27.「口蹄疫の正しい知識 13. 「口蹄疫対策検証委員会報告書を科学的に検証する」

農林水産省の口蹄疫対策検証委員会報告書(以下、農水省報告書)が平成22年11月24日に発表されました。口蹄疫対策はBSEの場合と同様に科学的リスク評価にもとづいたものでなければなりませんが、この報告書の内容はほとんどが防疫対策を中心としたもので、科学的リスク評価に関する記述は報告書の最後にわずかに見受けられるだけです。海外では口蹄疫対策にかかわる研究がこの10年ほどの間に著しい進展を示しています。その成果も踏まえて、この報告書の科学的検証をおこなってみたいと思います。

1.農水省報告書の中で科学的リスク評価に関わる部分

私が読んだ限り、科学的リスク評価に関連あると考えられたのは、報告書本文の中の2つの項目と第2回委員会で配布された補足説明資料「口蹄疫について」の1枚の表のみです。
その内容をそのまま以下に抜き出してみます。アンダーラインは私が付けたものです。

[報告書]からの抜粋
http://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/katiku_yobo/k_fmd/pdf/kensyo_hokoku_sho.pdf

9. 初動対応では感染拡大が防止できない場合の防疫対応の在り方
(2) 初動対応によって感染拡大を防止するのが最良であり、緊急ワクチン接種や予防的殺処分に安易に依存すべきではない。特に、今回は国が備蓄していたワクチンの抗原性状が有効性の範囲内にあり、ワクチンが効果を発揮したが、口蹄疫のウイルスには様々な型があり、さらに同じ型であっても流行株の抗原変異が進めばワクチン効果が期待できなくなることがあるため、有効なワクチンが常に調達できるとは限らないことについて、十分な周知を図るべきである。また、現在のワクチンの限界、例えば、感染は完全には防ぐことができないことなどの現行ワクチンの性能限界と使用目的についても十分な周知を図るべきである。

(3) 以上のことを踏まえて、感染が拡大した場合の対策案を、最新の科学・技術を前提に、多角的に検討しておくべきである。例えば、ワクチン接種のほか、使用できる抗ウイルス薬などがあればその活用、ワクチンを使わない予防的殺処分なども検討しておくべきである。

[補足説明資料]からの抜粋
http://www.maff.go.jp/j/syouan/soumu/pdf/siryo.pdf

「感染後に回復した牛やワクチン接種牛は、ウイルスを長期間保有し、新たな感染源となる(キャリヤー化)」
「ワクチンのみでは本病の根絶は困難」

2.口蹄疫対策の検証では科学的視点が不可欠

英国では2001年の大発生を受けて英国政府の「学ぶべき教訓に関する報告書」と英国王立協会の「科学面における調査報告書」が2002年に発表されました(両報告書のホームページは現在では閉鎖されています)。これらの調査委員会は第三者委員会です。しかも、王立協会調査委員会では2004年に再評価報告書を発表し、そこで2002年の調査報告書を受けて行われた政府の対策の進展を評価しています。
私は著書「どうする・どうなる口蹄疫」(岩波科学ライブラリー)の中で、これらの報告書がきっかけとなって、これまでの殺すためのワクチンから「生かすためのワクチン」に方向転換を行い、また緊急ワクチン接種をこれまでのような最後の選択肢ではなく最初の選択肢とする方向で検討が進んでいる状況を解説しました。
しかし、前項で抜粋した農水省報告書と説明資料の部分を見る限り、このような世界での潮流を無視した議論のみが行われてきたように見受けられます。
科学的な視点から口蹄疫対策を検証するのに役立つ見解、総説、研究論文などは、2001年の英国での発生の後、数多く発表されています。それらの主なものを参照した結果、以下の項目について私の見解を述べたいと思います。

・ 欧州家畜協会の緊急声明
・ ウルグアイでのワクチンによる口蹄疫清浄化
・ 口蹄疫ワクチンの国際基準
・ 口蹄疫におけるキャリヤーの問題
・ 今後の研究

3.欧州家畜協会の緊急声明

オランダに本拠を置くNPOの欧州家畜協会(European Livestock Association)が会長名で日本の対策に対して緊急声明を出しています。これには6名の科学者が署名しています。そのうち、口蹄疫対策の専門家として私が知っている名前は以下の3名で、口蹄疫対策でもっとも豊富な経験を持っている人として国際的に有名です。

