今から丁度200年前の1796年5月14日にエドワード・ジェンナーEdward Jennerは8才の少年ジェームス・フィップスJames Phippsの腕に乳しぼりの女性サラ・ネルメスSarah Nelmesの手に出来た典型的な牛痘病変から採った材料を接種しました。 これが種痘の最初であり、ワクチンの幕開けでした。 今年はジェンナー200年記念の催しがかなり開かれそうです。 英国では4月にジェンナーの住んでいたバークレー近くのブリストル大学で免疫学会がジェンナー記念シンポジウムを開きます。 ここでは過去の歴史だけでなく、種痘ワクチンをベクターとした第2世代のワクチンとして、すでに実質的に実用化の段階に入っている狂犬病ワクチンの話題も取り上げられます。 これは私の親友のリージュ大学のポールピエール・パストレ教授が話します。 日本でもワクチン、感染症などのシンポジウムが獣医学会、ウイルス学会、臨床ウイルス学会などで開かれます。 正月最初の講座でもありますので、種痘をめぐる雑談をさせていただきます。 |
1. 人獣共通感染症としての牛痘 |
牛が感染していた牛痘はまさに人獣共通感染症です。 この場合はワクチンとして人類に役立つよう利用されたわけです。 利点の方が強調されているので、人獣共通感染症というとらえ方はあまりされていません。 牛痘ウイルスは牛由来と思っている人が多いと思いますが、実はこのウイルスの自然宿主は分かっていません。 感染が見いだされているのは牛のほかに猫と動物園の色々な動物およびドブネズミです。 牛や動物園の動物が直接または間接に自然宿主動物から感染を受けていると想像されています。 1970年代後半にモスクワの動物園で牛痘が流行した際には餌として与えていたラットが原因ではないかと疑われ、ラット血清を調べたところ50%が抗体陽性で、またウイルスも分離されたという報告があります。 英国ではかなり多くの飼い猫の間で牛痘の流行が起きたことがあります。 自然宿主として疑われているのは野ネズミで、これが牛や飼い猫の感染源になり、牛や猫から人が感染を受けると想像されています。 動物園の流行では野ネズミからラットを介したものと考えられています。 このほか野ネズミから直接、動物園やサーカスの動物に感染が拡がったと考えられる例もあります。 日本では牛痘ウイルスの存在はみつかっていません。 |
2. ワクチニアウイルス |
天然痘根絶に役だった種痘ワクチンの成分はワクチニアウイルスです。 一方、ジェンナーの使ったものは牛痘ウイルスということになっています。 両者を同じものと考えている人も多いようですが、実はまったく別のものです。 ところで、ワクチニアウイルスは人によってはワクシニアウイルスと呼ばれています。 しかし私をはじめ昔からこのウイルスを取り扱ってきた人達はワクチニアです。 ワクチンという言葉はパスツールがジェンナーの業績を記念してラテン語の雌牛を意味するvacaから付けた名前で、ワクチニアはワクチンから来ています。 もしもワクシニアというのであればワクシンという呼び名もあってしかるべきです。 多分英語でヴァクシン、ヴァクシニアと発音するのがワクシニアになったものと私は想像しています。 このような混乱の原因のひとつに微生物学用語集でのミスがあるのではないかと私は考えています。 これはウイルス学会、細菌学会、免疫学会が合同で用語の統一をはかったものです。 ここではワクシニアになっています。 発行されてから、このことに気がついて私が担当の先生(ワクチニアウイルス研究の第1人者で、ご本人はワクチニア派です)に話したところ、校正の際に見落としていたことが分かりました。 その後、改訂版でも多分直っていないと思います。 したがって権威ある用語集と正統派を自負している私達古い人間の間の食い違いはまだまだ続きます。 ワクチニアウイルスの起源もまた謎につつまれています。 自然界ではワクチニアウイルスはみつかっておりません。 完全に実験室内のみです。 このウイルスの起源については次のような仮説があります。
この3つの仮説について色々な状況証拠から議論が行われてきましたが、結論は出ていません。 このことについては私の北里研究所時代の恩師で、ジェンナーの崇拝者で、ジェンナー研究者として有名な故、添川正夫先生が名著「日本痘苗史序説」(近代出版)に書かれています。 しかし、現在ではワクチニアウイルス・コペンハーゲン株と痘瘡ウイルス・バングラデッシュー1975株の全遺伝子配列が明らかになっており、それらを見ると、上記の仮説のいずれでもなく、多分別々のものである可能性が強くなっています。 なお、余談ですが、ワクチニア、痘瘡ウイルスいずれも200,000塩基もある動物ウイルスでは最大のウイルスであるにもかかわらず、その全塩基配列の決定という労力が払われた理由をちょっと触れておきます。 ワクチニアウイルスの場合、コペンハーゲン株がフランスのベンチャー、トランスジーンが中心になって組換えワクチンのベクターとして利用を試み、その成果が狂犬病ワクチンになっていたことが背景にあります。 一方、痘瘡ウイルスは天然痘根絶後、世界で2箇所(CDC とモスクワのウイルス製剤研究所)の実験室にだけ残されています。 CDCには予研など全世界からの450サンプル、モスクワにはブラジル、ボツワナ、コンゴ、エチオピア、インド、インドネシア、パキスタン、タンザニア、旧ソ連からの150サンプルが保存されています。 全塩基配列の決定が終了した後、1995年6月30日までに廃棄の予定でした。 しかし廃棄には賛否両論があり、いまだに実行されていません。 多分、今年の8月にエルサレムで開かれる国際ウイルス学会で再び論争が再燃するのではないかと思います。 |
