ワクチン以前の麻疹の予防法
20世紀のはじめには、まだ牛疫ウイルスが麻疹ウイルスの先祖ということは分かっていません。結果的に眺めてみると、麻疹の予防の歴史は、先に述べた牛疫の予防の歴史を追いかけています。ワクチンが開発される以前の1916年、チュニジア・チュニスにあるパスツール研究所のシャルル・ニコル(Charles Nicolle)は麻疹回復者の血清10 mlの注射を行うと一時的に麻疹に対する予防効果がみられることを発表しました(1)。ついで回復血清を注射し、続いて急性期の患者の血液(ウイルス)の同時注射による免疫を試みました。この方法は長期間にわたって予防効果があったため、当時メディアは麻疹の制圧ができるようになると報道しました。この二つの方法は牛疫で免疫血清と発病した牛の血液を同時に注射する方法とまったく同じでした。
実は、彼は牛疫ウイルスを分離したモーリス・ニコル(Maurice Nicolle)の弟でした。そのため、牛疫については強い関心を持っており、これらの予防方法を牛疫にならって考案したのです。なお、彼は発疹チフスのシラミ媒介をチンパンジーでの実験で証明した業績に対してノーベル賞をもらっています。
ニコルの免疫血清法による方法はさらに改良され、1940年代には人免疫グロブリンの注射として広く用いられるようになりました。1964年にはWHOが麻疹抗血清の国際単位を導入し、標準品が配布されました。それを元に予研で私たちはサルで国内標準品を作り、検定基準に麻疹抗体測定を追加したのです(2)。人免疫グロブリンは現在も免疫不全などのリスクのある人がワクチン接種前に麻疹に暴露されたおそれのある場合に用いられています。
初期の麻疹ワクチン(KL方式)
1953年にエンダース(John Enders)は麻疹の研究を始め、1954年に少年の学校の寄宿舎で麻疹が流行した際にエドモンストン(Edmonston)という少年の血液やうがい液を人胎児細胞に接種した結果ウイルスの分離に成功しました。これは現在までエドモンストン株という代表的な麻疹ウイルスとして、広く研究に利用されています。1960年には通称エンダース・ワクチンが開発され、1963年に承認されました。しかし、初期のワクチンは副反応が強かったため、それを軽減するために人免疫グロブリンとの併用が必要でした。これは本シリーズ30回牛疫の中村ワクチンで行われた方式です。しかし免疫血清は調節が難しく、まもなく不活化(Killed)ワクチンの投与後、生(Live)ワクチン投与というKL方式に切り替えられました。
エンダース・ワクチンに続いて、大阪大学微生物病研究所の奥野良臣教授のワクチン(ニワトリの胚細胞培養)、ソ連のレニングラードワクチン、伝染病研究所の松本稔教授のワクチン(ウシの腎臓細胞培養)が開発され、1962年に麻疹ワクチン研究会でこれらについての比較実験が行われました。その結果、1966年には奥野ワクチンと松本ワクチンがKL方式で承認されました(3)。
ところが1962年頃から新たな問題が起きてきました。KLやKKL(Kワクチン2回後Lワクチン)の接種を受けた子供が自然麻疹にかかる例が出始め、その場合の麻疹はより重症(高熱、異なる発疹の分布、肺炎の併発など)で、通常の麻疹とは異なる臨床症状を示したことから、異型麻疹と呼ばれたのです。その原因は、KワクチンによりLワクチン免疫が成立せずにKワクチンの免疫だけが残っていて、それによるアレルギー反応と考えられました。
現在の麻疹ワクチン(FLワクチン)
そこで、単独で使用できる高度弱毒ワクチン(Further attenuated live vaccine: FL)として、米国ではシュワルツ(Schwarz) ワクチン、日本ではCAM ワクチンとAIK-Cワクチンが開発されました(4)。CAMは漿尿膜(chorioallantoic membrane)に順化したことで付けられた名称です。AIK-Cの名称は開発者の北研の牧野慧博士が付けたものです。当時イランの国立ラジ血清研究所(Razi Serum Institute)から私が勤務していた予研の私の研究室と北里研究所に麻疹ワクチンについての研修生が来ていました。日本では次に述べるように、ニワトリ白血病ウイルス・フリーのSPF卵から調製した細胞でワクチンを製造していましたが、イランではSPF卵の入手が困難なためにヒツジの細胞で作れないかという相談が彼から持ちかけられたのです。これがきっかけになって、北研ではエドモンストン株をヒツジ腎臓細胞で増殖させ、そこから低温変異株を分離することにより弱毒ワクチンを開発するのに成功しました。アメリカのウイルス株を用いたことからA、それにイランのIと北里研究所のKを合わせてAIKとし、chick embryo cellでよく増殖する株を選んだことでCをつなげたものです。
初めて採用されたSPFニワトリの孵化卵でのワクチン製造
奥野ワクチンは孵化鶏卵の胚細胞培養でワクチン・ウイルスを増殖させたものでした。孵化鶏卵の場合、外来性のウイルスに汚染している可能性はほとんどなかったのですが、例外としてニワトリ白血病ウイルスが問題になりました。これはレトロウイルスの一種で多くのニワトリで不顕性感染を起こしており、卵を介して雛に伝達されています。このウイルスは人には感染しませんが、ワクチンの品質管理では病原性の有無にかかわらずワクチン・ウイルス以外にほかのウイルスが含まれていてはいけないことが鉄則です。
