157. ジェンナー没後200年記念

新型コロナウイルス感染を機会に、ワクチンへの関心はかつてないほど高まった。歴史上、最初のワクチンがジェンナーの種痘であることは、ほとんどの人が知っている。しかし、ジェンナーがどのような苦労をして種痘を開発したのか、そして種痘がどのように受け止められたのか、知る人は皆無に近い。

 

今年は、ジェンナー没後200年にあたる。彼の種痘開発は、ウイルスや細菌が見つかる以前、感染症や免疫の概念もなかった時代に、ナチュラリストとしてのジェンナーの鋭い観察力に支えられていた。没後200年記念を機会にジェンナーの生涯とその偉業を紹介する。

 

1.生い立ち

 

エドワード・ジェンナーは、1749年5月17日、イングランド南西部のグロスター州の美しい田園に囲まれたバークレイで牧師スティーブンとサラの8番目の子供として生まれた。6歳になる直前、母親(46歳)、続いて父親(52歳)が死亡した。2人の兄たちは80キロ離れたオックスフォードの学校に行っており、彼は3人の姉、メアリー(26歳)、サラ(16歳)、アン(13歳)の家族の中で育てられた。

 

1757年、8歳の時、グラマースクール(初等中学校)に入学し、校長の家に下宿した。その頃、天然痘が発生したため、ジェンナーは数名の友人とともに人痘種痘を受けた。当時、天然痘の予防には、天然痘患者の膿やかさぶたを接種して人為的に天然痘にかからせていたのである。それは、まず6週間にわたる準備から始まった。ジェンナーの友人フォスブローク牧師の言葉によると、「彼は、血液がきれいかどうか確かめるために採血された。繰り返し採血されてやせ細り衰弱するまで続けられた。きびしいダイエットのため食事は少量にされ、血液を薄めるためにダイエット・ドリンクを与えられた。この後、接種小屋に入れられて友人たちと一緒につながれ、恐ろしい病気にさらされたが、誰も死ななかった。幸い、ジェンナーは軽い症状ですんだ。」この経験がジェンナーの牛痘種痘開発に大きく関わった。

 

ジェンナーは翌年には、バークレイから約30キロ離れたサイレンスターで聖職者のウォシュバーンの寄宿学生となって、ラテン語とギリシア語を学んだ。12歳の夏と推測されているが、バークレイから20キロ弱、ブリストルの近くのソドベリーの外科医ジョン・ラドローのところに弟子入りし、6年あまり薬学と外科を学んだ。1768年、ラドラーのところにひとりの女性が皮膚の化膿で受診した。彼女は、自分は乳をしぼっている際にしばしば牛痘と呼ばれる病気にかかっているので、この化膿は天然痘によるものではないと主張していた。彼女の言葉から、ジェンナーは牛痘に関心を持ち始めた。

 

 

1770年秋、21歳のジェンナーはロンドンのセント・ジョージ病院の主任外科医ジョン・ハンターの弟子になった。ハンターは近代外科の父と呼ばれた革新的な外科医であり、さらに有名なナチュラリストだった。ジェンナーはハンターの家に住み込んだ最初の生徒で、ほかにエヴァラード・ホームとヘンリー・クラインが一緒だった。ホームはハンター夫人の弟で、後に王立外科医師会の初代会長になり、クラインは3代会長をつとめた。クラインは最初の牛痘種痘をロンドンで行い、その普及に協力した。ホームはのちにジェンナーの牛痘種痘の強力な支持者になった。

 

セント・ジョージ病院での2年あまりのコースを終えたジェンナーは、ロンドンで高い収入のある医師として働くことができたが、バークレイの田舎での医師の道を選び、1773年にバークレイに戻った。診療のかたわら、彼は牛痘にかかると天然痘を予防するという言い伝えが事実かどうか確かめるために、牛痘にかかった人が天然痘患者に接触しても発病しなかった実例を集め始めた。

 

2.牛痘の由来

 

1778年、ジェンナーは牛痘にかかった経験があるひとりの女性に実際に人痘種痘を行ってみて、彼女が発病しないことを確かめた。これが彼の牛痘についての研究の最初とみなされる。彼は牛痘の天然痘に対する予防効果に確信を持ち始めた。そして、牛痘という病気についての観察も行った。

 