・Paul Sutmoller:WHOのアメリカ地域事務局である汎米保健機関(PAHO:Pan American Health Organization)(脚注)の口蹄疫センターの元研究部長
・Simon Barteling:オランダ中央獣医学研究所の元口蹄疫ワクチン開発研究部長
・R. Casas Olascoaga:ウルグアイ獣医学協会会長で元汎米保健機関・口蹄疫センター所長

この声明は感染症情報に関する世界的ネットワークProMED (Program for monitoring emerging infectious diseases)に2010年6月7日に発表されたものです。
Foot and mouth disease-Japan (25): (Miyazaki), Update, control policy. ProMED June 12, 2010. Archive No. 20100612.1967

http://promedmail.oracle.com/pls/otn/f?p=2400:1001:::NO::F2400 (現在リンク切れ)
P1001_BACK_PAGE,F2400_P1001_PUB_MAIL_ID:1000,83190 (現在リンク切れ)

このネットワークは日本でも非常に有名で、農水省担当者も当然読んでいるはずですが、この緊急声明に対する見解は私が知る限り示されていません。また、マスコミでもまったく取り上げませんでした。
そこで、この緊急声明をなるべく忠実に翻訳して紹介したいと思います。

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日本で実施されている口蹄疫対策に関連して欧州家畜協会会員は以下の点について緊急に声明を行いたい。
・ 日本政府当局が口蹄疫をワクチンで撲滅することはできないと述べているのは間違っている。
・ もしも日本が口蹄疫の制圧において2001年に英国とオランダがおかした過ちを繰り返すことになれば、そして畜産と広範囲の地域社会が同様の経済的・社会的被害をこうむることになれば、もっとも不幸な結果となる。

日本政府当局の主な目的は病気の広がりを止めて、流行を制圧し口蹄疫清浄国にできるだけ早く復帰することである。

我々は以下のQ and Aを注意深く考慮するよう強く勧告する。

上記の目的を達成することはできるか?
回答 
スタンピングアウト(注:stamping outは全頭殺処分のこと)と殺すためのワクチン(注:ワクチン接種動物の殺処分)の実施により可能である。しかし、英国の場合と同様に、感受性動物がほとんどすべて居なくなった場合だけ可能である。

この対策による損失には以下の点などがあげられる。
・ ウイルスを「殺して」広がりを止めるためにかなりの数の動物が殺される
・ 社会・経済および現実的な影響
・ 広範囲の殺処分により引き起こされる人と動物における福祉の問題
・ 殺処分に重点が置かれた場合に正確な診断の保証が不可能になる
・ バイオセキュリティの維持が不可能になる(獣医師、殺処分チームの人員不足、
そしてしばしば非協力的な畜主やディーラー)
・ 貴重な遺伝資源の損失など
・ 食用としてまったく問題ない家畜の殺処分という倫理的問題

もっと効果的な代わりの手段はあるか?
回答
手段はある。スタンピングアウトと殺すためのワクチン接種の代わりに、生かすためのワクチンの使用である。それには以下のことを合わせて行う。
・ 発病前でも迅速に感染を確認できる最新の診断法を用いて病気の追跡をできるだけ急速に行う。
・ 感染した農場の動物を直ちに殺処分する。
・ リング・ワクチン接種を行う(未感染地域から中央の感染確認地域に向かって)
・ 潜伏期中または発病している動物が気づかれずにワクチン接種された場合でも結果的には排出される
ウイルスの量が減少する。これはワクチン接種の明らかな利点である。
・ 農場でのバイオセキュリティの維持と動物の輸送禁止。

上記の点を考慮して我々は以下の勧告を行いたい。

・ ワクチン接種ゾーンは画一的な緊急計画にもとづくべきではなく、発生のタイプに応じて考えなければならない。
たとえば、(2001年の英国の発生の場合のように)当初気づかれなかったために何カ所かで発生した場合と、
それに対して(2007年の英国の発生の場合のように)1カ所の発生段階ですぐに確認された場合。
前者では接種ゾーンは大きなものでなければならず、後者では接種ゾーンは比較的小さなものにすることができる。
・ 現在の精製した高力価の緊急用ワクチンを用いる。これは非常に効果的で防御免疫を数日で成立させる。
・ ワクチン接種後、適当な試験法を用いてワクチン接種農場を調査し、感染動物をワクチン接種動物と区別する。

