これまでに異種移植の研究の状況について、本講座で数回断片的に触れてきました(第18、29、31回)。 そして、前回にはクローン羊の技術がこの分野でも画期的な意義を持つことを述べました。 ただし、クローン羊を作製したPPL社はこれから、この分野に進出するものです。 現在、もっとも研究が進んでいるのは英国イムトランImutranと米国ネキストランで、両社ともサルでの試験成績から技術的には臨床試験の段階まで進んできているといわれています。 このような状況から、倫理面、安全面での議論が活発になってきました。 米国では昨年9月に食品医薬品局FDA が、異種移植にかかわる感染症についての指針案を作成し、一般からの意見聴取を12月末まで行いました。 英国では、昨年ナッツフィールド委員会とケネデイ委員会が異種移植の倫理的側面を検討した報告書を出しました。 そして、今年の1月には保健相ステファン・ドレルが、異種移植の際に問題となる豚の病原体からの感染の危険性についての検討が進むまで臨床試験を行ってはいけないという内容の声明を発表しました。 彼は昨年3月に新型クロイツフェルト・ヤコブ病と牛海綿状脳症の関連がありうるとの声明を発表した人です。 今回は英国での倫理面での検討の結果について、簡単にご紹介します。 |
1. 医療への動物組織の利用の歴史 |
上述のふたつの報告書に整理されています。その内容の一部をご紹介します。 動物の臓器の人への移植の最初の例は1964年に米国で行われたチンパンジーの心臓移植が最初です。 これは6人の患者に行われ、ほとんどが数日で死亡し、1名だけが9カ月生存しました。 同じ年に米国では6名にヒヒの腎臓移植が行われ、すべてが2カ月以内に死亡しました。 その後、羊、豚、ヒヒの心臓移植が、米国、英国、南アフリカ、ポーランドで行われました。 なお、今年はインドで豚の心臓移植が行われ、実施した医師が逮捕されるという事件が起きました。 ほかの臓器としては、腎臓ではチンパンジー、ヒヒ、豚のものが、肝臓ではヒヒと豚のものが移植されています。 移植に用いられるのは臓器だけではありません。 細胞も持ちいられています。 糖尿病治療のために豚の膵臓のランゲルハンス島(インスリン産生細胞です)の移植がスウエーデンで1994年に10名の患者に行われ、4名では細胞が14カ月生存していました。 ただし産生されたインスリンの量はきわめて低いものでした。 また、1995年には米国でパーキンソン病治療のために、4名の患者にドーパミンを産生する豚胎児の神経細胞の移植が行われました。 動物製品の医療への利用は長年行われてきています。 豚の心臓弁の移植は1964年に英国で初めて行われ、現在では広く行われています。 整形外科では牛の骨、腱が利用されています。 また、インスリンは現在は遺伝子組換え技術で生産したものが利用されるようになりましたが、それまでは豚のインスリンが用いられていました。 豚の第VIII因子は、血友病患者のうち、人の第VIII因子にインヒビターのある人に用いられています。 |
2. 異種移植は禁止かゴーサインか |
以前の講座でも触れましたが、イムトランのデイビッド・ホワイトは、補体と自然抗体による超急性拒絶反応を回避する目的で、豚に補体制御蛋白のひとつ、Decay Accelerating Factor (DAF)を導入したトランスジェニック豚を作製し、その心臓がサルへの移植実験で、超急性拒絶反応の時期を乗り越えて生着することを確認しています。 その結果、人への臨床試験が現実の課題となってきました。 なお、最初に生まれたトランスジェニック豚の名前はAstridアストリッドだそうです。 このような状況から、民間団体であるナッフィールド倫理協議会、少し遅れて政府の諮問委員会であるケネデイ委員会が倫理的な面での検討結果を報告書にまとめました。 ふたつの報告書は重複している面もありますが、相互に補っている面も多々あります。 これらを受けて保健相の声明が1月中旬に出されたのですが、驚いたことに英国の2つの大新聞が、このニュースをまったく異なった見出しで報道しました。 1月16日のロンドンタイムスは、豚の心臓移植が禁止されたという見出し、1月17日のデイリーテレグラフは豚の心臓移植が承認されたという見出しです。 記事の内容は基本的に同じなのですが、まったく正反対の受けとめ方がされたのは、この異種移植の抱える複雑な問題を反映しているものかもしれません。 なお、日本では1月18日のジャパンタイムスと1月24日の朝日新聞夕刊がいずれも禁止という見出しで報道しました。 |
