1953年、ジェームズ・ワトソン(James Watson)とフランシス・クリック(Francis Crick) によりDNAの2重らせん構造モデルが提唱され、4つの塩基アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)の配列が遺伝情報を担っていることが明らかにされた。これに続いて、DNA にATGCの配列で書かれた遺伝暗号を解読する研究が始まり、クリックなど3名のノーベル賞受賞者が加わって激しい競争が繰り広げられた。意外なことに、遺伝暗号を解読したのは、彼らではなく、それまで無名の30代前半のマーシャル・ニーレンバーグ(Marshall Nirenberg)であった。ワトソンとクリックの二重らせん発見の物語は良く知られているが、ニーレンバーグの遺伝暗号解読の経緯はほとんど知られていない。最近、彼の伝記“The least likely man: Marshall Nirenberg and the Discovery of the Genetic Code”(もっともありえない男:マーシャル・ニーレンバーグと遺伝暗号の発見)が出版されて、解読にいたるドラマが初めて詳細に紹介された。著者のフランクリン・ポルトガル(Franklin Portugal)は分子生物学者で、ニーレンバーグの遺伝暗号解読の研究がもっとも重要な局面を迎えていた頃、彼の研究室に在籍し、40年にわたって彼と交友を保ち、彼が死亡する5日前にも会っていた。ニーレンバーグは実験ノートのほかに、ハードカバーのノートに絶えずわき出てくるアイディアなどを書き付けていた。それらの記録をもとにポルトガルは、ワトソンのような秀才ではなくクリックのような天才でもないニーレンバーグが、人のゲノムの33億個の文字の解読にもつながる、科学だけでなく社会にも大きな影響を与える発見をなしとげるまでの経緯を語っている。この研究が行われた時期は、ちょうど私がカリフォルニア大学留学中だったため、当時のアメリカでの研究環境を思い出しながら、スリル感も味わって本書を読み終えた。読後の印象がうすれない中に概略をまとめてみる。
1927年ニューヨークで生まれたニーレンバーグは、10歳の時にフロリダに移り住み、フロリダ大学の修士課程で昆虫の一種トビケラの生態と分類を研究した。ついで、ミシガン大学生化学部の博士課程でがん細胞における糖の輸送の研究を行った。
1957年30歳のニーレンバーグは、アメリカがん協会のポスドクとして国立衛生研究所 (NIH)に入所した。その4年前に、RNAタイ・クラブが結成されていた。DNAの情報から蛋白質が産生される際にRNAがどのような役割を果たしているかを議論するための集まりで、正式会員は20名に限られ、各人に20個のアミノ酸が1つずつ割り当てられていた。たとえば、ワトソンはプロリン、クリックはチロシン、ジョージ・ガモフ(George Gamov)はアラニン、シドニー・ブレンナー(Sydney Brenner)はバリンである。会員は二重らせんで縁取りしたネクタイをつけており、このことからクラブの名前が付けられた。会員のうちの8名はすでに、またはのちに、ノーベル賞を受賞していた。
ところで現在では、DNAの情報にもとづいて蛋白質が合成されるプロセスには、メッセンジャー(伝令)RNA(mRNA)、トランスファー(転移)RNA(tRNA)およびリボソームが主役をつとめていることが明らかになっている。核内に存在する DNAは、遺伝情報が4つの塩基の頭文字、A, T, G, Cで書かれた暗号テープに相当する。DNAの情報は、mRNAに転写されて、細胞質内にある蛋白質合成の場のリボソームに運ばれる。mRNAの3連文字がアミノ酸の暗号で、コドンと呼ばれる。リボソームでは、tRNAがコドンの指定するアミノ酸を運んでつなぎ合わせて蛋白質を合成する。この一連の仕組みは、以下に述べるように、遺伝暗号の解読を中心とした研究を通じて1960年代前半に明らかにされた。
RNAタイ・クラブでは、理論的考察からアミノ酸が3つの文字で規定されている推測していた。2つの文字だと4 x 4=16と20個のアミノ酸に対して少なすぎるため、4 x 4 x 4= 64の組み合わせにアミノ酸の暗号が含まれていると考えたのである。ニーレンバーグの日誌では1958年11月にDNAから蛋白質合成への流れについてのアイディアが初めて書かれていた。しかし彼は、蛋白質、DNA、RNAについて素人だったため、まず速読法を学んだのち、1分間に700-800語の速度で文献を読みあさった。同じ年に発表された無細胞蛋白質合成系で発見されたtRNA(当時はsRNAと呼ばれた)に、彼はとくに興味を抱いた。tRNAがリボソームでアミノ酸をならべて蛋白質を産生していることが示唆されていたのである。1959年夏から、彼は大腸菌の細胞から蛋白質合成の場となるリボソームを抽出する実験を始め、無細胞蛋白質合成系を作り上げた。その頃、RNAタイ・クラブのメンバーであるクリックとブレンナーは、核内のDNA から細胞質内のリボソームに情報を運ぶメッセンジャーとしてRNAの存在を推定していた。mRNAの発見は、1960年フランソワ・ジャコブ(Francois Jacob)、マシュー・メセルソン(Matthew Meselson)とブレンナーにより報告された。
