1. プリオン病 |
牛海綿状脳症 (Bovine spongiform encephalopathy: BSE) は牛の離乳食に蛋白源として加えられていた羊の内臓がたまたまスクレイピーに汚染していたために牛の間で拡がったことにより起こった病気です。 スクレイピーは代表的なスローウイルス感染とみなされてきました。 そして、初老期の人に起こる脳の変性疾患であるクロイツフェルト・ヤコブ病 (Creutzfeld-Jakob disease: CJD) に極めて良く似ています。 これらの病原体は高圧蒸気滅菌やホルマリンでも完全には不活化されず、紫外線にも極めて高い抵抗性を示します。 しかも、これまで多くの研究で核酸の証明が試みられたにもかかわらず、核酸はまったく見つからず、その本体は長い間、なぞとされてきました。 1980年代初めにカリフォルニア大学のスタン・プルシナーStanley Prusinerが蛋白が本体であるというプリオン説を発表しました。 この説では蛋白が核酸を鋳型とすることなく自己複製をするということになり、分子生物学の中心ドグマに反するということになります。 丁度、この説が発表されて間もなく、仙台で国際ウイルス学会が開かれた際に彼の発表はものすごい反発に合ったことを今でも良く覚えています。 しかし、その後、彼のプリオン説は着々と固められ、今ではごく少数の人達を除いては彼の説はほぼ受け入れられたといえます。 昨年、ノーベル賞の前段階ともいわれるラスカー賞を受賞したことは、このことを示したものとみなせます。 昨年、私が主催した日本ウイルス学会でも特別講演をしていただきましたが、その際の発表を中心に書いてもらった総説の日本語訳が蛋白質・核酸・酵素12月号に載りましたので興味のある方はお読みください。 また、全般的なことを知りたい方は私と九大・立石潤教授が編集した「スローウイルス感染とプリオン」(近代出版、1995)をお読みください。 余談ですが、最初私達はスローウイルス感染という題名を考えていました。 プルシナーにたまたま箱根に行く電車の中でこのことを話したところ、プリオンは別にしろという意見で、考えてみると、もはやプリオンはウイルスの範疇ではありませんので当然のこととして、上記の題名にした訳です。 ところでプリオンは現在では細胞の遺伝子が作る蛋白で、正常のプリオン蛋白がなんらかの機構で修飾を受けると不溶性の異常プリオン蛋白になり、これが神経細胞に蓄積してスポンジのような空胞変性を引き起こすといわれています。 そしてスクレイピーやCJDはプリオン病と呼ばれるようになりました。 CJDは中年以降、日本では50才代半ばに多く発病します。 年間有病率は人口100万人に1人です。 最後は痴呆の症状が激しくなり、ほとんどが1年以内に死亡します。 スクレイピーは羊と山羊に起こるプリオン病です。 18世紀にはヨーロッパで大流行を起こし、畜産に大きな被害を及ぼしました。 世界中でスクレイピーの存在しない国はオーストラリアとニュージーランドだけです。 日本もフリーでしたが1974年にカナダから北海道に輸入した羊により持ち込まれ、東北、関東、九州にも拡がりました。 ただし日本では羊の飼育頭数が少ないので、大きな流行にはなっていません。 |
2. CJDのスクレイピー起源説 |
CJD、スクレイピーいずれもサルに伝達でき、臨床的にも脳病変の病理組織変化でも非常に良く似ています。 これらの病原体は抗体を産生せず、通常の微生物のように血清反応で区別することは不可能です。 CJDのほかにパプアニューギニアの原住民の間で発生していたクールーという病気がありますが、これはCJDが食人の風習で地方病として拡がっていたものです。 クールーとCJDが伝達性のものであることは米国NIHのカールトン・ガイドユセック博士がチンパンジーをはじめ各種サル類への実験的伝達で明らかにしました。 彼はこの研究でノーベル賞を1960年代半ばに受賞しました。 彼は日本にも何回か来ています。 彼はCJDは羊のスクレイピーが人間に移ったものという作業仮説を1977年に提唱しました。 その根拠になったのはイスラエル在住のユダヤ人のうち、リビア系のユダヤ人ではCJDの発生がイラクや西ヨーロッパ系のユダヤ人の30倍も高いという事実でした。 リビア系のユダヤ人は羊の眼球を好んで食べるので、スクレイピー病原体が高い濃度で含まれる眼球を介して感染したのであろうという考えです。 この説は大変な反響を引き起こしました。 しかし、これまでの検討の結果、否定的な意見が大半を占めています。 その主な点は人類は200年以上、スクレイピーにさらされてきたが、スクレイピーとCJDを結びつけるような事実は知られていない。 スクレイピーにさらされるおそれの多いハイリスクの人達、すなわち獣医師、屠場作業員、食肉業者でもCJD発生率は正常である。 スクレイピーが存在しない国でもCJD発生率は変わらない。 一生、菜食主義者の人でもCJDになる。 といったことです。 さらに最近リビア系ユダヤ人ではプリオン遺伝子の変異があり、遺伝素因が高い発病にかかわっていることが明らかになっています。 したがって、CJDのスクレイピー起源説はほぼ否定されているとみなせます。 |
3. BSEとCJD |