1780年、ジェンナーは親友のエドワード・ガードナーに牛痘の由来について、「馬のかかとの病気が牛に牛痘を引き起こしているのであって、これが乳搾りの人を天然痘から防いでいるのだ。これを人の間で植え継いでいけば、天然痘を完全に絶滅させることができるだろう」と語っていた。ジェンナーは1801年に発表した論文で、牛痘種痘による天然痘根絶の可能性を強調していたが、その発想は20年以上前から抱いていたのである。

 

当時、牛痘は乳搾りにより指にできる発疹のことを指しており、その原因は一様ではなかった。ウイルスも細菌も見つかっていない時代に、すぐれたナチュラリストだったジェンナーは綿密な観察から、牛痘は馬由来と考えるようになっていたのである。

 

現在、馬痘ウイルスはゲノム解析により、ワクチニアウイルス(天然痘ワクチンのウイルス)の仲間であることが明らかにされている。ワクチニアウイルスは野生齧歯類が保有するウイルスである。これが馬の脚に感染して、グリース(馬痘)と呼ばれる皮膚病を起こし、その手当をした手で牛の乳搾りをすることで、馬痘ウイルスが牛の乳房に感染して、牛痘を起こしていたと考えられる。グリースという病名は、病変部から油のような液体がにじみ出ることから付けられていた。牛痘ウイルスは馬痘ウイルスやワクチニアウイルスとは別のものである。ゲノムの時代にジェンナーの観察が正しかったことが証明されたのである。

 

3.牛痘種痘の試み

 

天然痘予防法として、ジェンナーは牛痘を人から人に植え継ぐことを考えていた。このアイディアを実際に試す機会は、1796年5月14日に訪れた。サラ・ネルムズという若い女性が、ブロッサム(Blossom;花の意)という名前の雌牛から乳をしぼっていた時に指にバラの棘がささって牛痘に感染し、それが腫れて大きな疱疹になったため、ジェンナーの診療所に治療を受けに来た。(図1)

ブロッサムの皮は、現在、ジェンナーの母校、ロンドン大学セント・ジョージ病院で展示されている。(図2)

ジェンナーは彼女の疱疹を牛痘と診断して、人から人への接種を初めて試みた。彼の家の庭番の息子、8歳のジェームズ・フィップスの両腕の皮内に半インチ(1.27 センチメートル)の長さにメスで浅い切り傷をつけ、ネルムズの手にできた疱疹の漿液を塗りつけた。

 

48日後の7月1日、予防効果を確かめるために、ジェンナーはフィップスに人痘種痘を行った。天然痘ウイルスによる攻撃試験である。フィップスは発病しなかった。ジェンナーは7月19日、この結果を友人のガードナーに「約束通り、私は牛痘の性状についての研究を進め、満足すべき結果を得た。君も喜んでくれると思うが、ワクチン・ウイルスを一人の人から別の人に通常の接種方法で植え継ぐことに、ついに成功したのだ。」と知らせていた。

 

フィップスの実験結果に満足したジェンナーは、それまでの研究成果を論文にまとめて、ロンドンに行き王立協会会長のジョセフ・バンクス*に提出した。しかし、わずかの実験例でもって斬新すぎる結論を発表して、これまでのジェンナーの名声に傷を付けることは避けるべきとして、論文は差し戻された。この時までにジェンナーが得ていた成績は17例で、人為的に牛痘で種痘を行って天然痘に対する防御効果を確かめたのはフィップス1例だけだったのである。ほかの16例はすべて牛痘に自然感染したのち、人痘種痘もしくは天然痘に暴露された際に発病しなかったこという人たちだった。

 

*ジェンナーは、ハンターの下での弟子修行の時代の1771年、バンクスがキャプテン・クックのエンデバー号の航海に同行して持ち帰った新種の動物のコレクションの目録を作成した。ナチュラリストとしてのジェンナーの才能をバンクスは高く評価し、それ以来、生涯の友となった。ジェンナーは、1787年にカッコウの托卵の習性を明らかにして、王立協会会員になっていた。

 

