30.ワクチンによるウイルス感染症の根絶(3):牛疫の根絶

牛疫の根絶宣言が2011年にOIEとFAO から正式に発表されることになっています。天然痘に次いで根絶される感染症です。
牛疫は日本では大正11年(1922)に撲滅されたため、獣医学領域の人たちを除けばほとんど知られていません。牛疫については本連載11.「史上最大の疫病・牛疫」と私の著書「史上最大の伝染病・牛疫:根絶までの4000年」(岩波書店)(人獣共通感染症180回)で紹介してありますが、ここでそれらの内容の要点を紹介したいと思います。

獣医学の出発点となった牛疫

牛疫の原因である牛疫ウイルスは、パスツール研究所のモーリス・ニコル(Maurice Nicolle)が19世紀終わりにトルコ政府の依頼でコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に設立した帝国細菌学研究所で、助手のアディル・ベイ(Mustafa Adil-Bey)の協力により1902年に発見したものです。動物ウイルスの最初の発見は1897年の口蹄疫ウイルスですから、その5年後というウイルス学草分けの時期でした。
牛疫ウイルスは麻疹ウイルスやイヌジステンパーウイルスと同じパラミクソウイルス科モービリウイルス属に分類されています。私が麻疹ウイルスの研究を始めた頃、牛疫ウイルスが麻疹やイヌジステンパーウイルスの祖先であるという論文が発表されました。これがきっかけになって、8000年ほど前に牛が家畜化されて農耕に利用されるようになって人が牛疫ウイルスに感染し、それが麻疹ウイルスに進化したものと考えられてきました。2010年、東北大学の押谷仁教授のグループは、ウイルス遺伝子の分子進化の速度から推定した結果、牛疫ウイルスが麻疹ウイルスに分岐したのはもっと最近のことで11世紀から12世紀の間という論文を発表しています。(Furuse, Y., Suzuki, A. & Oshitani, H. : Origin of measles virus: divergence from rinderpest virus between the 11th and 12th centuries. Virology Journal 7, 52, 2010. (http://www.virologyj.com/content/7/1/52
ともかく牛疫ウイルスと麻疹ウイルスは非常に良く似ており、私が予研麻疹ウイルス部で牛疫ウイルスの研究を行ったのは、麻疹ウイルス感染のすぐれたモデルだったためです。
牛疫は、世界史をゆるがせてきた史上最大の伝染病です。4000年前に見つかったパピルスには、牛疫とみなされる病気の記述があります。旧約聖書にも3300年ほど前に牛疫とみなされる病気が起きていたことが書かれています。牛疫は農耕の重要な労働力である牛に壊滅的打撃を与えたため、一旦発生すると飢饉や貧困を招き、その結果、世界史を揺るがせてきました。その代表的な例は牛疫が引き金となったローマ帝国の東西分裂です。18世紀には全ヨーロッパに広がり、この世紀に牛疫で失われた牛は2億頭と言われています。また、牛疫がきっかけとなってフランスのリヨンに最初の獣医学校が設立され、これに続いてヨーロッパ各地で獣医学校が設立され、それとともに獣医師の職業が生まれました。2011年は獣医学校創立250年にあたるため、OIEが中心となってWorld Veterinary Year(世界獣医学年)の記念行事が世界各国で行われることになっています。http://www.vet2011.org/(40カ国以上の参加国の中に日本の名前だけはなぜか見あたりません)
1920年にはベルギーでインドから持ち込まれた牛から突然牛疫が起きたことがきっかけになって、家畜伝染病についての国際情報交換や対策を行うための仕組みとして、1924年にパリにOIE(Office international des Epizooties)
が設立されました。フランス主導で設立されたためフランス語の名前になりましたが2003年にWorld Organization for Animal Health(世界動物衛生機関)が正式名称になりました。しかし、今でもOIEの名前が通称として用いられています。

牛疫対策を中心として作られた日本の家畜伝染病対策の枠組み

日本では江戸時代の寛永、寛文年間に大流行があり大きな被害を与えた記録が残っています。明治4年(1870)にはシベリアから牛疫が侵入する危険性が知らされ、明治5年(1871)に外国流行伝染病予防法が公布されました(図1)。当初、人にも感染すると誤解されたため、人と家畜を対象としたもので、内容は粗末ですが最初の伝染病予防法と家畜伝染病予防法ともいえます。現在の家畜伝染病予防法の基になったのは明治19年(1896)の獣類伝染病予防法ですが、ここでも牛疫が対策の中心になっています。港湾での家畜の検疫も明治4年に開始されました。動物衛生研究所の前身は獣疫調査所ですが、牛疫の免疫血清や診断液の製造がここの重要な事業でした。

