ポリオウイルスの発見
オーストリア・ウイーンの病院の病理部長、ラントシュタイナー(Karl Landsteiner)は1908年、9歳の少年がポリオ発病後4日で死亡したので、その脊髄乳剤を細菌濾過器を通過させ、それをウサギ、モルモット、マウスなどの実験動物に接種してみました。しかし、いずれも発病しませんでした。たまたま、梅毒の実験に用いられた1頭ずつのアカゲザルとCynocephalus hamadryas(現在この学名は使われてなく、おそらくマントヒヒPapio hamadryas)がいたので、腹腔内に接種したところ、アカゲザルは完全な麻痺の症状を示し、解剖の結果2頭ともポリオ患者に見られる病変が脊髄や脳で見いだされました。これがポリオウイルスの最初の発見です。しかし、サルはウイーンでは入手が困難だったために彼はパリのパスツール研究所でルーマニア出身の細菌学者レヴァディティ(Constantin Levaditi)と共同研究を行い、サルへの継代を翌年発表しています。また、脊髄乳剤を回復したサルの血清と混合して健康なサルに接種したところ、発病しなかったことも見いだしました。これは免疫血清によるポリオウイルスの中和の最初の観察です。しかし、この方法を急性期の患者に応用した結果、効果はみられませんでした(1, 2)。
これ以後ラントシュタイナーはポリオの研究を行っていません。一方、輸血の研究で1909年にはABO血液型を発見して、この業績によりノーベル賞を受賞しています。
サルの脊髄乳剤を用いたポリオワクチンがもたらした悲劇
米国では1932年にポリオの流行が数回起きたのち、コルマー(John Kolmer)がポリオワクチンの開発を始めました。彼はウイルスを殺すことなく病原性を弱めるのが最善の策と考えて、いくつかの化学物質を試した結果、ヒマ油(リシノール)を用いることとしました。ポリオに感染させたサルの脊髄乳剤をリシノールで15日間処理したものをワクチンとしたのです。弱毒ポリオワクチンの最初の試みです。まず自分の11歳と15歳の息子、助手および25名の子供に注射してみた結果、彼はこのワクチンが安全なものであるとして、1934年に36の州とカナダで1万人以上の子供に接種を行ったのです。しかし対照を置いていなかったので、ワクチンの効果は分かりませんでした。さらに悪いことに、10名に麻痺が起こり、そのうち5名が死亡しました。麻痺は接種2,3週後に接種された腕で起きました。ある都市でのポリオの死者はこのワクチン接種者だけでした。その結果、コルマーは殺人者という非難も起きました。
1936年にはブロディー(Maurice Brodie)がポリオを感染させたサルの脊髄乳剤をホルマリンで不活化したワクチンを作り3つの州で7000人の子供に接種し、4500人を対照とする実験を行いました。最初の不活化ポリオワクチンです。その結果、対照のグループでは5名がポリオにかかりましたが、ワクチン接種グループでは1名がかかっただけでした。これはワクチンが88%の防御効果を示したことになりますが、接種グループ中の1名の発病者についてワクチンの安全性が問題になり、最終的に彼は職を追われることになってしまいました。1939年彼は36歳で死亡したのですが、自殺と推測されました。当時、評価はされなかったのですが、彼はホルマリンがポリオウイルスを不活化すること、ホルマリン処理ウイルスが抗体を産生させること、さらに用いるホルマリンの量が多すぎると抗体産生能力が失われることを初めて示したのです (3)。
細胞培養を用いたソーク・ワクチンの開発
1948年にエンダース(John Enders), ウェラー(Thomas Weller), ロビンス(Frederick Robbins)が人胎児細胞培養でポリオウイルスを増殖させることに成功しました。これで大量のポリオウイルスを実験室内で増やすことが可能になりました。それまでのワクチンの失敗は神経組織を含むことが原因と考えられていましたが、神経組織以外の細胞でウイルスを増殖できるようになったのです。さらにポリオウイルスの検出も容易になりました。彼らの成果はポリオだけでなく、現在多くのウイルスワクチン開発に貢献しています。彼らはこの業績で1954年にノーベル賞を受賞しています。