ジェンナーは実験の追加を目指したが、1796年半ばからバークレイ地方では牛痘の発生はなかった。1798年春、乳牛で牛痘が発生した。そこで新たに23例の牛痘種痘を試みることができた。それには、乳牛から接種した後、人の間で5代植え継いだ例も含まれていた。ジェンナーはその成績をまとめて、「イギリス西部とくにグロスター州で見いだされ、牛痘の名前で知られている病気ワリオラエ・ワクツィーナエ*の原因と効果に関する研究」という表題の論文を書き上げ、扉にはローマの詩人で哲学者のルクレティウスの「真偽を見分けるのに自分の感覚に勝る確かな試験があるだろうか」というラテン語の言葉を引用した。この文章には、ジェンナーの牛痘種痘の天然痘予防効果についての確信が示されている。論文の冒頭は「凶暴さを奪われた狼は今や婦人のひざかけの下にうずくまっている。我々の島の小さな虎である猫、その本来の住みかは森林だが、同様に手なずけられ、かわいがられている。」という詩的文章で始まっている。現在の弱毒ワクチンにつながる考えである。そして、結論として、牛痘種痘が人痘種痘と異なり、安全で、ほかの人に感染を広げる危険もないことを主張した。この歴史的論文は、6月21日付けで友人のパリー医師に捧げられた。(図3)

ジェンナーは、この論文を王立協会に提出することなく、自費出版することにした。論文は、1798年9月17日、ロンドン・ソーホーの出版社サンプソン・ローから発売された。75ページの本文に4例の腕の種痘病変が原色で付けられたものである。(図4)

*病気の学名としたワリオラエ・ワクツィーナエは、当時普及しはじめたリンネの2名法にしたがってジェンナーが名付けたもので、ナチュラリストとしての彼の姿勢が反映されている。ラテン語でワリオラエ(variolae)は天然痘の複数形、ワクツィーナエ(vaccinae)は雌牛(vaccaワッカ)の派生名詞の複数形。

 

4. 急速に普及した牛痘種痘

 

1798年4月、ジェンナーは牛痘種痘の疱疹から採取した透明な漿液を、羽根ペンの茎に詰めて乾かし栓をしてロンドンに持参した。しかし、引き受けてくれる医師はみつからず、3ヶ月間の滞在を終えて失意のままバークレイに戻った。その際、セント・ジョージ病院時代からの友人ヘンリー・クライン医師に漿液を預けていった。クラインは、天然痘予防の効果は期待していなかったが、牛痘の刺激が関節の病気に効果があるかもしれないと考えて関節炎の子どもに接種してみた。ところがその後、人痘種痘を行ってみたところ、子どもは発病しなかった。クラインは8月2日付けの手紙でジェンナーにこの実験成績を報告した。クラインは牛痘種痘が人痘種痘と異なり安全で、しかも高い予防効果を示すことに驚嘆し、牛痘種痘は医学上の最大の功績であると書いていた。まもなく彼から、田舎を離れてロンドンで牛痘種痘を行うよう勧める手紙が送られてきた。そこには、牛痘種痘が優れていることを聞いた国王の侍医が年俸1万ポンドを保証してくれると書いてあった。しかし、ジェンナーはバークレイにとどまる道を選んだ。

 

バークレイに留まったジェンナーは自宅の庭の藁葺き屋根のあづまやで地域の人たちへ牛痘種痘を行いながら研究を続けた。あづまやは現在、ジェンナー博物館の一隅に「種痘の聖堂」として保存されている。後ろ側には樹が生い茂っており、これはジェンナーが自然の景観を保つために植えたものだった。(図5)

第2の論文「牛痘についてのその後の観察」はこの時期に書かれ、1799年4月25日付でこれも最初の論文と同様、パリー医師に献呈された。ここでジェンナーは、牛痘には真の牛痘と偽の牛痘があって、真の牛痘でなければ天然痘は予防できないことをとくに強調していた。牛痘にかかった後で天然痘にかかったという農民の例は偽牛痘で、真の牛痘ではなかったと説明していた。

 

偽の牛痘は、現在は偽牛痘ウイルス(パラワクチニアウイルス)と呼ばれる別のウイルスによる病気とみなされている。これは牛痘ウイルスとは抗原性が異なり、天然痘に対する免疫を生じない。

 