ワクチン以前の牛疫予防法

牛疫の予防が本格的に試みられた最初は、19世紀終わりにアフリカ全土に広がった牛疫パンデミックの際でした。南アフリカ政府は細菌学の父として有名だったロベルト・コッホ(Robert Koch)に牛疫対策を依頼したのです。当時すでにコッホの研究室では北里柴三郎とエミール・ベーリング(Emile Behring)が免疫血清による破傷風やジフテリアの予防に成功していたため、コッホは感染牛の胆汁にも免疫血清と同様の効果を期待して、胆汁注射を試みました。彼はさらに、インドのヒマラヤの麓の帝国細菌学研究所(現・インド獣医学研究所)でもこの実験を行っています。私は1989年にここで私たちの組み換え牛疫ワクチンの牛への接種実験行った際、彼の実験ノートを見つけましたが、実験結果はあまりはっきりしたものではありませんでした。
一方、南アフリカではアーノルド・タイラー(Arnold Theiler)が免疫血清による予防を試みました。なお、彼は黄熱ワクチン開発でノーベル賞を受賞したマックス・タイラー(Max Theiler)の父親で、黄熱ワクチンの開発の経緯には牛疫での経験が反映されています。免疫血清による予防は効果が長続きしないため、まもなく免疫血清と病気の牛の血液すなわちウイルスを同時に注射する方法が、コッホ門下のウイリアム・コルレ(William Kolle)と現地の獣医官ジョージ・ターナー(George Turner)により考案されました。この方法では時折、感染発病する牛も出ましたが、治れば効果が長続きするという利点がありました。こうして、ワクチンが開発されるまで、免疫血清注射またはウイルスとの同時注射が唯一の予防法として広く利用されました。

牛疫ワクチン開発の歴史

明治初期に日本で発生した牛疫のほとんどは朝鮮半島から侵入していました。これは元を辿れば中国から朝鮮半島に侵入したものでした。そこで、牛疫予防の第一線を朝鮮半島にもうけて、ここの牛疫を撲滅し、さらに中国からの侵入を防ぐことになり、日韓併合の翌明治44年(1911)釜山に牛疫血清製造所が設立されました。ここの主任技術官の蠣崎千晴博士(図2)は、大正3年(1914)からワクチン開発に取り組み、グリセリンが牛疫ウイルスを不活化することに注目して、感染牛の脾臓乳剤をグリセリンで処理することにより不活化牛疫ワクチンの開発に大正6年(1917)に成功しました。これが世界最初の牛疫ワクチンです。なお、間もなくトルオール処理で作ったワクチンの方がグリセリン・ワクチンよりも免疫持続効果が長いことが分かり、トルオール・ワクチンに変えられました。
1928年にはインドの帝国細菌学研究所で、英国のエドワーズ(Edwards, J.T.)が偶然の出来事からヤギに順化した牛疫生ワクチンを開発しました。彼は免疫血清と感染牛血液の同時注射を行った場合、牛由来のピロプラズマ、バベシアなどの原虫が含まれることがしばしばあったため、牛由来の病原体が含まれず、しかも牛で病原性の強いウイルスを作り出す目的で山羊で牛疫ウイルスを植え継いでいたのです。継代がかなり進んだところで、同時接種実験を行うためにまず牛に山羊継代ウイルスを接種し、次いで免疫血清を注射しようとした際に誤って免疫血清の瓶を落として割ってしまい、多数の牛が病原性の増加したはずのウイルスを接種された状態になったのですが、予想に反して牛は発病せず、ウイルスが弱毒化されていたことが分かったのです。この成績は信頼されなかったのですが、これに興味を持ったインド人研究者が山羊継代を行ってみて弱毒化されることを1938年に発表し、それからエドワーズのウイルスがワクチンとして広く使用されるようになったのです。
釜山の獣疫血清製造所(牛疫血清製造所が改名したもの)では、蠣崎研究室で中村稕治博士(図3)(日本生物科学研究所の創立者のひとり)が牛疫ウイルスのウサギ継代を試みました。当初はウサギでの病原性を高めて、牛のモデルとして牛疫についての基礎研究を行うつもりでした。100代継代したところで調べてみたところ、ウサギでの病原性は増加していましたが、牛では逆に低下していました。ウサギ継代で牛疫ウイルスが弱毒化することが分かったことから、研究を弱毒ワクチンの開発に変えたのです。1941年には300代継代した生ワクチンを当時日本の統治下の内モンゴルで野外試験を行った結果、副作用は見られず免疫効果が高いことが確認されワクチンとして用いられるようになりました。モンゴルの牛は牛疫常在地で長年牛疫にさらされていたため牛疫に対する抵抗性が強く、ワクチンの副作用は見られなかったと考えられますが、朝鮮牛や和牛では強い副作用があり、時には死亡することもありました。そのため、これらの牛に対しては免疫血清とワクチンの同時接種が行われました。それでもエドワーズ・ワクチンよりはかなり副作用が少なく1960年代初めまで世界的にもっともすぐれたワクチンとして広く用いられました。
中村博士は第2次世界大戦後、ウサギ順化ワクチンをさらに鶏胚に順化して単独接種ができる弱毒ワクチンを開発しました。最初のウサギ順化ワクチンはLワクチン(ウサギ順化を意味するlapinizedの頭文字)と呼ばれ、鶏胚順化ワクチンは鶏順化を意味するavianizedの頭文字を加えて、LAワクチンと呼ばれています。
1960年代になると、培養細胞で増殖させたポリオワクチンと麻疹ワクチンが開発され、細胞培養ワクチンの時代に入りました。それにならって牛の腎臓細胞培養による弱毒牛疫ワクチンが英国のプローライト(Walter Plowright)(図4)により開発されました。ここで副作用がなく品質管理も容易で、しかも製造費用も安い近代的なワクチンが生まれたのです。なお、牛疫根絶計画で用いられたワクチンは、牛の腎臓細胞ではなく、私たちが1967年に報告していたVero細胞の培養系で製造されたものです。
家畜衛生試験場(動物衛生研究所の前身)では、中村博士のLワクチンを雞胚に順化したLAワクチンを独自に作りだし、1976年にはそれをVero細胞に順化したワクチンを開発しました。これが現在、緊急用に備蓄されています。