我々は21世紀の進歩した科学的手段にふさわしい方式が家畜衛生に貢献することを望むものである。これは地域社会とそこにおける家畜の福利に貢献し、さらに人道的なやり方である。

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脚注
Pan American FMD Center (PANAFTOSA、aftosaはスペイン語で口蹄疫の意味です)は、メキシコでの口蹄疫が1950年に終息した直後、Pan American Health Organization (PAHO)(汎米保健機関)の協力のもとブラジルのリオデジャネイロに1951年に設立されたものです。元来、PAHOは1902年にアメリカ大陸でのペストなどの感染症対策のために11カ国が集まって設立されたもので、WHOより40年も長い歴史を持っています。現在はWHOの地域事務局となっていて、通常PAHO/WHOと略されています。

4.ウルグアイでのワクチンによる口蹄疫清浄化

検証委員会の説明資料では「ワクチンのみでは本病の根絶は困難」と述べられています。しかし、殺処分だけに頼っていた英国を除くヨーロッパの多くの国では、1980年代にワクチンだけで口蹄疫が制圧され、ほとんど発生がなくなりました。大部分の国で制圧されたにもかかわらず、ワクチンの定期接種のために多額の費用がかかっていたことと、まれに起きた発生が不活化不十分なワクチンやワクチン製造所から漏出したウイルスによるものだったことが、ワクチン接種をEUが1992年から禁止した主な理由でした。(もうひとつの理由はワクチン接種動物の抗体が感染動物と区別できなかったため、貿易の障害になっていたことです。)
ワクチンだけで口蹄疫を制圧し清浄国となった有名な例はウルグアイです。その経緯を簡単に整理してみます。なお、この際のワクチンは現在のように改良される前の古いタイプのものです。
ウルグアイは1996年に南米で最初の「ワクチン非接種清浄国」となっていました。ところが、2000年10月に口蹄疫が発生しました。そこで、6,294頭の牛、12,371頭の羊、257頭の豚が殺処分された結果、2001年1月には清浄国に復帰したのですが、3ヶ月後の4月24日に口蹄疫が再び発生しました。これはアルゼンチンから持ち込まれたことが疑われています。発生の速度は英国の2001年の発生に匹敵するもので最初の1ヶ月は毎日50例の発生がみられていました。
そこで直ちに動物の移動禁止措置とともに殺処分が始められ、4月30日までに牛5,295頭、羊1,481頭、豚332頭が殺処分されました。
しかし、さらに広がりが見られたために、殺処分は1週間で中止され、国中の牛すべてにワクチンを接種する大量ワクチン接種方式に変えられました。これは5月5日に始められ、6月7日に終了しました。発病した牛も含めて殺処分はまったく行っていません。さらに牛と同じ放牧地に飼育されていた1300万頭もの羊をはじめ山羊や豚に対しては、ワクチン接種は行いませんでした。1980年代後半に牛のみを標的として行われた大規模ワクチン接種作戦の経験からこれらの動物による伝播の可能性は低いと考えられたためです。この対策では全部で48,518農場の10,598,034頭の牛へワクチンが接種されました。
さらに追加免疫を与えるために、第2回ワクチン接種は6月15日に始められ、これは6月22日に終了しました。この2回の接種で99ないし100%の防御効果が期待されました。使用されたワクチンは2回分を合わせて2400万頭分でした。
一方、移動禁止は6月6日に解除されました。
EU調査団は6月25日から29日にかけて発生状況と制圧対策の調査を行っています。
8月26日に最後の発生例が見られ、4ヶ月で発生は終息しました。この際に農水省報告書が指摘している「ワクチン接種牛は、ウイルスを長期間保有し、新たな感染源となる(キャリヤー化)」の問題は起きていません。
10月1日から4日にかけてEU調査団はふたたび制圧状況の調査を行った結果、清浄化が達成されたと判断して、11月1日には骨を除去した牛肉をヨーロッパに輸出することを許可しました。
このまま12ヶ月間ワクチン接種を行わなければ(脚注)ウルグアイは「ワクチン非接種清浄国」となりますが、周辺の国から口蹄疫が侵入するおそれがあるため、現在も定期的ワクチン接種を続けており、「ワクチン接種清浄国」と認定されています。