1799年、ジェンナーは国王ジョージ3世から、最初の論文「イギリス西部とくにグロスター州で見いだされ、牛痘の名前で知られている病気ワリオラエ・ワクツィーナエの原因と効果に関する研究」の第2版の献呈を許すという丁寧な手紙を受け取った。1800年3月7日、彼はセント・ジェームズ宮殿で、国王に拝謁し第2版を捧げた。王妃シャルロッテにも拝謁した。彼女は自分自身と子供たちが皆、人痘種痘を受けており、そのうち息子のひとりが人痘種痘で死亡していたので、安全かつ確実ということは彼女にとって非常に大きな意味を持っていた。王室に認められたことをジェンナーは誇りに思い、非常に喜んだ。

 

1800年には、第3報となる論文「ワリオラエ・ワクツィーナエ、牛痘に関する事実と観察・続報」がサンプソン・ローから出版された。ここで、ジェンナーはそれまでに6000名以上が牛痘種痘を受け、そのうちの大部分に対して人痘種痘が行われたが発病しなかったことを述べている。そして論文の終わりに、「絶えず犠牲者をむさぼってきた人類のもっとも恐ろしい疫病、天然痘が、牛痘の温和な形で、地球上から絶滅される日が来ることを、確信をもって祝福しても良いのではないだろうか」と締めくくっていた。翌1801年には、第4報の論文「ワクチン接種の起源」という論文で、牛痘種痘の開発の経緯を振り返り、すでにヨーロッパ諸国を初めほかの国々でも牛痘種痘の恩恵を受けた人は数え切れないことを指摘し、再び、世界的天然痘根絶が最後の目標と述べている。

 

その頃、英国全土では少なくとも10万名が牛痘種痘を受けていた。陸軍と海軍でも採用されていた。ジェンナーは1799年、東インド会社の船クイーン号でインドへのワクチン輸送を試みたが、船は火災で沈没してしまった。次々とインドに送られたワクチンは輸送中に効力を失っていた。そこで彼は、天然痘にかかったことのない人20名と医師を乗船させ、まず1人に牛痘種痘を行い、航海中に腕から腕へ植え継ぐことを提案した。しかし、この案は受け入れられなかったので、彼は自費で1000ポンドかけて船にワクチン保存設備を設ける計画をたてた。しかし、結局これも実現しなかった。1801年、東インド会社により別の経路で届けられた。

 

1801年に、ジェンナーは「種痘の手引き」を書いた。これは短いパンフレットだが、彼は前置きで、「牛痘種痘は天然痘を効果的に予防するが、危険性はなく、特別なダイエットや薬を必要とせず、あらゆる年齢の人に年間どの季節でも行える」と述べている。そして、ワクチンの採取方法、接種方法、正しい接種が行われた場合の症状、接種に失敗した場合の症状、接種部位の取り扱いの際の注意について詳しく説明していた。人痘種痘医が自分の方法を秘密にしていたのと正反対で、牛痘種痘の普及に努力している彼の姿勢がうかがえる。

 

1803年には、ロンドンに王立ジェンナー協会が設立され、3年後に政府の支援を受けて国立種痘施設となった。ジェンナーは所長に任命されたが、名目だけの所長職に失望し、翌年には辞任してバークレイに戻った。

 

1812年に国立種痘施設の報告書では、天然痘が猛威をふるっていたハバナでは2年間の死者は皆無となり、スペイン領アメリカでも消失し、ミラノやウイーンでも同様だった。フランスでは適切な牛痘種痘を受けた267万1662人のうち天然痘にかかったのは、わずか7人だった。

 

1813年にはオックスフォード大学から名誉医学博士の学位が贈られた。これにより王立医師協会の会員に自動的になれるはずだったが、会員になるにはラテン語の試験を合格しなければならないという鉄則があった。ジェンナーは「今更勉強し直すのは、とんでもない」としてラテン語の試験を拒否し、会員にはならなかった。

 

5.晩年のジェンナー

 

1815年9月13日、妻のキャサリンが結核で死亡した。ジェンナーは、体力の衰えが進み、時折診療を行いながら、バークレイで過ごすようになった。ナチュラリストとして、子供の時から続けていた化石採集も行っていて、1819年には6500万年前の首長竜の化石を見つけている。これは英国では初めての発見だった。

 

1820年、庭を散歩していた際、ジェンナーは突然意識を失い倒れた。友人のジョン・バロン医師が駆けつけ、徐々に回復したが、雑音とくに高音に過敏になったままだった。1821年、72歳の誕生日の直前には、国王ジョージ4世の特別侍医に任命された。