組み換え牛疫ワクチン

1980年代からFAOを中心として牛疫根絶計画が始められました。その頃、牛疫が残っていた地域はインド、パキスタン、中近東、アフリカでした。これらの国々は天然痘根絶計画で耐熱性天然痘ワクチンが役立った地域です。そこで牛疫根絶計画でも耐熱性ワクチンの開発が重要な課題となりました。その頃、米国では天然痘ワクチンの成分であるワクチニアウイルスにワクチン遺伝子を組み込んだベクターワクチンの技術が米国で開発されていました。私は医科研で牛疫ウイルスの遺伝子解析を行っていたのですが、予研時代から知り合いの杉本正信博士が東燃で、前に述べた橋爪博士の弱毒天然痘ワクチンをベクターとしたワクチン開発を始めていたため、私の研究室の吉川泰弘博士を中心として東燃と共同で組み換え牛疫ワクチンの研究を始めました。
私にとっては最初の研究テーマだった耐熱性天然痘ワクチン開発が、今度は弱毒天然痘ワクチンをベクターとした牛疫ワクチン開発ということになったのです。牛疫ウイルスのエンベロープのH蛋白遺伝子を組みこんだワクチンは間もなくできあがり、ウサギで調べると非常に高い免疫効果があることが確かめられました。しかし強毒の牛疫ウイルスは日本では使用できず、インド獣医学研究所で実験を行い、ウサギの場合と同様に高い免疫効果があることが確かめられました。
その頃、私たちと同じ発想で米国カリフォルニア大学教授のティルハン・イルマ(Tilhan Yilma)と英国パーブライト研究所のトム・バレット(Tom Barrett)が同様の組み換え牛疫ワクチンを開発していたため、1989年にOIEで組み換え牛疫ワクチンの専門家会議が開かれました。この会議ではベクターとして用いた天然痘ワクチンの安全性が問題になり、ワクチニアウイルス研究の第一人者であるデリック・バックスビイ(前回に紹介)が私たちのワクチンを強く支持してくれて、結局私たちのワクチンだけが実用化の対象として認められたのです。それから間もなく、バレットも私たちのワクチンで共同研究を行うことになり、パーブライト研究所で牛での本格的な実験を10年近く続けました。その結果、OIEが決めた野外試験のための基準をすべて満たすことができたのですが、野外試験のための研究費が獲得できず、またFAOの根絶計画が進展したため、研究を中止し実用化にはいたりませんでした。2010年10月にFAOが世界的牛疫根絶計画に関するシンポジウムを開いた際に、現在は退職したFAOの根絶計画責任者に会ったのですが、このワクチンが実用化まで進まなかったことを大変残念がっていました。