3. 種痘ワクチン |
ジェンナーは前に述べたように牛痘に自然感染した人の材料を別の人に接種する方式いわば人為的な2次感染を起こさせていたことになります。 この方式がその後しばらく続きます。 日本に種痘が輸入されたのは1849年です。 オランダから長崎に届いた牛痘苗(種痘ワクチンは当時からつい最近まで痘苗が正式名称でしたので、以後、痘苗と書きます)が人から人へ伝えられました。 長崎から江戸まで痘苗を運ぶといっても接種された子供が旅をしていくわけで、あまり日数がかかると病変が治ってウイルスはなくなってしまいます。 また、各藩では天然痘にかかっていない子供を集めておいて、痘苗の継代を行うシステムを作っていました。 牛や羊の皮膚で痘苗を製造する方法は150年位前、ナポリの医師ネグリNegri(狂犬病のネグリ小体の命名者とは別人です)が考案したものです。 私が40年前、大学を卒業して北里研究所に入所した際の業務は牛での痘苗製造で、研究テーマは凍結乾燥痘苗の耐熱性の改良でした。 400キロもある牛を仰向けに寝かして(これも重労働でした)お腹をすっかり剃り、きれいに洗ってから床屋のバリカンの片側だけのような器具でお腹全面に縦横に浅い傷をつけ、そこに原苗すなわちストックウイルスを塗ります。 まさに畑に苗を植えるようなものです。 1週間位すると全面に種痘の場合と同様の潰瘍病変が出来てきます。 これを掻きとったのがワクチンの原材料(粗苗)になります。 1頭から20万人分ものワクチンが出来ます。 -20℃に保存しておいて(当時はレブコはありません)、ワクチン製造時に半分凍った状態の粗苗をきざんでグリセリン液を加えてホモゲナイザーにかけた後、遠心したものが痘苗、すなわち種痘ワクチンです。 余談ですが、粗苗をはさみできざんでいた時に指がすりむけて(何時間もの完全な手作業でした)、そこから大量のウイルスが皮膚に侵入して指だけでなく腋の下のリンパ節まで腫れてしまったことがあります。 何十人分またはそれ以上の種痘をしてしまったことになります。 今でいうバイオハザード例です。 自慢にならない話ですが、私はこのほかに豚の解剖で豚丹毒に感染したことと、動物室でツツガムシ・リケッチャに感染したこともあります。 計3回バイオハザードを経験したことになります。 話を痘苗製造に戻します。 きわめて原始的な方式ですが、実は天然痘根絶に使われたのは、このタイプのワクチンです。 もちろん150年の間には孵化鶏卵、細胞培養と技術の進歩がありましたが、これら新しい方式で開発されたワクチンは免疫力が足りず、実用化されませんでした。 天然痘根絶という微生物学の最大の偉業はこのような古典的ワクチンで達成されたのです。 1970年代終頃に当時千葉血清に居られた橋爪壮先生(現・日本ポリオ研究所・所長)が細胞培養での弱毒種痘ワクチンの開発に成功されました。 橋爪先生は私の旧制静岡高校の先輩で、現在も色々教えていただいております。 世界で初めて実用化になりましたが、天然痘根絶がほとんど終わって種痘はすでに中止されていたため、実際に使用されることはありませんでした。 |
4. ワクチニアウイルスの新しい展開 |
天然痘根絶で用がなくなったと考えられたワクチニアウイルスは1980年代半ばにワクチンベクターとして復活しました。 すでに狂犬病ワクチンが実用化と同様の段階に達したことは以前にお話ししたとおりです。 私達もワクチニアベクターによる組換え牛疫ワクチンの開発を約10年にわたって行っています。 天然痘根絶が成功した理由のひとつに流行地である熱帯でも冷蔵庫を必要としない高い耐熱性痘苗があったことです。 この利点を牛疫根絶に利用しようとして始めた研究です。 すべての研究段階を終えて流行地での野外試験を待つだけになりました。 私達のワクチンは先に述べた橋爪先生の開発された弱毒種痘ワクチンをベクターに用いています。 世界で唯一の国家承認された弱毒ワクチニアウイルスであるというのが大きな利点です。 組換え狂犬病ワクチンはコペンハーゲン株を用いていますが、これはかってWHOが天然痘根絶計画で色々な種痘ワクチンの副作用を調べた際に、一番副作用が強かった株です。 したがって我々のワクチンは橋爪先生のお陰で非常に有利な面があります。 振り返ってみると、私の最初の研究テーマが乾燥痘苗の耐熱性の改良で、現在は同じワクチニアウイルスをベクターに利用している訳で、40年前のテーマがこのような形で復活したことは感慨深いものがあります。 一方、最近ワクチニアウイルスはウイルス免疫の研究でも新しい展開を始めています。 遺伝子配列が全部明らかになり、その結果、全部で200近いウイルス構成蛋白の中にはいくつものサイトカインレセプターをはじめ免疫系をまどわすようなものが見つかってきました。 免疫に対するウイルス側の戦略を研究する新しい側面が開けてきたことになります。 専門的になり過ぎますのでこの辺で話を終えますが、興味のある方はImmunology Today, October, 1995をご覧いただきたいと思います。 |