されました。

コッホの原則は、細菌について提唱されたもので、ウイルスでは満たせない場合が多くあります。SARSのように、すべてが満たされる場合はきわめて稀です。そのようなウイルスがSARSの原因であったことは幸運ともいえます。しかも、この結論が得られたのは、研究を始めて1カ月くらいでした。本来は競争相手になる研究者たちが国際的に協力したことが、この画期的成果につながったものといえます。

さて、ここでコロナウイルスとは、どのようなものかお話したいと思います。

このウイルスはボールのような球形で、その周囲を太陽のコロナのような構造が取り囲んでいます。そこで、コロナウイルスと命名されました。正確には、コロナウイルス科のコロナウイルス属の1群のウイルスの名称です。

コロナウイルスは核酸としてRNAを持っています。数多くのRNAウイルスの中でコロナウイルスはもっとも大きなRNAを持っています。しかも同じRNAウイルスであるインフルエンザウイルスと同様に変異を起こしやすい性質を持っています。

最初に分離されたのは、ニワトリに気管支炎を起こすコロナウイルスで1937年のことです。その後、ヒトに風邪を起こすコロナウイルスが2種、ウシ、ブタ、イヌ、ネコ、マウス、ラットなどのコロナウイルスも分離されました。これらのコロナウイルスは現在、3つのグループに分類されています。しかし、SARSウイルスはどのグループのウイルスとも、その遺伝子構造がかけはなれています。したがって、これまでに知られているコロナウイルスが変異したものではなく、まったく新しいコロナウイルスとみなせます。ヒトにそのようなウイルスがいたとは考えられませんので、なんらかの動物のコロナウイルスと推測されます。最近、ホンコン大学のチームは中国南部の動物マーケットで売られている動物を調べた結果、ハクビシン、アナグマ、およびタヌキからSARSウイルスを検出したと報告しています。これらが感染源という可能性が出てきたわけです。しかし、SARS患者の便にはウイルスが含まれているので、それが畑の肥料に入り込み、これらの動物へ感染を起こしている可能性もあります。すなわち、現段階では人からの感染の可能性も否定できません。ともかく、SARSウイルスを保有している自然宿主を見つけることは、これからのSARS対策の上で、非常に重要です。

ところで、SARSウイルスの感染は、患者の咳やくしゃみからの飛沫に含まれるウイルスを吸い込む場合がもっとも多いと考えられています。これは、呼吸器感染です。一方、SARSでは下痢も多く起こり、便の中にはウイルスが排出されています。ウイルスを含んだ痰や唾、そして便などが付着した場所を手で触れた結果、その汚れた手から目、鼻、口などの粘膜に感染を起こしている可能性も推測されています。これは、接触感染です。

呼吸器感染に対してはマスクで飛沫を吸い込まないようにすること、接触感染に対しては手をよく洗うことで、感染のチャンスをかなり減少させることができます。

もっとも効果的な対策はワクチンです。現在、ニワトリ、ウシ、ブタ、イヌなどのコロナウイルスについてはワクチンがありますが、これらはSARSウイルスには効果がありません。しかし、これらのワクチンを参考にしてSARSワクチンを開発することは充分に可能です。さらに、もっと新しい技術でワクチンを開発することも可能と思われます。

一方、SARSウイルスはサルで肺炎を起こすことが分かっていますので、開発したワクチンの有効性や安全性はサルを用いて、確認することができます。したがって、将来はワクチンでの予防が可能と考えられます。しかし、候補のワクチンができるまでには1−2年、そしてヒトに接種できるようになるには、さらに長期間かかるかもしれません。

発病した人に対する治療薬については、まだ展望はありません。米国ではすでに開発されていて、まだ承認されていない薬が4万種類ほどあり、それらについて、まず培養した細胞でのSARSウイルスの増殖を抑えるものを見つける研究を始めています。もしも、そのような薬があれば動物実験で実際の効果を調べることになります。しかし、これは運にまかせるしかありません。一方、新しい薬を開発するとなると、通常では10年くらいかかります。

(3)感染症との戦い

今夜は感染症と人類の戦いについてお話したいと思います。

有史以来、人類はいくつものウイルス感染症に悩まされてきました。その最大のものは天然痘です。1796年、ジェンナーによる種痘の開発は人間とウイルス感染症の戦いの始まりになりました。当時はもちろんウイルスの存在は知られていませんでした。しかし、牛痘にかかったヒトの病変部の膿を接種することにより天然痘の予防が可能になったのです。この時、ジェンナーは種痘をどんどん広めていけば、やがて世界から天然痘が根絶できるだろうと予言していました。

ジェンナーの天然痘根絶のアイディアが取り上げられたのは150年後、第2次世界大戦終了後の1959年でした。そして本格的な根絶計画が始められたのは1966年でした。それから10年あまり後、1977年にソマリアで出た天然痘患者を最後として、患者の発生はなくなり、1980年、WHOは天然痘の根絶を宣言しました。長年にわたって人類を悩ませてきた最大の感染症に対する人類の勝利でした。