脚注:OIE国際規約では「ワクチン非接種清浄国」の条件として、過去12ヶ月間、口蹄疫の発生がないこと、過去12ヶ月間、口蹄疫ワクチンの接種が実施されていないことが要求されています。
このことは農水省報告書の説明資料にも述べられています。一方、清浄国で口蹄疫が発生した場合に清浄国復帰の条件については、農水省報告書や説明資料ではまったく触れられていませんので、ここで述べておきます。

1.スタンピンアウト(全頭殺処分)の後、3ヶ月

2.ワクチン接種動物をスタンピングアウトした後、3ヶ月

3.ワクチン接種動物でNSP(非構成タンパク質)抗体陰性が確認された場合、最後のワクチン接種から6ヶ月後

国際規約:http://www.oie.int/eng/normes/mcode/en_chapitre_1.8.5.htm (現在リンク切れ)

なお、宮崎では第2の方式でした。私は共同通信社の識者評論(2010年6月11日)で第3の方式を採用しなかった理由を農水省は説明すべきだと書きましたが回答はありませんでした。

 参考文献

Irvine, J.: How vaccination was used for foot and mouth disease in Uruguay in April 2001 and subsequently.
http://www.warmwell.com/oct11jamesuru.html
Sutmoller, P. & Olascoaga, R.: The successful control and eradication of Foot and Mouth Disease epidemics in South America in 2001
http://www.humanitarian.net/biodefense/papers/sutmoeller_en.pdf
Sutmoller, P., Barteling, S.S., Olascoaga, R.S. & Sumption, K.J.: Control and eradication of foot-and-mouth disease. Virus Research, 91, 101-144, 2003

5.口蹄疫ワクチンの国際基準

口蹄疫ワクチンの基準はOIEのManual of Diagnostic Tests and Vaccines for Terrestrial Animals(陸生動物のための診断法とワクチンのマニュアル)に詳しく述べられています。現在のホームページには2009年のOIE総会で承認された基準が掲載されています。
http://www.oie.int/eng/normes/mmanual/2008/pdf/2.01.05_FMD.pdf (現在リンク切れ)

力価試験
口蹄疫フリーの地域の牛(6ヶ月令以上)を1グループあたり5頭以上、3グループを用い、ワクチンを1ドーズ、1/4ドーズ、1/10ドーズの3種類で免疫を行い、4週間後に毒性の強い口蹄疫ウイルスを1万感染単位(BID50: 50% bovine infectious dose、牛に対する50%感染単位)のものを0.1 mlずつ舌の皮内2カ所に攻撃接種し、最低8日間観察します。防御されない牛は足に病変が出現しますが、防御されている場合には病変は舌の接種部位だけに出るか、もしくはまったく出ません。防御された牛の数から力価を50%防御単位(PD50: 50% protecting dose)で表します。予防用には最低3 PD50、一般には6 PD50が望ましいとされています。
豚の場合には2ヶ月令以上のもので牛の場合と同様に行います。ただしウイルスによる攻撃接種は舌ではなく、かかとの皮内に行います。
口蹄疫ウイルスは感染すると侵入局所から血液中に入って全身に広がります。ワクチンで免疫が成立している動物ではすぐに起きてくる免疫反応のために、ウイルスは侵入局所で一過性に増えるだけで排除され、血液を介して広がりません。
(これは口蹄疫に限ったことではなく、すべてのウイルスワクチンにあてはまります。私は予防衛生研究所(現・感染症研究所)で麻疹ワクチンの国家検定主任として麻疹ワクチンの検査を15年間担当していました。麻疹ワクチンは非常に免疫効果が高いワクチンで、ワクチンによる免疫がある人は麻疹患者と接触しても発病しません。しかし麻疹抗体の上昇がみられることがあります。これは患者から感染した麻疹ウイルスが侵入局所で一過性に増えたためです。)
口蹄疫ワクチンの場合のように、ワクチンの接種後に強毒のウイルスを攻撃して免疫を確認する試験は、人ではもちろん不可能です。口蹄疫ウイルスと同じグループのウイルスであるポリオの不活化ワクチンでは、サルまたはモルモットにワクチンを接種して抗体の上昇の程度から力価を推測しているのです。そのような不活化ポリオワクチンで北欧諸国やオランダはポリオの排除(清浄国に相当)に成功しています(日本は生ポリオワクチンを用いています)。
大量の強毒ウイルスを攻撃接種するという人では実施できないきびしい試験に合格している口蹄疫ワクチンは、流行株に適合していれば確実に感染を防御できます。農水省報告書の「感染は完全には防ぐことができない」という記述は、農水省検証委員会が口蹄疫ワクチンの科学的側面をまったく理解していないことを示しています。
なお、宮崎で用いたワクチンは牛、豚それぞれの試験で6 PD50のものでした。科学的検証を行うのであれば、そのような情報も検証委員会に提出すべきでした。

