これからは、その論議の中でも重要な感染リスクと生命倫理についてお話したいと思います。
まず感染リスクが問題になった背景をお話します。
1980年に天然痘根絶宣言が発表され、感染症の克服への期待が高まってきた、その頃にエイズが突然出現し、さらに致死的ないくつもの新しい感染症が出現しました。
また英国ではいわゆる狂牛病と呼ばれるウシ海綿状脳症が出現しました。そこで、国際的に新興感染症への関心が高まり、とくに動物から人への感染の危険性が重視されるようになってきたのです。
ちょうど、その頃、1995年にエイズ患者にヒヒの骨髄移植が行われることになりました。
そこで、ヒヒの骨髄移植は人間社会に新しい感染をもたらすおそれはないかという点が問題になってきたのです。
それまでは、異種移植の臨床試験は大学などの倫理委員会の承認だけで行われていたのが、ヒヒの骨髄移植では米国政府の食品医薬品局FDAが待ったをかけて、新薬の臨床試験の場合と同様にFDAの承認を求めるように方針転換を行いました。
これがきっかけになって異種移植での感染リスクが問題になってきたのです。
ところで、ブタは数千年にわたって家畜として人と接触してきています。
食用だけでなく、医療材料として多く用いられてきました。たとえばインスリンはブタから抽出されたものが長年にわたって使用されました。
ブタの心臓弁は1960年代から多くの心臓病患者に移植されてきました。そのような場合に感染が問題になったことはありませんでした。
しかし、異種移植はブタの臓器が人の血管につながり、人の代替臓器として生き続けることを目的とした医療技術です。
もしもブタの臓器にウイルスが潜んでいたらどうなるかということが問題になってきたわけです。
ブタに病原性を示すウイルスの多くはワクチンなどで制圧されてきています。
しかし、ブタには病気を起こさなくても人に感染して、レシピエントに病気を起こしたりすることはないだろうか。また、人の体の中で突然変異を起こして新しいウイルスになるおそれはないか。さらに、その新しいウイルスがレシピエントだけでなく、患者に接する医師、看護婦、家族などに感染を広げるおそれはないか。
最悪のシナリオでは第2のエイズウイルスになるおそれはないか、といったリスクが議論されるようになったのです。
異種移植でドナーとして使用するブタから排除しなければならない微生物の種類については、私もメンバーとなっている国際的な研究グループで総合的な検討を行ってきました。
その内容を、昨年秋に名古屋で開かれた国際異種移植学会で私が発表したのですが、その要点は次のようになります。
ドナーとしてのブタはまず、帝王切開で取り出し感染が起こらない清浄な環境で育てます。
ウイルス、細菌、寄生虫などブタに感染するおそれのある微生物ついて検査を行い、感染しているブタはドナー・グループから排除します。
ほとんどの微生物は現在の獣医学の技術で排除が可能です。
ただひとつ、排除できないのがあります。それが内在性レトロウイルスです。
これは染色体に組み込まれ、ブタの遺伝子群のひとつになっているからです。
内在性レトロウイルスが異種移植での安全性に関する議論の中心になっているのです。
それでは、この問題をどのように解決していくべきなのでしょうか。
内在性レトロウイルスのあるものは試験管内で培養した人の細胞に感染することが分かっています。しかし、試験管内の培養細胞に感染することは人に感染する証拠にはなりません。
培養細胞のウイルスに対する感受性は必ずしも生体の感受性を反映しないことは、多くのウイルスでよく知られている事実です。結局、人に感染するかどうかは、人で確かめないかぎり分かりません。
しかし、人への接種実験をするわけにはいきません。考えられるアプローチはまず、過去にブタの細胞や組織にさらされたことのある人での感染の有無を調べること、つぎに臨床試験を通じて感染の有無を調べることの2つです。
ところで、これまで異種移植として、臓器の移植についてお話してきましたが、臓器ではなく、細胞の移植もあります。
たとえばパーキンソン病の治療のためのブタ胎児の脳細胞の脳内への移植、糖尿病の治療のための膵臓細胞の移植などが試みられています。
このような人で調べた結果、内在性レトロウイルス感染の証拠が見られなかったことがアメリカのグループと英国のグループから1998年に報告されました。
一方、異種移植推進の中心になっている製薬会社ノバルティス社は過去に脳細胞移植を受けた人、皮膚移植を受けた人、火傷の際の敗血症の治療のために脾臓による血液の灌流を受けた人など、全世界で160名という多くの人のサンプルを集めて試験を行いました。