WHOは天然痘に引き続いて麻疹やポリオの根絶計画も発足させました。

一方、すでに細菌感染症の多くは抗生物質で治療できるようになっていました。そこで、人類は感染症を克服できるという期待が生まれてきました。感染症の時代は終わり、これからはガンや生活習慣病の時代になったと考えるようになりました。感染症を研究する人の数も減少していきました。

しかし、まもなく、感染症の克服は幻想に過ぎなかったことが明らかになりました。1980年代初めにはすでにエイズが広がり始めていました。また、1960年代終わりに突如出現したマールブルグウイルスを初め、ラッサウイルス、エボラウイルスなどの出血熱ウイルスが1970年代にかけて姿を現してきていました。

1993年、WHOと全米科学者協会は、これらの新たに出現して社会的に大きな影響を与えている感染症をエマージング感染症として、地球規模での監視の必要性を提唱したのです。エマージング感染症の病原体のうち、ウイルスはとくに危険性が高く、一般にエマージングウイルスと総称されています。

ところで、これまでに見いだされたエマージングウイルスのほとんどは動物とくに野生動物が保有するものです。ウイルスは第一回目にお話したように、動物に寄生して存続しています。その宿主である動物を死亡させてしまうと、自らも死滅してしまいます。したがって、宿主の動物となるべく平和共存することがウイルスの存続に必要です。エマージングウイルスの多くは、この種のものです。キラーウイルスと呼ばれることがよくありますが、本来の宿主ではキラーではなく、平和共存しているウイルスです。それがたまたま、ヒトに感染するとキラーに変身しているのです。

このように、ウイルスが本来の宿主から別の動物に感染すると、致死的感染を起こすことは珍しくありません。その典型的な例をご紹介します。

ほとんどのヒトは成人になるまでに、単純ヘルペスウイルスに感染します。このウイルスは神経細胞の中に潜んでいて、普通はまったく健康に影響を与えません。しかし、風邪を引いたりストレスを受けたりすると、神経細胞から口の粘膜にウイルスが移動してきて、唇などに潰瘍を作ります。いわゆるヘルペス潰瘍です。これが治ればウイルスはまた、神経細胞に隠れてしまいます。ところで、これとまったく、同じタイプのウイルスがサルに感染しています。これはヘルペスBウイルスと呼ばれるもので、サルでは病気はほとんど起こしません。しかし、時折、サルの唇にヘルペス潰瘍を作ります。このような時に、ヒトがそのサルの唾液に触れたりすると、感染することがあります。その場合には70%という高い致死率になります。

ところで、エマージングウイルスが認識された当初は、それらのほとんどは野生動物から直接、人間に感染していました。たとえば、ラッサ熱はウイルスを保有するネズミの尿に含まれるウイルスがほこりなどに付着して、それを吸い込むことで起きていました。ところが、1998年にマレーシアで発生したニパウイルス病では、自然宿主のコウモリからまずブタが感染し、ブタの体内で増えたウイルスがヒトに感染するという新たな伝播の様式を示しました。家畜がエマージングウイルス伝播の中継場所になるという新たな問題提起になったわけです。

しかし、これまでに起きてきたエマージング感染症では、動物から感染したヒトが、別のヒトに感染をうつすことはほとんどありませんでした。例外ともいえるのはエボラ出血熱ですが、この場合には病院の中で同じ注射器の使い回しを行ったり、患者の血液に直接触れるといった、濃厚な接触でもって感染が広がっていました。

ところが、SARSでは患者の咳やくしゃみによる飛沫を吸い込む呼吸器感染が最大の感染様式になっています。この場合、1メートルくらい離れたところでも感染の起こる可能性があります。こうして、ヒトの間で容易に感染が広がるのがSARSの特徴です。現代のグローバル化した社会では、感染したヒトが発病する前の潜伏期中に飛行機でほかの国に移動することも起こります。その結果、世界の各地にSARS が広がってしまったのです。SARSが全世界に大きな影響を与えている理由には、ヒトの間で容易にうつるウイルス感染症であることと、グローバリゼーションの現代社会という、2つの要因がかかわっています。

20世紀はウイルス根絶を目指した時代でした。しかし、それが幻想であることが明らかになった現在、ウイルスとの共生が求められていることを認識しなければならなりません。これからもSARSのようなウイルスが出現する可能性を念頭に置いて準備態勢を整えておくことが必要です。明日は、この点についてお話したいと思います。

(4).未知の感染症への対策

SARSウイルスは、おそらくなんらかの動物に昔から存在していたものが、たまたま人間に感染したものと考えられます。このようなウイルスが自然界にどれくらい存在しているのか、まったく分かりません。

実際、これまでに新たに出現してきて問題になっているウイルスのほとんどは、野生動物のウイルスです。しかし、野生動物に存在するウイルスについては、私たちはほとんど知っていません。

