1900年代から1930年代にかけて、パスツール研究所に留学した3名の日本人微生物学者の、留学中の写真を入手したので、入手の経緯などを、簡単に紹介する。
山内保博士
パスツール研究所で学んだ最初の日本人は、おそらく山内保博士である。彼は、1906年帝国大学東京医科大学(現・東京大学医学部)を卒業してすぐにパスツール研究所に留学し、1907年以来、梅毒スピロヘータ、睡眠病トリパノゾーマなど、当時のホット・トッピクスについて数々の論文を発表している。1917年に帰国したのち、1919年のスペイン風邪の流行の際にインフルエンザウイルスを発見して、ランセット誌で報告していた。
山内博士の名前を知ったきっかけは、2010年に旧友のテキサス大学教授のフレッド・マーフィ(Fred Murphy)からのメールだった。1919年のランセット誌に掲載されたインフルエンザウイルス発見の論文の著者、T. Yamanouchiは私の親戚だろうから、彼の写真を送って欲しいと言ってきたのである。私とはまったく関係のない人物だったが、医科学研究所(医科研)の図書室の協力で山内保の名前が分かり、「インフルエンザウイルスを最初に発見した日本人科学者」という記事にまとめ、雑誌「科学」(岩波書店)2011年8月号で紹介した。(本連載34に転載)
それから10年後、2021年突然、森田由紀さん(東大史料編纂所共同研究員)から、山内博士についての問いあわせのメールが届いた。彼女が翻訳したエリ・メチニコフ著『メチニコフの長寿論:楽観主義的人生観の探求』(中山書店)の序文を執筆していたパスツール研究所名誉教授のジャン=マルク・カヴァイヨン博士(Jean-Marc Cavaillon)から、序文にメチニコフ研究室で活躍したT. Yamanouchiのことにも触れたいので、ファーストネームを教えて欲しいとの依頼を受けて、検索した結果、私のホームページ記事を見つけたとのことだった。
こうして、偶然、米国とフランスから、別々にT. Yamanouchiについての問いあわせが届いたのである。
ところで、フレッドから依頼された山内博士の写真は、旧知のジル・ディルミティス(元・国際事務局出版部長)がパスツール博物館のコレクションの中から見つけてくれた。1911年メチニコフを団長としたロシア調査団のメンバーの集合写真である。山内博士は、サリンベーニ、ビュルネとともに、団員の1名に選ばれていたのである。この調査団の目的は、北コーカサスのカルムイクにおける結核と中央アジアのキルギスにおけるペスト発生の調査だった。
なお、ロシア側の代表のタラセビッチはのちにタラセビッチ生物製剤研究所を設立した。私は、この研究所を1972年と1974年に訪れたことがある。
前列左から:山内保、義妹ペロコビトワ、イリヤ・メチニコフ、夫人オルガ・メチニコフ、アレッサンドロ・サリンベーニ、エティエンヌ・ビュルネ
後列ロシア側メンバー:左から3番目からタラセビッチ、クロドニスキ
細谷省吾教授
カヴァイヨン博士からは、ふたたび日本人科学者についての調査依頼が森田さんあてに送られてきた。
黄熱を中心とした熱帯ウイルス病の研究を行っていたジョルジュ・ステファノポウロ博士(Georges Stefanopoulo)と一緒に、3名の日本人が写っている写真を見つけて、これら日本人の名前を調べて欲しいという依頼だった。
医科研の図書室で調べて貰ったところ、左から2人目の男性は、医科研の前身の伝染病研究所(伝研)メンバーの集合写真で、前列の左から2人目に写っている細谷省吾教授であることが判明した。その隣は細谷夫人と推測された。
左端の男性は宮田重雄画伯だった。細谷教授は1927年からパスツール研究所に留学していた。そして、たまたま絵の修行にパリに来ていた宮田重雄画伯(慶応大学医学部卒業の医師)を誘って、共同で細菌毒素の研究を行っていた。なお、宮田重雄画伯は終戦後、NHKの「二〇の扉」で有名になっている。
細菌毒素の専門家の細谷教授が、ウイルス専門のステファノポウロ博士を訪ねていたことは意外だった。
その疑問はすぐに解消した。細谷教授は中村家に生まれ、兄の中村豊博士も伝研に在籍したことがあった。そこで中村博士の経歴を調べたところ、1920年、北海道大学医学部の初代細菌学教授に就任した際、2年間、ドイツとフランスに留学していたのである。
中村博士はウイルスが専門だったので、ステファノポウロ研究室に留学していた可能性も考えられた。しかし、カヴァイヨン博士に調べてもらったところ、中村という日本人は在籍していなかった。ともかく、同じ専門領域の研究者として、ステファノポウロ博士と旧知だったことは間違いない。こうして、写真は、弟の細谷博士夫妻が宮田画伯とともにステファノポウロ博士に挨拶に行った際に撮影されたものと推測された。
長野泰一博士
長野泰一博士(後に伝研所長)は、中村教授の弟子で、1936年から1939年まで、ステファノポウロ研究室に留学していた。これは、中村教授の紹介によるものと推測される。
長野博士は、1938年には彼と共著のリフトバレー熱ウイルスの論文を2編、発表している。森田さんあてに、カヴァイヨン博士からは、ステファノポウロ博士と長野泰一博士のツーショットが送られてきた。
そのメールでは、長野博士が小島保彦博士とともに、1954年、ウイルス抑制因子を発見したが、その際、重大な失敗をしたと書かれていた。長野博士は、フランス語を愛するあまり、この成果をCompte Rendus Seances Societe de Biologie(生物学会誌)にフランス語の論文で発表したのである。ウイルス抑制因子は、3年後にアイザックス(Isaacs)とリンデンマン(Lindenmann)が英国の学術誌に発表したインターフェロンという造語に置き換えられた。長野博士らがインターフェロンの最初の発見者であることは、日本では良く知られているが、海外ではほとんど知られていない。
長野博士は日仏学術交流に熱心に取り組んでいた。1932年に発足し、第二次世界大戦中、途絶えていた日仏生物学会の再開に尽力され、伝研所長の長谷川秀治教授に会長を依頼し、長野博士は副会長となって、この学会を支えていた。そして、フランスの学術誌に論文を投稿していたのである。
文献
小高健:『伝染病研究所・近代医学開拓の道のり』学会出版センター、1992.
山田守英:中村豊先生のウイルス研究を顧みて。ウイルス、4,75-87、1953.