しかし、当時、ニワトリ白血病ウイルスの汚染がないニワトリを飼育していたのは、カリフォルニアのキンバー農場(Kimber Farm)だけでした。元来、このウイルスの検出法を開発したのはカリフォルニア大学のルービン(Harry Rubin)教授と花房秀三郎博士(後に文化勲章受章)で、彼らの指導によりニワトリ白血病ウイルス・フリーのSPFニワトリが作出され、それが彼らの研究用に加えて米国の麻疹ワクチン製造にも利用されていたのです。(SPF: specific pathogen free、特定の病原体フリー)
ニワトリ白血病ウイルス・フリーの卵が存在している以上、それを使用すべきであるという宍戸亮予研麻疹ウイルス部長の決断で、製造と検定にキンバー農場の卵を輸入することになりました。1ドルが360円の当時、卵1個の価格は1500円近くになった。これがワクチン製造用にSPF動物を用いる最初の例となりました。ニワトリの卵の輸入は家畜伝染病予防法では規制の対象です。すでに種鶏用の卵がこの法律にもとづく許可を受けて輸入されていましたが、これらの卵にはもちろんニワトリ白血病ウイルスは汚染していました。しかし、SPF卵は現在輸入されている卵と同等にみなすことはできないというのが農林水産省の姿勢でした。科学では理解できないこの見解から輸入許可をとるのに、輸入責任者だった私は大変苦労させられました。結局、輸入当初は研究室の査察も受け、使ったニワトリ細胞の高圧蒸気滅菌による処理状況も見てもらうことにして許可がおりました。もっとも査察は1,2回でそれ以後自然消滅しました。ニワトリ白血病ウイルス・フリーのSPFニワトリはそののち日本でも作出され、現在のCAMワクチンとAIK-Cワクチンは国産のSPFニワトリの孵化卵で製造されています。
麻疹の排除
これまでに述べてきたように、天然痘と牛疫は根絶され、ポリオが根絶を目指しています。麻疹では、その前段階としての排除が目標になっています。
1989年、WHOは麻疹の世界的対策の目標を設定し、1990年に開かれた世界こどもサミットで麻疹ワクチンの接種率を高めることが合意されました。その内容は、ワクチン接種を始める前の時期と比較して、1995年までに患者の発生率を90%減らし、死亡率を95%減らすこと、そして、2000年までにワクチン接種率を90%に高めることでした。
1999年には米国では麻疹の流行は存在していないと結論されました。発生していたのは、海外から旅行者が持ち込んだウイルスによるものでした。
日本では、麻疹対策は非常に遅れていました。2003年の患者数は約7−8万人、2004年には1万数千人と推定されました。当時はワクチンの接種率が70%を下回っていたためです。ワクチン接種キャンペーンが始められ2005年には接種率が90%を超えてきました。
WHOは2002年、ヨーロッパ地域での麻疹排除を2010年までに達成する目標を立てました(5)。しかし、2010年に発生がゼロだった国は8カ国だけでした。しかも5カ国(ボスニアヘルツェゴビナ、イスラエル、ロシア、スイス、ウズベキスタン)では、2007年から2010年の間に発生が起きていました。その結果、2010年9月に53加盟国は排除の目標を2015年に延期することを決定しました(6)。一方、日本を含むWHO西太平洋地域では2003年に2012年までに排除することを宣言しました。2008年までには37加盟国のうち24カ国でほぼ排除されたとみなされましたが、日本を含めて多くの国でいまだに発生が続いています(7)。
文献
1. Nicolle, C. & Conseil, E.: Pouvoir preventif du serum d’un malade convalescent de rougeole. Bull. Et mem. Soc. Med. D. hop de Paris, 42, 336-338, 1918.
2. 宍戸亮、山内一也:人免疫グロブリンの麻疹抗体価(国際単位)の測定. 日本医事新報 2428, 43-47, 1970
3. 奥野良臣、上田重晴:麻疹の予防.奥野良臣、高橋理明編:麻疹・風疹,朝倉書店,1969, pp103-133
4. Makino S: Development of live AIK-C measles vaccine: a brief report. Rev. Infect. Dis. 5, 504-505, 1983
5. CDC: Progress toward measles elimination-European region, 2005-2008. Weekly Morbidity Mortality Report, 58, 142-145, 2009
6. CDC: Progress toward the 2012 measles elimination goal-Western pacific region, 1990-2008. Weekly Morbidity Mortality Report, 58, 669-673, 2009
7. Spotlight on measles 2010: Measles elimination in Europe-A new commitment to meet the goal by 2015. Eurosurveillance, Vol. 15, Issue 50, 16 December 2010
http://www.eurosurveillance.org/ViewArticle.aspx?ArticleId=19749