精製度試験
現在の口蹄疫ワクチンは非構成タンパク質(NSP)を除去した精製ワクチン(マーカーワクチン)です。ワクチン接種後にNSP抗体試験を行った場合、NSP抗体陽性は感染した目印(マーカー)になります。そこで、精製度試験でワクチンがNSP抗体を産生しないことを確認することになっています。
具体的には子牛に少なくとも2頭分のワクチンを3ないし6ヶ月の間に3回以上接種し、最後のワクチン接種から30−60日後にNSP抗体が出現していないことを確かめるものです。

緊急用ワクチンでの例外措置
緊急用に備蓄されている口蹄疫ワクチンは、以前は最終製品でした。しかし、これは有効期間が1−2年間で、農水省からは担当官が2年ごとに買い付けに出かけていました。(私は日本の備蓄ワクチンを製造していたローヌ・メリュー社の研究部長と知り合いだったので、1984年に同社のフランス・リオンの工場を訪問して製造工程を見せてもらったことがあります。)
現在は欧米諸国でワクチン・バンクが整備されており、そこでは250ないし1000倍に濃縮した最終製品直前のワクチンがマイナス130度の液体窒素タンクに保存されています。これは5年間保存できることになっています。緊急用ワクチンとして用いる時に溶解して最終製品に仕上げます。この方式で数百万頭分が数日で出荷できるようになっているのです。宮崎で用いたワクチンは英国パーブライト研究所の敷地内にあるメリアル社のワクチン・バンクに日本政府が確保していたものです。私は1990年代の10年間パーブライト研究所と組み換え牛疫ワクチンについての共同研究を行っていたため、訪問の度にこの会社の工場の外側だけを眺めていました。
口蹄疫ウイルスには7つの血清型があり、しかもしばしば変異を起こしています。そこで、ワクチンは流行ウイルスに適合したものでなければなりません。ワクチン・バンクにはいくつものタイプのワクチンが保存されています。前述の英国王立協会の再評価報告書には、2003年の時点で英国のワクチン・バンクにはワクチン接種と感染の識別ができる8つのタイプのワクチン(マーカーワクチン)が保管されているという担当大臣の文書が添付されています。
流行ウイルスに適合したワクチンがない場合にそれを保管しているほかのワクチン・バンクから提供してもらう国際協力態勢も検討されているようです。農水省報告書では「今回は国が備蓄していたワクチンの抗原性状が有効性の範囲内にあり」と述べられているだけです。ワクチン・バンクの現状も検証委員会では説明が行われるべきだったと思います。
ところで本来、ワクチンの検査のいくつかは最終製品で行うことになっています。しかし、緊急用ワクチンでは検査を行っている時間的余裕はありません。そこで、ヨーロッパ薬局方は緊急用口蹄疫ワクチンに限って、最終製品の代表的サンプル についてあらかじめ検査を行っておくことで、検査を省いてすぐに出荷することを例外措置として認めています。なお、薬局方とは医薬品(ワクチンは生物由来医薬品)の品質管理の基本になるものです。
ワクチン・バンクについては下記のOIE科学技術情報誌(Scientific and Technical Review)に詳しく紹介されています。私は現在まで約20年間、この雑誌の学術顧問をつとめています。

Lombard, M. & Fuessel, A.-E.: Antigen and vaccine banks: technical requirements and the role of the European antigen bank in emergency foot and mouth disease vaccination. Scientific and Technical Review OIE, 26, 117-134, 2007

http://www.oie.int/boutique/index.php?page=ficprod&id
_prec=118&id_produit=167&lang=en&fichrech=1&PHPSESSID=baddfba30938903c96b7367e7a5f0bcd