細胞培養の技術は直ちにソーク(Jonas Salk)がポリオワクチンの開発に応用しました(図1)。彼は最初、サルの睾丸細胞の回転培養でポリオウイルスの増殖を試みたのですが、睾丸細胞で作ったワクチンは受け入れられないと考え、肝臓、腎臓、筋肉細胞の培養を比較した結果、腎臓細胞がもっとも増殖に適していることを見いだしました。そして、腎臓細胞で増殖させたポリオウイルスをホルマリンで不活化したワクチンを1953年に開発したのです。ソーク・ワクチンは2年後に承認されました。
カッター(Cutter)事件
ソーク・ ワクチンが承認され大規模接種が始まってまもなく、カッター事件が起こりました (4)。カリフォルニアのカッター社(Cutter Laboratories)で製造したワクチンの接種を受けた子供でポリオ患者が発生したのです。この会社のポリオワクチンは直ちに回収されたましたが、すでにそれまでに38万人の子供に接種されていました。最終的に患者は全部で204名となり、そのうち11名が死亡しました。原因はホルマリンで不活化されなかったウイルスがワクチンに含まれていたためでした。ウイルスに汚染していたワクチンは12万ドーズと推定されました。
ソーク・ワクチンの品質管理は、試験段階では開発を担当していた全米小児麻痺財団によりソークのプロトコールに従って行われていたのですが、製品の品質管理は、国立衛生研究所(National Institutes of Health)の生物製剤管理室(Laboratory of Biologics Control)による国家検定のための基準に従って行われていました。この組織は1901年にジフテリア免疫血清製造用のウマが破傷風に感染していた結果、破傷風の患者が20名出たことを受けて設立されたものでした。ここではそれまでに数多くのワクチンの検定を行ってきたのですが、ソーク・ワクチンの場合は特別でした。世の中の期待が非常に大きく検定は迅速に行わなければならなかったのです。ソークが用いていたワクチンの検定の手順は55ページあったのですが、NIHの製剤基準では5ページに短縮され、不活化の項目も著しく短縮されていました。製造の際の品質管理条件もはっきりしていませんでした。政府のメーカー監督の法的枠組みも不十分でした。結局、不活化不十分のワクチンが製造され、国家検定でも見逃されてしまったのです。この事件を受けて3ヶ月後には生物製剤管理室は生物製剤管理部(Division of Biologics Control)に格上げされました。私は1972年、ここの初代部長のマレー(Roderick Murray)夫妻とモスクワの会議で一緒に数日を過ごしたことがありますが、カッター事件については何も話してくれませんでした。
この部は1972年以後、食品医薬品庁(FDA)に移管されています。
カッター事件ではいくつもの訴訟が出されました。その結果、カッター社には過失はないが製造責任はあるという革命的判決が出されました。
カッター事件は不活化ポリオワクチンだけでなく、ほかのワクチンについても大きな影響を与えました。細胞バンク、種ウイルス、中間段階の製品および最終製品についての製造と試験のための基準は厳しくなり、その結果ポリオワクチン以外ワクチンから新たに開発されるワクチンにいたるまでそれらの安全性と有効性が著しく改善されたのです。
ソーク・ワクチンはその後、事故を起こすことなく米国では4億人に接種され、全世界で広く用いられて有効性が確かめられました。しかし、セービン(Albert Sabin)の生ワクチンが1960年代初めに承認されてから、安価で免疫が長く持続することからほとんどの国では生ワクチンに切り替えられました。
ただし、北欧諸国(スウェーデン、フィンランド、アイスランド、ノルウェイ)とオランダは最後までソーク・ワクチンを用い続け、ポリオの排除に成功しています。とくにオランダはジフテリア、百日咳、破傷風のワクチンと混合した4混のソーク・ワクチンとして使用を続けています。
世界のほとんどの国でポリオが排除された現在、ふたたびソーク・ワクチンが用いられています。日本でも、オランダのような4混ワクチンへの切り替えが進められています。
経口生ポリオワクチンの開発競争(3, 5)