子牛の離乳食として羊の内臓と骨粉が加えられています。 BSEはたまたまスクレイピーに感染していた羊のものが混じっていたことが原因で英国の牛の間にスクレイピーが拡がって起きたものと考えられています。 1986年に最初の例が病理組織学的に確認され、1989年に発生はピークに達しました。 現在までに15万頭以上の牛が殺処分されています。 羊のスクレイピーが人間に感染する危険性は前に述べたように否定的ですが、羊から牛に移った病原体が人にこないという科学的な証拠はありません。 この点が大問題な訳です。 BSE発生以来、この問題は畜産物の貿易にもからむ国家的問題になっています。 BSEが人間に感染した証拠はこれまでまったくありません。 しかし、数年にわたる長い潜伏期のプリオン病ですから、これから出てくる可能性があります。 最近、ランセットに続けてこの問題にかかわる報告が載りました。 その内容をかいつまんでご紹介します。 まずヨーロッパでの1994年におけるCJDの発生状況の調査を見ると英国での発生率はほかの国とほぼ同じです。 54名という死亡者数は1985年の2倍ですが、これは1986年にBSEの報告が出てから、CJDの診断法が改良されたためとみなされています。 一方、BSE汚染がある牧場従業員でのCJDによる死亡が1993年3月、9月、1995年9月に1名ずつ、計3名が報告されました。 これは決して多い数ではなくBSEが原因とはいえないというのが公式の見解です。 さらに最近19才と16才の少年のCJDが見つかったという報告がランセットに出たそうです(この号はまだ私の研究所には届いていません)。 この少年の例についてはBSE感染牛との関連はみられないが、政府の委員会では調査が必要と言っているそうです。 Animal Pharmの情報では、英国の獣医局長Chief Veterinary Officer (日本では農水省畜産局衛生課長) の推定で、毎週700頭の感染牛が食用に屠殺されているとのことです。 これは1頭の感染牛に対して、まだ症状が出ていない感染牛が2頭いるということに基づいています。 ただし英国では屠殺する際に、BSE病原体が含まれている可能性がある組織として、脳、脊髄、脾臓、胸腺、扁桃、腸管を除くことになっているので、安全性は十分に考慮されていると述べています。 しかし必ずしもこの規則が守られていない例もかなり見つかり、政府は取締をきびしくすることになりました。 消費者団体の報告では英国人はこれまでにすでに150万頭の汚染牛を食べたことになり、1986年以来一人あたり80回汚染牛を食べたことになると言われています。 サンデータイムスの調査では16名の科学者のうち7名が牛肉を食べたことからCJDになる可能性があるという意見だそうです。 最近、学校での昼食のメニューからは牛肉がなくなってきているとか、牛肉の販売量が20%減ったということも伝えられています。 |
4. 医薬品の安全性 |
小人症の治療には下垂体成長ホルモンが投与されています。 これは人の下垂体から抽出したものでした。 ところが1980年代半ばにこのホルモンが原因とみなされるCJD患者が米国で5例、英国で1例、ニュージーランドで1例があいついで見いだされ大きな問題になりました。 死体の下垂体から成長ホルモンを抽出していたのですが、死体の中にCJD患者が含まれていたことが原因です。 この頃、私は医科研に居りましたが、となりの建物にニュージーランドの先生が居て、この問題についてかなり議論をしたことを覚えています。 幸い、この時には遺伝子組換え技術による成長ホルモンの開発が終了しており、非常に短期間で組換えホルモンに切り替えられたことで根本的な問題解決が得られました。 しかし、このような解決は例外です。 たとえば血液製剤の安全性についてみると、かつてこれが問題になった時、前に述べたガイドユセックはチンパンジーへの血液製剤の接種実験を行いとくに発病例はなかったとしていますが、科学的に安全性を証明したものではありません。 最近、プルシナーは人のプリオン遺伝子を導入したトランスジェニックマウスを作成して、これがCJDの検出に役立つことを報告しています。 今後、この方式がさらに改良されれば実用性も期待できるかもしれません。 今のところ、人の臓器を原料とした医薬品のCJD汚染の検出は不可能です。 医薬品でのCJD汚染の問題に今度はBSEの問題が加わった訳です。 ヨーロッパ共同体ECは1992年に牛由来医薬品の安全性についてのガイドラインを作成しています。 その詳細は長くなりますし、「スローウイルス感染とプリオン」の中で紹介していますので、ここでは省略します。 日本にはBSE が存在しないから関係ないとはいえない事態も起きています。 牛の臓器を原料とした医薬品、医療材料はいろいろあります。 それをヨーロッパに輸出している日本の企業がBSE汚染がないことを証明しなければ輸入が認められないと言われて私のところに相談に来たこともあります。 最近、この分野で真剣に取り組んでいるのはトランスジェニック羊の乳腺に医薬品を作らせるいわゆる動物工場です(本講座第18回参照)。 英国に本部があるPPL社では来年から羊で作ったアルファ・アンチトリプシンの臨床試験を開始するところまで来ています。 この会社ではスクレイピー汚染のないニュージーランド産の羊が隔離飼育されて動物工場となっています。 製品にスクレイピーが含まれていないことの確認は前にも説明したバリデーション validation で行われています(本講座第20回参照)。 すなわち精製の各過程で実際にスクレイピー病原体を加え(スパイキング spiking と呼ばれます)、各過程でどれ位除去されるか実際に調べて除去効率を求める方式です。 スパイキングによるバリデーションは今後バイテク医薬品の安全性評価に重要な方式ですので、別の機会にもう少し詳しく取り上げてもよいと考えています。 |