182.ヒトチャレンジ試験の倫理的議論と新型コロナウイルス・パンデミック後の新展開

ウイルス感染における発病機序やウイルスの体内動態に関する知識は、長い歴史の中で、自然感染例の解析や限られた臨床試験の蓄積から断片的に得られてきた。とくに新興感染症では、発症に必要なウイルス量、ウイルス排出の時間経過、初期免疫応答などの基礎データは迅速には得られない。しかし 新型コロナウイルス・パンデミックを契機に、ボランティアにウイルスを接種し、その感染過程を精密に観察するヒトチャレンジ試験が、倫理的議論を経ながら本格的に始動した。革新的ワクチンの有効性・安全性を迅速に評価する手段としても、チャレンジ試験の重要性は増している。本連載127145でヒトチャレンジ試験をめぐる動きを簡単に紹介したが、今回はその後の進展を中心にヒトチャレンジ試験の現状を紹介する。

2016年、世界保健機関(WHO)の生物学的製剤基準専門家委員会は、ワクチン開発におけるヒトチャレンジ試験の規制面についてのガイダンスを発表し、「チャレンジウイルスによる発病が容易かつ客観的に検出可能であり、さらに効果的な治療または緩和手段により重症化や死亡リスクを確実に回避できる場合、ヒトチャレンジ試験を考慮しうる」という見解を示した(1)。この見解は、その後の 新型コロナウイルス チャレンジ試験の実施における重要な基盤となった。

なお、ヒトチャレンジ試験(human challenge study/trial)という用語は20世紀後半から2000年代に多く用いられていたもので、2010年代には、英国・欧州のワクチン研究コミュニティではcontrolled human infection model (CHIM)という技術用語に変わっていった。一方、WHOは2020年にはhuman challenge studies、2022年の指針ではcontrolled human infection studies、正式略語をCHISに統一した。用語のこのような変更の背景には、challenge(挑戦)よりも中立的で説明的なものにすること、trial(臨床試験)に限らず、モデル・基礎研究も含めること、社会的受容性やコミュニケーション上の配慮などが関わっていると推測されている。日本では、政府文書もヒトチャレンジ試験を用いている。

ヒトチャレンジ試験をめぐる生命倫理に関する議論

新型コロナウイルス のパンデミックは、従来、ワクチン領域に限られていたヒトチャレンジ試験の対象を拡大し、ウイルスの病原性、感染動態、初期免疫応答といった一般的性状の解明を目的とした実験的試験へと議論を押し広げた。

新型コロナウイルスという未知の病原体を健康なボランティアへ接種する行為は、当然ながら重大な生命倫理上の問題を提起した。生命倫理学の先駆者、米国プリンストン大学生命倫理学教授のピーター・シンガーは、「パンデミック倫理」という視点から、ボランティアがパンデミックでの闘いを助けるために有望な(しかし、危険な)研究に参加する意義を十分に理解している場合には、受け入れられるという考えを示している (2)。彼自身も(73歳という高齢にもかかわらず)ボランティアに登録していて、高齢者でもよければ参加するつもりだと述べていた。また、米国ラトガース大学の生命倫理学教授ニール・アイヤルも、パンデミック下でのヒトチャレンジ試験は倫理的に許容され、「むしろためらうべきではない」と主張した(3)。
パンデミックを経た現在、ヒトチャレンジ試験をめぐる倫理議論は、単なる賛否を超え、どのような条件下で倫理的に実施可能かという実践的論点へと大きく発展している。とくに英国、米国、EU、WHOを中心に、以下の現代的課題が共有されつつある。

1.リスク最小化から「リスク・ベネフィット共有」へ
従来は「健常者に病原体を投与するのは危険である」という一点に議論が集中していた。しかし、パンデミック の経験から、①感染を可逆的に管理できる低病原性株、②有効な治療薬が存在する病原体、③施設内での徹底隔離といった条件を満たせば、リスクを極めて低く抑えることができるという国際的コンセンサスが形成されつつある。

この変化を受け、WHO は 2022〜2023 年にかけて 「ヒトチャレンジ試験の倫理指針(最新版)」 を改訂し、リスクの最小化とともに、社会全体の利益との比例性(proportionality)を重視した評価枠組みを提示した(4)。

2.ボランティア参加の正当性 ―自己決定と公衆衛生的意義
シンガーやアイヤルが提唱した考え方は、パンデミック以降に多くの倫理学者に共有され、①熟慮した自己決定であること、②報酬が誘因とならず不当に脆弱な層を集めないこと、③社会的利益が大きく代替手段がないこと、などの条件を満たす場合、チャレンジ試験は倫理的に許容可能である、という見解が拡大している。

 

主要国でのヒトチャレンジ試験施設整備の進展

2021〜2024年にかけて、英国ではhVIVO*(ロンドン)、ベルギーのアントワープ大学のワクチノポリス**、米国立衛生研究所(NIH) 主導のチャレンジ研究ユニットなど、恒常的にチャレンジ試験を実施できる専用インフラの整備が進んだ。これらの施設では、集中治療医の常駐、GMP準拠の病原体製造体制に加えて、倫理審査体制が整備されている。倫理審査は二重で、まず研究機関内の倫理委員会(IRB: Institutional Review Board)で現場レベルの安全性が審査される。ついで外部の独立した倫理委員会(REC: Research Ethics Committee)による追加審査が義務づけられている。英国の新型コロナウイルスのチャレンジ試験では、RECに加えて英国医薬品規制庁の承認が必要である。