6.口蹄疫におけるキャリヤーの問題

口蹄疫対策でのもっとも大きな問題は「ワクチンを接種するべきか、するべきかでないか」でした。これは、ワクチン接種動物が口蹄疫ウイルスのキャリヤーとなるのではないかという疑問が国際貿易の面で重要視されてきたためです。
英国政府の「学ぶべき教訓に関する」調査委員会報告書では、これまでワクチン接種動物でのキャリヤーの危険性が過剰に主張されてきたと批判しています。このような批判の科学的根拠を整理してみたいと思います。
キャリヤーの問題を取り上げた科学論文は多数ありますが、ここではウイルス学領域の国際学術誌「Virus Research」の口蹄疫特集号に掲載されたPaul Sutmollerらの総説と、獣医微生物学の国際学術誌Comparative Immunology, Microbiology and Infectious Diseasesの口蹄疫特集号に掲載されたPaul Barnettらの総説の要点を整理してみます。
Sutmollerは前述の欧州家畜協会の会員で、汎米保健機関・口蹄疫センター研究部長をはじめFAOの専門家などを40年以上にわたってつとめてきた口蹄疫対策の第一人者です。この総説は2段組で40ページにわたる膨大なもので(10名の著者が執筆した特集号の中で、この総説が1/4を占めています)、キャリヤーの問題が6ページにわたって詳細に取り上げられています(Virus Researchの編集委員長は米国CDC〔疾病管理予防センター〕のウイルス・リケッチア病部門長で私の親友でもあるBrian Mahyです。彼はパーブライト研究所の元所長だったため、口蹄疫には精通しています)。Barnettは現在パーブライト研究所の口蹄疫ワクチン研究のリーダーです。共著者にはBarnettの前任者で口蹄疫研究の第一人者であるPaul Kitchingの名前も含まれています。彼は牛疫での私の共同研究者にもなっていました。なお、私はこの雑誌の編集委員を2010年末まで15年間にわたってつとめていま した。
口蹄疫に感染した動物が回復した後、咽頭の組織でウイルスが持続感染していることは、オランダで1959年にプロバング(probang)試験が開発されてから問題になってきました。(注:プロバングは食道や咽頭に異物が詰まった時に取り除くための細長い器具の名前です。17世紀に開発した人の名前がProvangで、それに探り針を意味するprobeをかけ合わせた造語と言われています。これが口蹄疫でウイルス検査のために咽頭からサンプルを採取するのに利用されるようになり、口蹄疫対策での重要な検査手段になっています)
それから50年間の経験を通じて、感染から回復した動物がしばしば咽頭の中にウイルスを持ち続けていることが分かってきました。これをキャリヤーと呼んでいます。家畜の中でキャリヤーになりやすいのは牛で、羊と山羊がそれに続きます。豚がキャリヤーになった事例はまったく見つかっていないことから、豚はキャリヤーにはならないと言われています。
感染から回復したキャリヤーの牛が口蹄疫フリーの牛の群れに口蹄疫を持ち込んだと考えられる事例は、Sutmollerらが過去100年間の記録や報告を調べた結果、ほんの数例しか見つかりませんでした。Barnettらは、キャリヤーの牛にストレスを与えたりしてウイルス排出を増加させる処置を行った実験でも、ほかの牛への感染源になったことをはっきり示した成績は報告されていないと述べています。すなわち、感染した牛がキャリヤーになることは事実ですが、それがほかの動物への感染源になった明白な証拠はないのです。これらの知見から、キャリヤーが病気を伝播できる量のウイルスを放出するリスクは無視できるか、もしくはゼロに近いとみなされています。
ワクチン接種の場合を考えてみると、まずワクチンは不活化ワクチンですから、ワクチン単独でキャリヤーになることはありません。ワクチン接種後にたまたま感染した場合、キャリヤーになる可能性のあることが問題になっているのです。
ワクチン接種動物には免疫があるので、感染を受けてキャリヤーになるには自然感染の場合よりも多量のウイルスに曝される必要があります。しかし、ワクチン接種は環境中に排出されるウイルス量を低下させます。その結果、ワクチン接種動物がキャリヤーになる可能性は非常に少なくなります。さらに、もしもワクチン接種動物がキャリヤーになったとしても、それが感染源になる可能性は限りなくゼロに近いと考えられます。
現実に、前述のウルグアイの場合のように1000万頭以上の牛にワクチンを接種した場合、キャリヤーの問題は起こらず、清浄国に復帰しています。
2つの総説ともに、キャリヤーの問題は理論的にはあり得ても現実には起こりえないとみなしています。しかし、これが国際貿易ではいまだに問題になる可能性があると指摘しています。
農水省報告書がキャリヤーを問題にしているのは、科学的視点ではなく国際貿易の面、すなわち清浄国復帰の妨げになる可能性があるからです。科学的リスク評価にもとづく対策であれば、緊急ワクチン接種を行った場合にキャリヤーの可能性を否定するための科学的証拠をどのように集めるかを検討するべきです。「感染後に回復した牛やワクチン接種牛は、ウイルスを長期間保有し、新たな感染源となる(キャリヤー化)」といった簡単な文言だけで片付けるのは、科学的な態度ではありません。