1960年10月、ドイツからヨハネス・ハインリッヒ・マッシー(Johannes Heinrich Matthaei)がニーレンバーグの研究室にポスドクとして参加した。植物での蛋白質合成に興味を持っていた彼は、無細胞系での研究を希望していた。いくつかの著名な研究者を訪ねたが受け入れられなかったためNIHにやってきた。そこで、無細胞系での研究を行っていたのはニーレンバーグだけだったのである。蛋白化学の専門家であるマッシーの協力で無細胞系を改良し、リボソームからmRNAを引き出すことに成功した。リボソームからmRNAを取り除くとリボソームは蛋白質を合成しなくなり、mRNAを加えると、ふたたび蛋白質の合成が始まったのである。この結果はニーレンバーグに決定的なヒントを与えた。天然のmRNAを除去できるのであれば、人工的RNAを代わりに加えることができるのではないか、と考えたのである。彼らはいくつかの人工的RNAで実験を始め、1961年1月13日、ウラシル(U)を14個つなげたUUUUUUUUUUUUUU(ポリウラシル)を細胞抽出液に加えた。その結果、20個のアミノ酸のうち、フェニルアラニンだけがつながって産生された。この結果は、その後の実験で、UUUがフェニルアラニンを規定しているという、最初の暗号解読につながった。
1961年8月、ニーレンバーグはモスクワで開かれた国際生化学会議で、ポリウラシルの実験結果を発表した。6000名が参加した盛大な会議だったが、彼の発表を聞きにきたのはわずかで、彼はこの衝撃的な発見が知られることなく終わると失望していた。しかし、聴衆の中に当時ハーバード大学の若手教授のマシュー・メセルソンがいた。彼は講演が終わると駆け寄り、ニーレンバーグを抱きしめた。メセルソンは大きな会場を駆け回ってクリックを探し出し、発表の内容を伝えた。クリックは発表の重大性をすぐに理解し、大きな会場でふたたび講演する機会を設けた。そしてニーレンバーグは一躍スポットライトを浴びたのである。
この講演の聴衆の中にセベロ・オチョア(Severo Ochoa)がいた。彼も無細胞系での蛋白質合成の研究を行っていた。 この講演を聴いて、彼は人工RNAを用いた遺伝暗号の研究に力を注ぐこととなった。ポスドクを終えたばかりで発表論文も10編という若手研究者ニーレンバーグに対して、2年前にノーベル賞を受賞し、ニューヨーク大学で多くの研究スタッフを抱え100編以上の論文を発表していたオチョアとの競争になったのである。一方、RNAタイ・クラブはニーレンバーグの発表に驚き、不快感を抱いた。その1例として、ワトソンがニーレンバーグをマサチューセッツ工科大学での講演に招いた際のエピソードが紹介されている。最前列に座っていたワトソンは、講演途中からニューヨークタイムズ紙を広げて読み出し、講演をやめろといったしぐさを見せたのである。著者ポルトガルは、オチョアとの競争やRNAタイ・クラブの対応を、冷戦と述べている。
オチョアとの競争にNIH研究者たちはニーレンバーグに協力した。ニーレンバーグのグループは、64個のコドンのうち54個を解読し、残りはゴビンド・コラーナ(Gobind Khorana)により解読された。一方、クリックはもっぱら遺伝暗号についての講演で世界中を回っていて、1962年から66年までに30箇所で50回にわたって、ニーレンバーグから提供された最新の情報を紹介していた。
1968年10月16日早朝、ニーレンバーグはスウェーデンからの電話でノーベル賞受賞の報を聞かされた。彼の研究室ではグラス代わりのビーカーにシャンパンが注がれた。廊下には「UUUは偉大」とのサインが現れた。
1970年代、ニーレンバーグは神経生物学の研究に足を踏み入れた。1959年の日記に神経生物学への関心が書かれており、10年以上考えをめぐらしていたことがうかがえる。2009年11月11日復員軍人の日(Veteran’s day)、ニーレンバーグは、首都ワシントンのコスモス・クラブに350名以上の人たちを招待した。遺伝暗号解読の研究に関わった人たちと110名の神経生物学研究に協力した人たちである。全米から集まった招待客でレセプションは盛会に終わった。彼が大腸癌の末期ということを知る人はほとんどいなかった。それから2ヶ月あまりのち、2010年1月15日に彼は亡くなった。82歳だった。