151. 世界最古のスフミ霊長類センターの数奇な歴史

世界最古のスフミ霊長類センターは1927年、ソ連邦のグルジア、黒海に面したスフミに設立された。私は1972年、ここを訪問したが、研究所の本館は別として、全体の印象は動物園に近かった。

米国の霊長類センターは、第二次大戦後にスフミ霊長類センターの視察がきっかけで、1960年代に設立された。日本では、米国のセンターをモデルに1976年に、国立予防衛生研究所(現,国立感染症研究所)の支所として筑波医学実験用霊長類研究センターが設立されたのである。1917年にボリシェヴィキのソ連政権が誕生してから、10年しか経っていない混乱期に、どうして世界で最初に霊長類センターがグルジアに設立されたのか、非常に疑問に思ったのだが、とくに深く調べることはなかった。

ロシアのウクライナ侵攻のニュースに触れているうちに、この疑問が思い出され、調べてみたところ、思いもかけず、スフミ霊長類センター設立の発起人の中心となったイワノフを初めとして、きわめて数奇な歴史を辿ってきたことが明らかになった。

人工授精のパイオニア、イリヤ・イワノフによる人と類人猿の交配計画

20世紀初め、帝政ロシアの時代、サンクトペテルブルクの実験医学研究所の動物学教授、イリヤ・イワノフ(1870-1932)は、純血種のサラブレッドの人工授精の技術を開発していて、世界的に有名だった。1912年、京都帝国大学の石川日出鶴は、滞欧中にサンクトペテルブルクのイワノフ研究室で人工授精技術を学んで、日本に初めて導入した。

イワノフは人工授精により、近縁の家畜の交配種の作出を行い、シマウマとロバ(zeedonk: zebra and donkey)、ズーブロン(ヨーロッパ・バイソンと牛)、ラット、マウス、モルモット、ウサギなどで、さまざまな交配を行っていた。さらに人と類人猿の交配を計画し、1917年のロシア革命ののち、これを実行に移した。チンパンジーを入手するため、1924年にソ連政府に、仏領ギニアにあるパストリア・ステーションへの旅行を申し出たのである。

パストリア・ステーションは、パスツール研究所がフランス領ギニアのキンディアに設立したチンパンジーの飼育施設だった。これは、1913年に計画され、第一次大戦終了後の1923年、パスツール研究所のアルベール・カルメット(BCG 〔Bacillus of Calmette and Guerin〕の開発者)により建設されたもので、ここではチンパンジーを集めてパリに送っていた。1930年代には常時、2,3人の研究者が訪れていた。1923年から1959年まで、パスツール研究所で行われたサルを用いた研究(結核、腸チフス、ポリオなど)は、なんらかの形でパストリアにつながっていた。なお、1958年ギニア共和国が独立したのち、ここではポリオワクチンなどの製造が行われたが、1960年代に閉鎖された。

イワノフの申請は、科学アカデミーから反対されたが、ボリシェヴィキ政権から許可され、1万ドルの旅費が支給された。のちに、現地での実験用として10万ドルが追加支給された。イワノフは、この実験が人はサルから進化したことの証明になると主張していた。もし、人とサルの交配種が生まれれば、人とサルが非常に近縁というダーウインの説が正しいことを示すと主張したのである。この成果は、ボリシェヴィキにとっては宗教を敵視するプロパガンダになるため、貧困な財政にもかかわらず、イワノフを支援したと推測されている。

一方、当時、パリではロシアからの移民で、コレージュ・ド・フランスの教授、セルジュ・ヴォロノフ(1866-1951)がチンパンジーの睾丸を薄く切って高齢の男性の睾丸に移植するという若返り手術を行っていて、超有名人になっていた。ボリシェヴィキのエリートの間でも、この若返り手術に人気があったので、チンパンジーを連れて帰るイワノフの計画に賛成したという推測もある。

1926年2月、イワノフはまず、パリのパスツール研究所に立ち寄ったが、ここでは彼の計画は熱狂的な支援が得られた。彼は、ギニアに到着したものの、性成熟したチンパンジーがいなかったため、一旦パリに戻り夏を過ごした。その間、ヴォロノフと共同で、チンパンジーに女性の卵巣を移植し、ついで人の精子による人工授精を試みたが、チンパンジーは死亡してしまった。この実験は社会的に大きな反響を呼び、社会風刺などの小説が生まれた。