アジア地域での牛疫根絶に貢献した日本人科学者

インド、パキスタンを除くアジア地域での牛疫撲滅は1960年代までにほぼ終わりました。これには日本人科学者が大きな貢献をしています。前述のように明治44年(1911)日韓統合が行われてすぐ、釜山に牛疫血清製造所が設置されました。これは後に家畜衛生研究所となり、ソウル郊外の安養に支所が設立されました。終戦後、安養の支所が国立獣医科学検疫院として韓国最大の獣医学研究施設になり、口蹄疫対策でも中心的役割を果たしています。釜山は支院として動物検疫の施設になっています。昔の面影は動物慰霊碑にだけ残されています。(図5
ここで中国と韓国の国境に幅20キロ長さ1200キロにわたる大規模な免疫地帯の構築が始められました。最初は免疫血清とウイルスの同時注射、ついで蠣崎ワクチン、最後は中村ワクチンでほぼ完成したところで終戦になりました。
台湾では明治38年(1905)に牛疫血清製造所が設立され大正9年の発生が最後となりました。戦後、昭和24年(1949)にふたたび発生が起こりましたが、これは中村ワクチンで撲滅されました。台湾家畜衛生研究所の玄関前には牛疫撲滅記念碑(図6)が立てられています。
第2次世界大戦中の満州、現在の中国東北部では満鉄の奉天獣疫研究所の所員など5名が、終戦後中国解放軍に残留を依頼され東北獣医科学研究所の設立に協力し、ここで中村ワクチンのヒツジ順化を行いました。ウサギは入手困難だったためです。このワクチンで中国の牛疫は撲滅されました。なお、この研究所は現在、中国農業科学院ハルビン獣医学研究所となり、日本とインフルエンザなどの分野で共同研究を行っています。
カンボジア、タイ、ベトナムなどの牛疫も1960年代から70年代にかけて中村ワクチンで撲滅されました。

FAOを中心とした牛疫根絶計画

アジアのほとんどで牛疫は撲滅されたのですが、インド、パキスタン、中近東、アフリカでは牛疫の発生は続いていました。アフリカでは1987年FAOとアフリカ統一機構が牛疫根絶作戦を始めました。当時FAOの動物衛生課長を務めていた小澤義博博士は世界的な根絶を目指して牛疫根絶作戦を中近東と南アジアに広げ、最終的に1994年FAOはアフリカ、中近東、南アジアの作戦をまとめて世界的牛疫根絶計画を発足させました。これは、FAOがワクチン接種やサーベイランスなどを行い、清浄化の確認をOIEが行う方式です。その結果、2001年にケニヤでの発生を最後として10年間まったく発生していません。牛科の野生動物での調査でも、これらが牛疫ウイルスを保有している可能性はないと判断されています。
2010年10月、FAOは世界的牛疫根絶計画シンポジウムを開いた後、事務局長がこの計画の終了を特別声明で発表しました。これは実質的な根絶宣言といえます。このニュースは、私がローマで見たBBCテレビではチリ鉱山の救出速報の次に大きく取り上げられていましたが、日本ではまったく報道されませんでした。
正式には2011年春にOIE総会とFAO総会で、それぞれ根絶宣言が発表されることになっています。

20世紀の科学の進歩が貢献した牛疫根絶

牛疫根絶は天然痘根絶に次ぐ大きな成果です。天然痘根絶は前回述べたように、18世紀に開発されたジェンナーの種痘にもとづいて20世紀に一部改良された天然痘ワクチンを用いて達成されたもので、国際的な公衆衛生対策の成果といえます。
牛疫根絶は20世紀のウイルス学の進展により達成されたものです。とくに蠣崎ワクチン、エドワーズ・ワクチン、中村ワクチン、およびプローライト・ワクチンが根絶に直接貢献しています。一方、診断の面では、私たちが1968年に報告したVero細胞によるin vitro実験系が標準的研究手段となって、迅速診断法、流行ウイルスの分離、流行ウイルスをアフリカ1型、2型、アジア型の3つに分類する分子疫学といった新しい方法が進展し、これらの手段が根絶確認につながったのです。