ポーランド出身のコプロフスキー(Hilary Koprowski)は1948年からレダリー社でポリオウイルスのマウス脳継代による弱毒化に取り組み始めました。7代目でサルへの脳内接種で病原性を示さなくなり、1950年には最初の人体への接種試験により副作用のないことを確かめました。この頃、同じレダリー社でコプロフスキーの上司でもあるコックス(Herald Cox)が弱毒ワクチンを開発し、コプロフスキーが1957年にウィスター研究所(Wistar Institute)へ移るまで社内での競争となってしまいました。
一方、シンシナティの小児病院研究所のセービンはサルの腎臓細胞継代により弱毒ウイルスを選択し、1954年に弱毒ワクチンに関する最初の論文を発表しました。1956年には、そのワクチンを9000頭のサル、150頭のチンパンジー、さらにオハイオ州の囚人ボランティア133名で接種実験を行いました。
1957年にはWHOがポリオに関する専門家会議を開き、弱毒ワクチンの条件を定め複数の利害関係のない研究所で確認することを求めました。1958年NIHはポリオワクチンに関する特別委員会で3つのワクチン株を検討し、セービン株がサルでの神経病原性がもっとも低いという理由から認めました。
1958年から1960年にかけてコプロフスキーはドイツで4万人、彼の故郷であるポーランドで700万人以上に接種を行いました。同じ頃、コックスはフロリダとドイツで接種を行ったのですが麻痺が高率に起こったため、レダリー社はコックスのワクチンの研究を中止してしまいました。セービンは彼の故郷のソ連で、ソ連政府の強力な支援のもと1959年に1520万人、1960年に7750万人、東欧諸国で2300万人と多数の子供に接種を行いました。米国ではその前にソークワクチンが用いられていたため、多くの子供が免疫を獲得していてワクチン効果の判定ができなかっためです。
なお、コプロフスキーはベルギー領コンゴでも同じ時期に彼のワクチンの接種実験を行っていました。この場所が最初のエイズ患者発生地域であったため、彼のワクチンにチンパンジーのサル免疫不全ウイルス(Simian Immunodeficiency Virus)が混入していたことが、エイズの原因という見解が提唱されたことがあります。もっとも、この説は専門家からは否定されていますが、その内容は私の人獣共通感染症連続講座91回で紹介してあります。
ところで、セービン・ワクチンは投与された数が圧倒的に多かっただけでなく、接種者の糞便の中にワクチンウイルスが排出され、それに経口感染することで非接種者にもワクチンが接種されるという利点が注目されました。米国では1961年にセービンの1型と2型ポリオ、1962年には3型ポリオ、1963年には3価ポリオワクチンが承認されました。こうして、1970年初めまでには全世界でセービン・ワクチンが用いられるようになったのです。
ポリオワクチンが提起したBウイルス感染の問題
ポリオワクチンの開発はサルからの人獣共通感染症の問題も提起しました。その典型的なものはBウイルス(正式名称はMacacine herpesvirus 1)です。Bウイルスについては、人獣共通感染症連続講座(2回、75回、86回、94回、179回)で紹介してあります。ここでは179回の内容を少し異なる視点から述べてみたいと思います。
最初の感染者は1932年、カナダ生まれのブレブナー(William Brebner)で、ニューヨーク市衛生局のポリオ研究部長としてポリオの研究を行っている際にサルに咬まれ、急性進行性髄膜脳炎で死亡しました。インターンだったセービンが解剖に立ち会いサンプルを採取し、それからウイルスを分離し、新しいヘルペスウイルスとしてBrebnerの名前の頭文字からBウイルスと命名したのです。この時の経験が彼のポリオ研究に大きな影響を与えたと言われています。
Bウイルスは1970年代半ばに病原体分類でもっとも高い危険性のレベル4に指定されましたが、それ以前には、日本でもポリオワクチンに関連してBウイルスの研究が行われていました。伝研ではタイワンザルから、予研ではカニクイザルから少なくとも3株のBウイルスが分離されています。1頭は検疫で見いだされたものです。またHSVとB ウイルスは血清学的にほとんど区別できないため、それぞれに特異的な抗血清の作製も行われました。この抗血清は、伝研で解剖したサルにBウイルスを疑わせる病変が見つかり、素手で解剖していた病理学研究部の人たちにパニックが起きた際に、サルの感染はHSVであったことを証明するのに役立ちました。私が初めて人獣共通感染症に関わるようになったきっかけもBウイルスでした。