 

1823年1月24日の寒い朝、一緒に住んでいた甥ヘンリーの息子、スティーブンと庭を散歩していた時、救急診療の依頼が寄せられ、すぐに出かけて、お茶の時間には戻ってきた。翌朝、ジェンナーが朝食に現れないため使用人が行ってみると床に倒れていた。脳卒中の発作で右半身が麻痺していた。バークレイからすぐにヒックス医師が呼ばれ、次いでバロン医師が午後に到着し、大量の瀉血を施した。しかし、効果はなく、翌朝、1月26日午前2時、74歳の誕生日を4ヶ月前に控えて、ジェンナーは死亡した。

 

ジェンナー死去の知らせはロンドンにも送られた。友人たちは彼の遺体が納められる場所はウエストミンスター寺院しかないと考え、遺族に申請することを勧めた。しかし、ジェンナーの控えめな性格から公式行事ではなく、近親者だけの葬儀が2月3日にバークレイで行われた。

 

グロスター州の医師の集まりでジェンナーの像をグロスター寺院に設置する計画が立てられた。しかし、募金の目標とした700ポンドに達するまでに月日が経ち、1825年にオックスフォード大学のガウンをまとった大理石像が設置された。(図6)

 

6.国民的英雄にならなかったジェンナー

 

ジェンナーの功績は高く評価されるようになったが、英国では高い評価だけでなく、牛痘種痘への批判や反対が続いた。牛痘種痘が受け入れられた最大の理由は人痘種痘と比べて、非常に安全ということだった。しかし、それまで人痘種痘で高額の報酬を得ていた医師からは牛痘種痘は必ずしも安全ではないといった批判が出された。彼らの重要な収入源が絶たれたためである。

 

牛痘種痘が普及し、英国では人痘種痘は1841年に法律で禁止された。さらに1853年には牛痘種痘が義務づけられた。最初はあまり強制的ではなかったが、徐々に厳しくなり違反者への罰金が繰り返されるようになり、ワクチン反対運動が起きてきた。1880年代に、反対運動グループは医学界や議会に影響力を持つ強力なロビー活動を行うようになった。1889年には王立委員会が結成されて、牛痘種痘の効果と安全性が議論された。あらためてジェンナーの役割が評価されたが、ワクチン反対グループはジェンナーを攻撃するようになった。一方、ワクチンの効果は否定しないものの、ジェンナーの役割は過大評価されているといった批判も現れた。

 

1858年、ロンドンのトラファルガー・スクエアで、ジェンナーの銅像の除幕式が牛痘種痘の熱心な支持者だったアルバート王子の出席の下で行われた。ここにはトラファルガー海戦でフランス・スペイン艦隊を破ってナポレオンによる英国侵攻を防ぎ、みずからは戦死した英雄ネルソン提督の銅像が中央に置かれている。4隅に台座があり、南西部の台座にジェンナー像が置かれたのである。これがワクチン反対グループの怒りを買い、議会への圧力により4年後に銅像はケンジントン公園に移された。天然痘根絶宣言から30年後の2010年に、ジェンナー像をトラファルガー・スクエアに戻す活動が行われたが実現しなかった。世紀にわたる災厄から人類を救ったジェンナーよりも20年にわたるナポレオンの脅威から英国を救ったネルソンの方が高く評価されたままになっている。(図7)

 

7.20世紀に設立されたジェンナー博物館

 

パスツール博物館は、彼が生存中の1888年に設立され、地下には彼の壮麗な墓所が設けられている。ジェンナー博物館が設立されたのは没後145年後である。1966年、バークレイにおけるジェンナーを記念するためにジェンナー・トラストが結成され、1968年にジェームズ・フィップス(最初に種痘を受けた少年)の小さな家が博物館となった。これは、ジェンナーが感謝の意をこめてフィップスに建ててやったものだった。

 

1980年代、グロスター教会区の所有になっていたジェンナーの住居が売却されることになった。そこで、ジェンナー・トラストと英国免疫学会が協力して記念館のための募金活動を始めたが、英国内での募金は集まりが悪く、最大の募金者は船舶振興財団の笹川良一会長で、50万ポンドを寄付した。ジェンナー博物館は、1985年5月10日に開館された。博物館の本館は住居を改修したもので、その横に笹川会議センター(馬車の御者の住居を改造したもの)が設けられ、庭の片隅にジェンナーが村人に種痘を行っていた、種痘の聖堂が保存されている。(図8)