*hVIVO社は、英国を拠点とする専門的な契約研究機関で、とくにヒトチャレンジ試験を中心にワクチンや治療薬の開発支援を行っている。

**ワクチノポリスは、ベルギー連邦政府、フランダース地域政府、大学、民間企業の連携により2022年3月に開設された世界最大級のヒトチャレンジ施設で、BSL2/BSL3水準の研究室と30床規模のヒトチャレンジ用隔離・観察ユニットを備えている。

日本では、倫理指針、専用隔離施設、病原体製造・医療バックアップ体制などは整備されておらず、ヒトチャレンジ試験の導入は議論の段階にとどまっている。2024〜2025年の政府資料(内閣府・厚労省・文科省)では、「倫理的課題の複雑さから議論の進展が難しい」と明記され、国際的な潮流に追いつくには、制度整備・社会的合意形成が不可欠とされている。
2025年2月に決定した医療分野研究開発推進計画(2025〜2029年度)の中で、ヒトチャレンジ試験について、「国際的な動向を調査・分析することにより、導入の必要性について慎重に検討する」と言及し、今後、海外の実施状況などの調査を行うとしている。

英国で実施されたSARS-CoV-2(新型コロナウイルス)のヒトチャレンジ試験

2021年には、アルファ株になる直前の変異ウイルス(Asp614G株)によるチャレンジ試験が行われた。登録されている2万6,367人のボランティアから選ばれた36人の若い健康な未感染ボランティアに、10感染単位(TCID50)の変異ウイルスが鼻腔内に投与された。その結果、約半数が軽症ないし中程度のCOVID-19を発症した。重い有害事象は見られなかった。こうして、この試験がウイルスの病原性、ウイルス増殖、免疫、症状についての精密な経時的変化といった基本的な特徴を調べる手段になることが確認された(5)。
その後2023―2024年にかけて、ヒトチャレンジ試験では、同じ被験者について、空気中や環境表面へのウイルス排出、伝播しやすい条件が解析され、感染制御に重要な直接的知見が得られた。(6)。
このSARS-CoV-2チャレンジ試験は、安全性が確保されたチャレンジ試験の現代モデルとして倫理的に実施可能であることを実証したもので、新興感染症研究の強力な方法論の確立という意味で、重要な転換点となった。

RSワクチンとRS治療薬の開発で行われたヒトチャレンジ試験

乳幼児や高齢者に重症肺炎を起こすRSウイルスに対するワクチンの必要性は1960年代から指摘されていたが、当初開発された不活化ワクチンの接種を受けた小児が自然感染で重症化し、死亡者も出たため、ワクチン開発は60年間中断されていた。最近になって、ウイルスが細胞に融合する前のプレ・フュージョン型Fタンパク質を用いた革新的ワクチンが開発された。

このワクチンは、開発の過程で、健康成人に接種したのち、数週間後にウイルスを経鼻接種するヒトチャレンジ試験により、発症率・ウイルス排出量・症状スコアなどから有効性と安全性が確認されたことから、高齢者を対象とした大規模第III相臨床試験が行われた (7)。そして、2024年、妊婦と高齢者における重症化予防のワクチンとして初めて承認された。

一方、RSウイルスの治療薬はまだできていない。塩野義製薬はウイルスのRNA依存RNA合成酵素を阻害する治療薬を開発中で、英国のhVIVOでヒトチャレンジ試験による第2相臨床試験を行った。健康な成人にウイルスを接種したのち、5日間薬を経口投与した試験で、ウイルス量は88.94%減少し、症状が改善したという結果が2025年1月に報告された (8, 9)。

文献
1. World Health Organization: Human challenge trials for vaccine development: regulatory considerations. 2016. https://www.who.int/biologicals/expert_committee/Human_challenge_Trials_IK_final.pdf
2. Chappell, R.Y. & Singer, P.: Pandemic ethics: the case for risky research. Research Ethics, 16, 1-8, 2020.
3. Eyal, N.: Why challenge trials of SARS-CoV-2 vaccines could be ethical despite risk of severe adverse event. Ethics & Human Research, 42, 4 (2020): 24-34. DOI: 10.1002/eahr.500056.
4. World Health Organization. Guidance on the ethical conduct of controlled human infection studies. 14 January 2022. https://www.who.int/publications/i/item/9789240037816
5. Killingley, B. et al.: Safety, tolerability and viral kinetics during SARS-CoV-2 human challenge in young adults. Nature Medicine. 28 | MAy 2022 | 1031–1041.
6. Zhou, J. et al.:Viral emissions into the air and environment after SARS-CoV-2 human challenge: a phase 1, open label, first-in-human study. Lancet Microbe, June 9, 2023. https://doi.org/10.1016/ S2666-5247(23)00101-5.
7. Anastassopoulou, C. et al.: Development, current status, and remaining challenges for respiratory syncytial virus vaccines. Vaccines, 13, 97, 2025. https://doi.org/10.3390/vaccines13020097.
8. RSウイルス感染症治療薬S-337395の第2相臨床試験における良好な結果についてhttps://www.shionogi.com/jp/ja/news/2025/01/20250130_1.html
9. Evaluate efficacy, safety and dose-response of S-337395. https://doi.org/10.1186/ISRCTN24865912