日本でのSabinワクチンの緊急輸入
日本では最初、ソーク・ワクチンが採用され1959年には接種が始まりました。その頃、ポリオの大流行が起きていて1960年には5600人の患者が発生したため、生ワクチンの輸入をもとめる大きな市民活動が起こったのです(6)。そこで、1961年には生ワクチンの緊急輸入が政治決定され、ソ連のポリオ及びウイルス性脳炎研究所(Institute of Poliomyelitis & Virus Encephalitis)製のワクチン1000万人分とカナダのコンノート社(Connaught Laboratories)製のワクチン300万人が輸入されました(7)。この頃、米国ではまだ承認されていませんでした。これが特例承認によるワクチンの輸入の最初でした。2回目は2009年の新型インフルエンザワクチンです。
不活化ワクチンから生ワクチンに切り替えられたため急遽、北里研究所が中心となって日本生ポリオワクチン研究所が設立されました。セービンの種ウイルスが輸入され、1964年には最初のロットが検定に合格しました。ポリオの発生は激減し、1980年の患者を最後として排除に成功したのです。
私はモスクワのポリオ及びウイルス性脳炎研究所を1972年に訪問したのですが、所長室には日本からお礼に送られた市民デモのパネル写真と唐獅子の人形が飾られていました(図2)。
ポリオ根絶計画の進展
1974年にWHO はワクチンで予防可能な6つの病気としてジフテリア、百日咳、破傷風、ポリオ、麻疹、結核に対する免疫拡大計画を決定しました。この計画は1977年から実行され、ポリオの発生は著しく減少してきました。そこで、WHOは1988年の総会で、2000年までにポリオを根絶する計画を採択したのです。
1994年には、南北アメリカ大陸でポリオが排除されたことが宣言されました。日本では1981年からのちは、ポリオの発生はなくなっていましたが、排除確認の国際基準であらためて調査した結果、1997年に正式に排除が確認されました。2000年10月には、日本、中国、ベトナム、フィリピンなど16カ国が属する西太平洋地域での排除が宣言されました。2002年6月には、ヨーロッパ地域での排除が宣言されました。
こうして、当初、150カ国あったポリオ発生国は2000年には23カ国に減りました。しかし、2011年現在、アフガニスタン、インド、ナイジェリア、パキスタンの4カ国で発生が続いており、一旦排除に成功したチャドとアンゴラでは海外から輸入されたポリオウイルスがふたたび定着しています。
WHOは2012年末までにすべてのポリオウイルスの伝播を断ち切り、2013年にその成果を確認し根絶宣言への第一歩にする予定です。
文献
1. Blume S, Geeslink I: Essay on science and society: A brief history of polio vaccines. Science, 288: 1593-1594, 2000
2. Eggers, H.J.: Milestones in early poliomyelitis research (1840-1949). Journal of Virology, 73, 4533-4535, 1999
3. Furesz J: Development in the production and quality control of poliovirus vaccines – Historical perspectives. Biologicals 34, 87-90, 2006
4. Offit PA: The Cutter incident. Yale Univ Press, 2005
5. Competition to develop an oral vaccine.
http://web.archive.org/web/20071007095443/http://www.polio.info/polio-eradication/front/templates/index.jsp?siteCode=POLIO&codeRubrique=34&lang=EN
6. 上田哲:根絶.いるか叢書、1967
http://www.geocities.jp/hokukaido/konzetu/e-mokuji.htm
7. 甲野礼作:ウイルスと人間.玉川大学出版部、1981