たとえば、1996年にオーストラリアでヘンドラウイルスという新しいウイルスによる人の致死的感染が起こりました。そして、その3年後にはマレーシアでニパウイルスという、これも新しいウイルスによる人の致死的感染が起こりました。この2つのウイルスは同じグループのものであって、いずれもコウモリのウイルスということが分かりました。そこで、コウモリについてウイルスの調査を始めたところ、あらたに3つのウイルスが見つかったのです。そのうちの1つは、狂犬病ウイルスとほぼ同じものでした。実際に、オーストラリアでは、このウイルスに感染して死亡した人も出ました。コウモリだけで、5つのウイルスが見つかり、そのうち、3つは人に致死的感染を起こすものだったのです。

地球上の野生動物の種類を考えると、私たちが知っているウイルスはほんのひとにぎりということになります。

現代社会は発展していき、野生動物の世界と人間の世界の間の距離は短くなってきています。未知のウイルスが人間社会に出現することは、これからも続くものと考えなければなりません。その中にはSARSウイルスのように、人の間で広がっていくものもあるはずです。

未知のウイルスに対して、人間は免疫を持っていません。ワクチンもありません。そのようなウイルスに対して我々が頼れるのは、公衆衛生対策です。

公衆衛生は社会の健康を守るためのものです。そして、それを通じて個人の健康も守ることになります。20世紀の後半、感染症にさらされる機会が減少し、感染症は過去のものと考えられるようになるとともに、公衆衛生という言葉は忘れられてきました。

SARSは、この公衆衛生対策がどのようなものか、そしてそれがどのようにして社会を守るのか、目の当たりに示してくれています。

ここで、感染症に対する公衆衛生対策について考えてみたいと思います。公衆衛生対策の基本は2つあります。まず、感染・発病したからほかの人に感染が移らないようにするための対策で、これは患者の隔離です。もう一つは、発病はしていないが、患者と接触したために感染した可能性のある人を対象とするものです。本来、これは検疫と呼ばれるものですが、日本では、空港などで行われているものだけと一般に受け止められています。検疫という言葉は英語ではquarantineで、イタリア語で40という意味の言葉です。14世紀にイタリアでペストの蔓延を防ぐために、感染した可能性のある人たちを40日間、隔離したことから、付けられた呼び名です。すなわち、自宅での健康監視なども、本来は検疫の概念に相当します。

SARSで行われている対策も、この2つの原則にもとづいています。これは100年前のものと基本的には同じものです。しかし、100年前と現在では、その内容に違いがあります。

患者の隔離の面では、科学の著しい進歩により、SARSの場合、ウイルス遺伝子の検出や抗体の検出という確定診断が可能になりました。隔離病室の設備も高度の安全対策がほどこされたものになっています。すなわち、隔離までのステップに関しては、昔とは比較にならない高度のものになっています。

一方、感染した可能性のある人、すなわち接触者に対する対策は昔よりも複雑かつ困難です。多数の人々の移動がはげしい現代社会では、接触者の追跡はきわめて難しい課題になりました。今回、台湾から来た医師の場合、数日の滞在期間の間に接触した可能性のある人が2600人も見出されました。個人の人権やプライバシーに配慮しながら、多数の接触者の追跡がいかに困難かということが分かると思います。

ここで、20世紀最大の感染症となったエイズと21世紀初めに出現したSARSを比較してみたいと思います。エイズの原因であるヒト免疫不全ウイルスはちょうど20年前の5月に明らかにされました。しかし、それまでには2年間かかっています。SARSでは1月もかかっていません。この大きな違いをもたらした要因には、WHOの調整のもとに緊密な国際的研究協力が行われ、その研究成果に関する情報はインターネットにより即時に全世界に発表され、国際的な情報の共有が行われたことです。また、ヒトゲノム計画などで遺伝子解析技術が進歩していたことも貢献しています。エイズの場合、遺伝子解析技術は生まれたばかりでした。インターネットはまだ生まれていません。

公衆衛生対策の面では、エイズに関する情報は発生当初、同性愛者の病気といった偏見から、むしろ隠されてしまいました。そして、その間に全世界に広がってしまいました。一方、SARSでは情報開示が積極的に行われておりこれが制圧に貢献しています。

有史以来、感染症に悩まされてきた人類は、公衆衛生対策のおかげで、多くの感染症の心配から開放されました。その結果、現代社会は感染症についての関心を失い、感染症制圧の原動力になってきた公衆衛生についても、関心が低下してきました。SARSはこの忘れられた公衆衛生の重要性を再認識させてくれたといえます。ウイルスには国境がありません。SARSのような新しいウイルスに対する公衆衛生対策はその国の人々の健康を守るだけでなく、世界の人々の健康に対する責任でもあります。未知の感染症に対して我々が頼れるのは、地球規模での公衆衛生対策なのです。