イワノフは11月ふたたびギニアに戻って、人の、おそらく同行した息子の精子による人工授精を3頭のチンパンジーに行った。ついで、現地女性にチンパンジーの精子を授精させる実験を行おうとしたが、それを知った植民地局から中止を命じられた。失望した彼は、20頭のチンパンジーをソ連邦の温暖なアブハジア共和国に連れて帰国した。ここでは少なくとも5人の女性がボランティアとして名乗り上げたが、結局、実験は行われなかった。

1927年8月24日、イワノフを中心とした3人の科学者の提案により、モスクワ実験内分泌研究所の支所として、アブハジアのスフミに、霊長類センターが設立された。一方、イワノフは、1930年、ソ連政府の全国的な科学者粛清の対象になりカザフスタンに追放され、1932年に死亡した。

米国視察団のスフミ訪問

米国には1930年にイエール大学心理学教授のロバート・ヤーキスが、ロックフェラー財団の援助で心理学研究のために、ヤーキス霊長類生物学研究所を設立していた。これは米国で最初の霊長類研究施設である。

1953年、スターリンが死亡して冷戦状態が和らぎ,米国とソ連の間で研究交流が行われるようになった。1956年、国立衛生研究所(NIH)の国立心臓研究所の所長ジェイムズ・ワットがアイゼンハワー大統領の主治医のポール・ホワイトとともに、スフミ霊長類センターの視察にでかけた。スフミでは、この頃には、2500頭のサルが飼育されていた。この際に対応したのは、1952年に所長に就任したボリス・ラピンである。

(1990年、ブラジリアで開催された国際霊長類学会で。左から学会長ミルトン・デメロ、筑波医学実験用霊長類センター長の本庄重男さん、私、ラピン)

米国視察団は、ヒヒを用いた高血圧の研究に感心し、帰国後、心臓血管研究のための霊長類研究センターの設立を政府に勧告した。この勧告に対して、政府は、医学全般を対象とした大きな計画を打ち出してきた。その結果、1960年代に国立衛生研究所(NIH)傘下の7つの地域霊長類センターが設立された。

私は1972年、ソ連保健省の招待で、タラセビッチ生物製剤研究所主催の国際会議(参加者は、日本、米国、ベルギー、イラン以外はすべて共産圏の人たち)に出席したのち、スフミ霊長類センターを訪問した。当時は、ヒヒでの白血病ウイルスなどの研究が行われていた。サルは2500頭くらいが飼育されていた。

ソ連崩壊後に起きた内戦に巻き込まれた霊長類センター

1991年ソ連が崩壊し、ジョージアが独立して、国連に加盟した。1992年にアブハジアでは、分離独立派とジョージアの間で内戦が勃発した。スフミ霊長類センタにはジョージア軍が侵入し、サルをケージから出したため、ほとんどのサルは山へ逃げ込んでしまった。残ったのは、老齢サルが300頭くらいだけだった。

この内戦には、ロシアの平和維持軍が侵入して、アブハジア共和国が設立され,
スフミが首都となった。この国はロシアやシリアなど、数カ国だけが承認している。ウクライナのドネツク州と同じように思える。

このような事態を想定していて、ラピンは大部分のサルを、スフミの北、ロシアのソチのアドラー地区(2014年冬季オリンピック開催地)に移していた。ここが新しい霊長類センターになった。この混乱の時期、スフミ霊長類センターと共同研究を行っていたワシントン霊長類センター長のダグラス・バウデンが中心になって、各国の霊長類研究者が支援することになり、私もわずかだが寄付した。

2008年には、創立80周年記念として、スフミで国際霊長類会議が開かれることになり、ラピンの後任のセンター長は、山に逃げ込んだサルを見つけることになった。サルの飼育人たちがジープで山を駆け巡り、餌を撒いて捜索したのだが、どれだけ集めることができたか分からない。

アドラーの霊長類センターでは、2017年の時点で4500頭が飼育されていた。ラピンは2020年に死亡した。98歳だった。

文献

Etkind, A.: Beyond eugenics: the forgotten scandal of hybridizing humans and apes. Studies in History and Philosophy of Biological & Biomedical Sciences. 39, 205-210, 2008.

Fridman, E.P.: Medical Primatology. History, Biological Foundations and Applications. Taylor & Francis. 2002.

Pain, S.: Blasts from the past: The Soviet ape-man scandal. New Scientist. 20 August, 2008.

Lapin, B. & Danilova, I.G.: Primate research centers – Russia. The International Encyclopedia of Primatology.Wiley-Blackwell, 2017.