3. ナッフィールド倫理協議会 Nuffield Council on Bioethics |
この協議会は Medical Research Council、Nuffield FoundationとWellcome Trustが共同で資金援助しているものです。 ここが、エセックス大学のアルバート・ウィール Albert Weale教授を委員長とする全部で10名からなる作業部会を設置し、異種移植の倫理面についての検討を行いました。 その結果は、昨年3月に140頁あまりの報告書にまとめられて発表されました。 その内容は次に述べるケネデイ委員会のものと基本的には同じなので、省略しますが、大要は、移植の現状分析、臓器の供給の現状、異種移植研究の進展、動物福祉、患者側の問題、個人や社会の受けとめ方といった面から検討を行ったものです。 そして、豚の臓器移植は倫理的に受け入れられるという結論と、政府に、この問題を審議する諮問委員会の設置を求めたことです。 |
4. 異種移植の倫理に関する諮問グループ (ケネデイ委員会) |
おそらくナッツフィールド委員会が政府諮問委員会の設置を求めたことを受けた結果と推測されますが、保健相の諮問委員会が1995年末に結成され、96年夏までに報告書を提出するよう求められました。 委員長はナッフィールド委員会のメンバーでもあったイアン・ケネデイ Ian Kennedy (キングス・カレッジの医事法と倫理の教授) で、ほかに8名の委員から成り立っています。 1995年12月に開かれた最初の委員会についで96年中に10回の委員会、個別および新聞などを通じて全国的な意見の聴取(96年2月初め)、イムトランとPPLの視察、異種移植における感染症に関するワークショップ開催(96年4月)を行って、258頁におよぶ報告書を96年8月に発表しました。 報告書の最初に77項目の結論と勧告が述べられています。 本文は、倫理の定義に始まり、異種移植の歴史、現在の科学的知識、予想される恩恵、問題点、異種移植以外の解決方法、倫理面での枠組みなど多岐にわたって述べられています。 全体をご紹介することは不可能ですので、私なりに、この委員会の考えを項目別に整理してみます。 これはほんの一部にすぎないことを、あらかじめご了承下さい。
そのほか、インフォームドコンセント、患者のカウンセリング、患者への心理的影響などについても述べています。 以上のような多角的な面からの結論、提言をもとに、政府が常置委員会を設置して、この報告書に提起された問題を検討するよう要求しています。 全体の流れをみると、生理学、免疫学の両面では条件付きで倫理的に受け入れられるとの結論であり、感染の問題は今後の検討課題とし、その結果を国の常置委員会で評価して、臨床試験に入る道筋をつけたものとみなせます。 この報告書にもとずいた保健相の声明が、ふたつの大新聞で、異なる受けとめ方をされたのです。 |
5. 購入先 |
ここでご紹介したふたつの報告書は下記から購入できます。 Animal-to-Human Transplants. The Ethics of Xenotransplantation Nuffield Council on Bioethics, 28 Bedford Square, London WC1B 3EG, UK Fax: 44-171-323-4877 (価格10 ポンド) A Report by The Advisory Group on the Ethics of Xenotransplantation. Animal Tissue into Humans. The Stationery Office Publications Centre, PO Box 276, London SE8 5DT, UK Fax: 44-171-873-8200 (価格25 ポンド) |