オーストラリアでは1859年に持ち込まれた鯉が在来種の魚に大きな被害を及ぼしてきており、とくにオーストラリア最長のマレー川とその支流のダーリング川では、在来種の魚の80%が失われている。5月初めにオーストラリア政府は鯉の全滅作戦を発表した。2018年末までにマレー川とダーリング川にコイヘルペスウイルスを放出するという1500万オーストラリアドル(2億円)の計画である。そして30年の間に95%の鯉を排除することを期待している。
欧米のマスコミは、この大胆な計画を、世界最終戦争を意味するアルマゲドンになぞらえて、カーパゲドン(carpageddon: carpは鯉)と名付けて、膨大な量の鯉の死体が出現する事態が想定されることを報道した。しかし、ウイルスの放出にかかわる問題点には、ほとんど触れていない。ウイルス学の視点から、今回の計画を眺めてみる。
コイヘルペスウイルス放出計画を立案したオーストラリア連邦科学産業研究機構(CSIRO: Commonwealth Scientific and Industrial Research Organization)は、7年にわたってコイヘルペスウイルスの放出に伴うリスクを検討してきた。コイヘルペスウイルスに感染した鯉は1週間くらいの潜伏期ののち発病する。ウイルスは腎臓、皮膚、鰓などに障害を与え、鯉は発病後約24時間で死亡する。致死率は70-80%ときわめて高い。調べたかぎり、在来種の魚を初めウナギ、ザリガニ、蛙、亀、鶏、ネズミ、トカゲなどに病気を起こしていなかった。一方、人へのリスクは、1990年代初めからコイヘルペスウイルスが広がっていた中国やベトナムで漁民の健康被害は見られていないことから、低いと考えられた(1)。
ところで、コイヘルペスウイルスは、口蹄疫やBSEなどともに、国際獣疫事務局(OIE)の届け出伝染病のリストに記載されている。日本では2003年に霞ヶ浦で鯉の大量死が起きたことがある。ウイルス感染が見つかった場合、OIEに届け出る必要があるのだが、今回のような人為的な大規模放出に対して、OIEのスタンスはどのようなものになるのだろうか?
じつは、オーストラリアでは、大規模な致死的ウイルス放出は、1950年代にすでに行われていた。1859年に、トーマス・オースチンという人物がヨーロッパウサギをオーストラリアに順化させる目的で持ち込んだところ、天敵のいない大地でヨーロッパウサギは大繁殖した。1年間に100キロ以上の速度で、オーストラリア全土に広がり、農業や畜産の大敵となってしまった。1888年にパスツールがウサギ退治にパスツレラ菌の散布を提唱したこともあった。1919年以来、CSIROはウサギ粘液腫ウイルスの散布を検討していた。これはウサギには高い致死性を示すが人や家畜、オーストラリア原産の有袋類には害を及ぼさない。1950年からマレー川流域で試験したのち、1951年から2年にかけてウイルスが放出された。蚊の媒介によりウサギ粘液腫ウイルスはウサギの間で急速に広がり、大量のウサギが死亡した。しかし図に示すように、1957年までにウイルスとウサギの両方に変化が現れた。ウイルスの毒性は、当初99%の致死率を示したのが、1-2年後には90%に低下し、発病してから死亡するまでの期間は2倍に伸びた。一方、ウサギでは抵抗性を獲得して生き残るものが出てきた(2)。
毒性が低下したウイルスと遺伝的抵抗性のウサギが共存し始めたのである。数千万年の間に、ウイルスと宿主はそれぞれが生き残るために、進化をしてきたが、ウサギ粘液腫ウイルスの放出は、わずか数年で、ウイルスと宿主が共進化することを示した実験になった。
1950年に推定6億頭いたウサギの数は粘液腫ウイルス感染により1億頭くらいまでに減少したが、遺伝的抵抗性を獲得したウサギが増え始め、1991年までに2-3億頭にまで戻った。そのため、1991年から、致死的なウサギ出血病ウイルスの放出を検討し始めた。その間にウイルスは実験室から漏出してウサギに広がり一部の地域に定着した。
コイヘルペスウイルスの放出計画が、ウサギ粘液腫ウイルスの場合と同じような経過を辿ることになるのだろうか?コイヘルペスウイルスは水を介して感染が広がる。ウサギ粘液腫ウイルスは蚊が媒介する。伝播の仕方が違うウイルスを用いた、自然生態系とウイルスの関係に関わる2回目の壮大な実験になることは間違いない。
文献
1. Alice Klein: Australia to destroy alien carp by releasing herpes into rivers. Daily News. 3 May 2016, New Scientist. https://www.newscientist.com/article/2086635-australia-to-destroy-alien-carp-by-releasing-herpes-into-rivers/
2. Macfarlane Burnet & David O. White: Natural History of Infectious Disease. 4th Edition. Cambridge University Press, 1972.