参考文献

Sutmoller, P., Barteling, S.S., Olascoaga, R.S. & Sumption, K.J.: Control and eradication of foot-and-mouth disease. Virus Research, 91, 101-144, 2003.

Barnett, P., Garland, A.J.M., Kitching, R.P. & Schermbrucker, C.G.: Aspects of emergency vaccination against foot-and-mouth disease. Comparative Immunology, Microbiology and Infectious Diseases. 25, 345-364, 2002.

7.今後の研究

世界での口蹄疫に関する研究は、「生かすためのワクチン」への方向転換にもとづき現在の精製ワクチンに加えてさらに新しい技術による信頼性の高いマーカーワクチンの開発、NSP試験法の検討、高感度の迅速診断法の開発の面などで非常に活発に行われています。
たとえば、ワクチンの領域でもっとも高く評価されている国際学術誌「Vaccine」を調べてみると、口蹄疫 ワクチンに関する研究論文は2007年に19編、2008年に19編、2009年に9編、2010年に10編が掲載されています。
http://www.sciencedirect.com/science/journal/0264410X
動物用のワクチンの中で口蹄疫ワクチン関連の論文がぬきんでて多いのです。注目されるのは中国からの論文がかなり目につく点です。日本での口蹄疫研究は、2000年の宮崎で発生した口蹄疫で分離ウイルスが入手できた時から始まったため、日本からの論文は皆無です。
農水省報告書は日本での口蹄疫研究の現状と問題点を検証した上で今後の研究態勢を提言すべきです。しかし、そのような検証は見あたらず、「感染が拡大した場合の対策案を、最新の科学・技術を前提に、多角的に検討しておくべきである。例えば、ワクチン接種のほか、使用できる抗ウイルス薬などがあればその活用、ワクチンを使わない予防的殺処分なども検討しておくべきである」という文章だけがあります。この文章の論旨はまったく理解できません。ワクチンと抗ウイルス薬を何に活用するのかは述べられていません。ワクチンは感染を予防するためのものですが、抗ウイルス薬は感染の予防ではなく 治療を目的としたもので、多数の人のウイルス感染症でもヘルペス、エイズ、インフルエンザだけで実用化されているものです。ワクチンと並列できるものではありません。予防的殺処分という表現も何を意味するのか分かりません。今回の宮崎の場合にはワクチン接種で排出ウイルス量を減らした上で殺処分を行ったと説明されていますので、多分、このような対策を予防的殺処分と表現したものと推測されます。しかし、これは予防ではなく、抑制的ワクチン接種(suppressive vaccination)と呼ぶべきものと思います。
農水省報告書の全体の文脈から推測すると予防のためのワクチン接種には消極的と受け止められます。そのように考えると、この文章は「感染拡大の場合の対策案として、最新の科学・技術にもとづいて、ワクチン接種やワクチン以外の手段たとえば抗ウイルス薬を用いてウイルス排出量を抑制する殺処分方式を検討するべきである」という意味に受け取れます。この理解が正しければ、「生かすためのワクチン」の研究という世界の潮流とは反対に殺処分方法の研究推進を提言していることになります。