表記の本が岩波書店から刊行されました。「はじめに」と目次をご紹介します。
はじめに
バクテリオファージ(通称、ファージ)は細菌のウイルスで、三八億年前から細菌とともに進化してきた。地球上いたるところにファージは存在している。われわれの身体の中にも一〇〇〇兆を超えるファージが共生している。
ファージは特定の細菌だけに感染して増殖し、その細菌を溶かす。ファージの細菌を殺す能力を利用して、細菌感染を治療するファージ療法は、一九二〇年代から始まり、一九四〇年代には多くの国で行なわれたが、第二次世界大戦の終結後、ペニシリンなどの抗菌薬の時代が到来し、東欧諸国の一部を除いて忘れ去られていた。
しかし、一九八〇年代から新たな展開が始まった。薬剤耐性菌の蔓延による死亡者数の急増である。現在の状態が改善されなければ、二〇五〇年には薬剤耐性菌による世界の感染症の年間死亡者数が、ガンによる死亡者の八八〇万人を上回る一〇〇〇万人に達すると推定されている。薬剤耐性菌による経済的損失は一〇〇〇億ドルに達するとも言われている。薬剤耐性菌の問題が深刻化するとともに、ファージ療法が注目されるようになったのである。
一方、単細胞の細菌を宿主として短時間に増殖するファージは、試験管内で容易に取り扱える実験モデルとして、一九四〇年代から生命の謎を追究する科学者たちを惹きつけた。ファージの研究は、分子生物学を誕生させ、組換えDNA技術やゲノム編集の技術を生み出し、バイオ医薬品開発の重要な基盤技術になっている。
ファージ療法を中心に、ファージに魅せられた多くの科学者たちの活動を振り返ってみる。
目次
プロローグ:ファージ療法で奇跡的に回復したトム・パターソン
ナイル川の船上での最後の晩餐
最悪の薬剤耐性菌アシネトバクター・バウマニ
ゲーム・チェンジャーになったファージ療法
1章 細菌の溶解現象:ハンキンとトゥオートの観察
ガンジス川の水にはコレラ菌を殺す力が存在する
細菌が産生する透明化物質
2章 独学の細菌学者フェリックス・デレーユ:成功までの道のり
放浪の細菌学者
イナゴの細菌で出会った透明斑
バクテリオファージの発見
ファージ療法を思いつく
ファージ療法の成功
パスツール研究所内での論争
コラム:プロファージ説を提唱したアンドレ・ルヴォフ
定職についたデレーユ
ファージ療法が主題となった小説『アロースミス』
五年間で終わったイェール大学教授
3章 スターリン政権のもとで進展したファージ療法
グルジアでのファージ研究所設立計画
第二次世界大戦がもたらしたファージ生産の最盛期
4章ファージ療法の衰退
抗菌薬時代の幕開け
冷戦時代に残っていたファージ療法
5章 ファージの研究から生まれた分子生物学
物理学者から生物学者へ転身したマックス・デルブリュック
ファージ研究を始めたサルバドール・ルリア
ファージ・グループの結成
コラム:細菌学から独立したウイルス学
コラム:ファージ研究の成果を動物ウイルス研究につなげたレナート・ダルベッコ
6章 原始的な生命体のファージと細菌の共生
ファージの多様な世界
ファージに対する細菌の防御機構、制限修飾
細菌の獲得免疫システム、クリスパー・キャスナイン
細菌とファージの生存競争
コラム:抗体医薬開発の基盤技術となったファージディスプレイ
7章 ファージ療法の復活
「ファージ研究のファースト・レディ」エリザベス・カッター
ファージ療法に飛びついたカナダ人投資家
インドに設立されたファージ療法の新興企業ガンガジェン
食品添加物として承認されたファージ製品
進み始めたファージ療法
エピローグ