私は1996年、種痘200年記念の年にジェンナー博物館を訪れた。向かい側にバークレイ城があって多くの観光客が訪れていたが、ジェンナー博物館の方はひっそりしていた。たまたま所長のイワン・ベイリー氏が声をかけてくださり、一家のお墓がある教会の中も案内していただいた。(図9)

最初の博物館は、普通の住宅になっており、壁面に貼り付けられた小さな説明板に「種痘を最初に受けたジェームズ・フィップスがジェンナーから贈られた家」と書かれていた。(図10)

 

8.21世紀に設立されたジェンナー研究所

 

ジェンナーより約100年後、狂犬病ワクチンを開発したパスツールはフランスの国民的英雄となり、1887年、パスツール研究所が設立され、1895年に死亡した時、葬儀は国葬で行われた。しかし、ジェンナー研究所は、以下に述べるような複雑な経緯を経て、種痘開発の200年後に設立された。

 

パスツール研究所設立の2年後に、英国ではパスツール研究所に匹敵する研究所設立の動きが始まったが、ジェンナーの名前は付けられず、英国予防医学研究所と命名された。王立協会会長のジョセフ・リスターが委員長となってジェンナー基金が設けられて、この研究所を母体として1897年、初めてジェンナー予防医学研究所が設立された。ところが、すでにロンドンに民間のジェンナー痘苗研究所があって、名称の優先権を主張された。その結果、リスターの意思ではなかったが、1903年にリスター予防医学研究所に名称が変更されてロンドン大学に付置された。のちに天然痘根絶で広く用いられた天然痘ワクチンは、この研究所のリスター株である。なお、リスターは、石炭酸による消毒法を開発して安全な外科手術を可能とした功績により男爵の位を授けられ、国葬で葬られた。

 

1996年、種痘200年記念の年、オックスフォード大学と動物衛生研究所の共同施設として、エドワード・ジェンナー・ワクチン研究所が設立された。当初は動物衛生研究所の建物の一部を利用して発足した。

 

私は、当時、医科学研究所で開発した弱毒天然痘ワクチンをベクターとした組換え牛疫ワクチンの牛を用いた実験を動物衛生研究所で行っていた。設立直後にバーン動物衛生研究所長に仮住まいのワクチン研究所の中を案内してもらった。

 

2年後にオックスフォード大学に新しい建物が建設され、2005年にオックスフォード大学とパーブライト研究所(動物衛生研究所が改組されたもの)の連携によるジェンナー研究所となって活動を始めた。この研究所には適正製造規範(GMP)に適合する臨床用バイオ製薬施設(CBF)も備えられていて、研究開発から臨床試験用のワクチン製造まで自力で行える。臨床試験ではオックスフォード大学の臨床部門が対応する。他に例を見ない理想的なワクチン研究所になっている。

 

2020年1月、新型コロナウイルス感染症が発生した際には、ワクチン設計から65日という短期間で臨床試験用ワクチンを製造した。12月には、オックスフォード・アストラゼネカワクチンとして接種が開始され、4ヶ月間に172ヵ国に届けられた。超低温冷凍ではなく冷蔵保存のこのワクチンは、エコノミスト誌によれば、ほかのどのワクチンよりも多くの人命を救っていると評価された。この研究所の創始者ジェンナーの遺産は確実に受け継がれている。

 

文献

山内一也:近代医学の先駆者:ハンターとジェンナー。岩波書店、2015.

 

John Baron: The Life of Edward Jenner: With Illustrations Of His Doctrines And Selections From His Correspondence. Henry Colburn, 1838.

ジョン・バロンはジェンナーの遺言執行人から伝記の出版を依頼され、多数の手紙などを元に本書をまとめた。

 

Sarah Gilbert & Catherine Green: Vaxxers. Inside Story of the Oxford Astrazeneca Vaccine and the Race Against the Virus. Hodder & Stoughton, 2021.(黒川耕大訳『ヴァクサーズ:オックスフォード・アストラゼネカワクチン開発奮闘記』みすず書房、刊行予定)