その結果、感染の証拠が見られなかったことを昨年報告しました。
この160名という数はおそらく現在、集めることのできるサンプルのほとんどについて試験が行われたものとみなせます。
そうなると、次に必要なステップは臨床試験しかありません。
異種移植から期待される多大の恩恵を考えると、臨床試験の積み重ねから内在性レトロウイルスの危険性についての回答を求めていかなければならないことになります。それには、内在性レトロウイルスによる感染の危険性はあるかもしれないという前提で、リスク管理の方策をたてた上で、限られた人について厳密な条件のもとに臨床試験を行っていくことだと考えられます。
すなわち、もっとも高い感度のウイルス検出方法を用いて感染の有無を検査しながら臨床試験を進め、万が一、感染の証拠がみられた時にとるべき安全対策を含めたリスク管理のシステムが必要になるわけです。
次に話題を変えて生命倫理についてお話したいと思います。
異種移植が現実味を帯びてきた1996年に英国と米国の政府は、諮問委員会を結成して異種移植の倫理的な問題について多角的な検討を行い、報告書をまとめています。
いずれにも共通しているアプローチは、第一に臓器不足の解決策として異種移植に代わりうる方策が発見できないことを確認し、第二に異種移植の研究の進展状況を調査し、それにもとづいて異種移植が倫理的に受け入れられるかどうかを検討していることです。
倫理に関する検討は、科学的観点を基盤として行われています。
中でも、英国の報告書では生理学、免疫学、感染の3つの側面から問題点がよく整理されていますので、その内容を簡単にまとめてみます。
まず、生理学的観点からは移植された臓器が人の体内で期待される機能を発揮するかどうかが問題になります。
この観点からポンプという機械的な臓器である心臓は十分にブタのものでも人の体内で十分に機能することが期待できるとして、倫理的に受け入れられると判断しています。
また、腎臓や肝臓を体外で一時的な補助装置として使用することも倫理的に受け入れられるとしています。
次に、免疫学的観点では拒絶反応の克服が問題になります。とくに超急性拒絶反応の回避が重要な問題ですが、これは、人DAF遺伝子導入ブタの心臓がサルで60日以上生着したことから、回避の可能性があるものとみなし、この点では倫理的に受け入れられると判断しています。
しかし、この先に起きてくる急性拒絶反応や慢性拒絶反応が今後の問題になることが指摘されています。
第三の感染ではウイルスによる危険性の減少には限度がり、さらに研究が必要であるとしています。
そして、結論として、感染の危険性についての十分な調査を行って、危険性が耐えうる限界内であれば人での試験を進めることは倫理的に受け入れられるであろうと結んでいます。
また、この報告書では異種移植の臨床試験の申請を検討する国の審査機関の設置の必要性を提言しており、これにもとづいて英国では異種移植暫定審査委員会が設置されました。
米国ではFDAが異種移植のためのガイドラインを作成中で、これにもとづいてFDAが審査を行うことになっています。
以上、異種移植に関わるいくつかの問題点をお話してきましたが、最後にこれからの展望について触れたいと思います。
異種移植には臓器だけでなく細胞の移植もあるということを先ほど簡単に触れましたが、もういちど整理してみますと、パーキンソン病の治療のためのブタ胎児の脳細胞の移植、ハンチントン病の治療のための脳細胞の移植、インスリン依存性糖尿病に対するブタの膵臓細胞の移植が検討されています。
また、劇症肝炎などで有毒物質の除去のための体外灌流用として、ブタの肝臓細胞を細い管の中に充填した人工肝臓が開発されています。米国ではこれらがFDAの審査を受けた上で臨床試験に入っています。
日本でも同様の研究は進んでいますが、国として審査する枠組みはできていません。大学の倫理委員会の承認だけで実施してよいのかという問題があります。
臓器に関しては、心臓と腎臓の移植についてのサルでの動物実験が進んでいます。
心臓では100日の生着期間が得られています。腎臓では1ヶ月前後です。いずれでも超急性拒絶反応がかなり回避されています。
現在、超急性拒絶反応を乗り越えた後に起きてくる急性拒絶反応をいかにして回避するかという点について研究が急速に進展しています。
その結果次第ですが、2,3年後には異種移植の臨床試験は現実のものになることが予想されます。
NHKラジオ、医学の時間
(2000年1月30日収録分一部抜粋)