人獣共通感染症連続講座 第79回 ソ連の生物兵器開発の実態:新刊書「バイオハザード」

(6/25/99)

本講座(第69回)でソ連の生物兵器計画の実質的責任者で、1992年に米国に亡命したケン・アリベックKen Alibekの話としてソ連における生物兵器開発の状況やマールブルグウイルスの実験室感染による死亡事故などをご紹介しました。 今回、彼の書いた本「バイオハザード」が出版されました。かなり派手に宣伝されているので、お読みになった方もいると思います。

彼の周辺での権力闘争、それにまつわるエピソードなどが多く紹介されておりソ連の軍事研究の実態は驚かされます。 しかし実際に生物兵器に関する技術的な部分はあまり多くありません。 生物兵器の実態に関するレポートという観点では贅肉が多すぎます。 そこで私なりにソ連の生物兵器の実態に関する部分を拾い出して、その要約を試みてみます。

1. ツラレミア(野兎病)菌

アリベックは医科大学軍事医学部の卒業です。 軍事医学部ではどんなことを学ぶのでしょうか。 この学生時代に、ソ連軍が1941年のスターリングラード攻防戦の際にドイツ軍に対してツラレミア菌を散布したことを文献調査から推定したレポートを書いたことがきっかけで、生物兵器の研究所で仕事を始めるようになりました。 ツラレミア(野兎病)は野兎が保有する細菌により起こるもので、日本では平安時代にすでに生の野兎を食べてかかる病気のことが記されています。 昭和の初めに福島の大原八郎博士がこの病気の原因を夫人への感染実験などを通じて解明し野兎病と命名したことは私の世代にとっては有名な話です。

ところで、アリベックの最初の仕事はワクチン耐性のツラレミア菌を作出して生物兵器に用いることでした。 この実験はアラル海のリバース島で1982年に行われました。 500匹のアフリカ産サルを輸入しワクチン耐性兵器の実験のためにサルにワクチン接種したのち小型爆弾につめた細菌で攻撃した結果、サルは発病・死亡しました。 この成績が評価されてアリベックは昇進の道を歩むことになったというわけです。

2. 炭疸菌の漏出事故

1946年、第2次大戦終結の翌年にスヴェルドロフスクに新しい陸軍生物兵器開発施設が完成しました。 日本軍から押収した設計図をもとにしたものです。 すなわち731部隊の設備が参考になったわけです。

この施設で1979年3月炭疸菌が流出して住民に感染させるという事件が起こりました。 これは欧米の科学雑誌にも大きく取り上げられ私も大分関心を持ったのですが、実態ははっきりしませんでした。 アリベック自身はこの事件にかかわってはおりませんが、関係者からの情報にもとずいて、この事件の背景を詳しく述べています。 それを簡単にまとめてみます。

炭疸菌を乾燥させるプラントで細菌の流出を阻止するためのフィルターが詰まったために担当者がとりはずし、新しいフィルターに交換するようメモを残して帰宅したところ、引継ミスでフィルターがつけられないまま乾燥機が始動され、炭疸菌の芽胞が外部に飛散したのです。 患者が発生してから地区の共産党責任者が樹木の消毒・刈り取り、道路消毒、屋根の洗浄を指令、これがふたたび炭疸菌の芽胞のエアロゾルを作りだしてさらに被害を拡大させたと推定されています。 この際の責任者の名前はボリス・エリツインでした。

呼吸器感染による肺炭疸の患者はソ連政府の発表では96名が発病、66名が死亡となっています。 今世紀最悪の肺炭疸発生でした。

炭疸菌の芽胞は何十年も生き続けます。 汚染した地域で家畜を飼えば感染するおそれもあります。 この点で最近のProMEDにスコットランドの西岸のグリュナードGruinard島で連合軍が1942年と43年に炭疸菌の爆弾の実験を行った後始末の記事が出ていました。 1986年から87年にかけて英国国防省のチームが海水を5%ホルマリンで消毒したのだそうです。 そして1990年には羊も安心して放牧できる状態にして持ち主に返還したということです。 もっとも今でも無人島です。

3. 天然痘ウイルス

天然痘根絶計画は、1953年にWHOの初代事務総長ブロック・チショルムBrock Chisholmが提案したものですが、その際にはマラリア根絶で多額の予算が費やされており、この提案はあまりにも膨大で複雑ということで取り上げられませんでした。 その5年後、1958年のWHOの会議でソ連の保健省次官のヴィクトール・ジュダノフVictor Zhdanovがあらためて提案し、それが取り上げられて始まったものです。 そして1980年に天然痘根絶宣言が発表され、天然痘ウイルスはモスクワとアトランタのCDCだけに保管されることになったのは衆知のとおりです。

本書では天然痘根絶に非常に貢献したはずのソ連が生物兵器としての天然痘ウイルスの大量生産を行っていたという事実が詳しく紹介されています。 要点は以下のとおりです。

最初に天然痘ウイルスの製造工場は1947年にモスクワから車で40分くらいのザゴルスクに建設されました。 ここはロシア正教の大寺院がある有名な観光地で、私も1972年秋に訪れたことがあります。 白樺林に囲まれた美しい場所です。

天然痘根絶計画の一端としてインドに派遣されたソ連の医療チームが持ち帰った天然痘ウイルス、インド1967株は、とくにサルで1~5日というきわめて短い潜伏期での発病を起こすことから生物兵器用の株として、この工場で大量製造されました。 コルホーズで生産した卵で培養し年間20トンの貯蔵量を維持していたということです。 天然痘ウイルスは孵化鶏卵の漿尿膜の上でよく増殖しますので、多分その方式だったのでしょう。

天然痘ウイルスは種痘をしていれば感染はまったく起こしません。 私も1960年代に予研で天然痘ウイルスの実験を手伝ったことがあります。 ザゴルスクの工場の従業員も種痘を受けていたわけですが、天然痘根絶により種痘が中止されているのに何百人もが種痘を受けたのでは周囲から疑われます。 そこで、お尻に接種したそうです。

4. マールブルグウイルス感染事故

1973年、シベリア、ノヴォシビルスク近くのコルツォヴォにベクターという名称の分子生物学研究所が建設されました。 表向きは民間研究施設として、しかし実体は生物兵器の先端軍事研究のためです。 これが1987年にゴルバチョフの指令で生物兵器を製造する大規模な施設に拡大され、アリベックが責任者として赴任しました。 その翌年にマールブルグウイルス感染事故が起きたのです。このことは本講座第69回でご紹介しましたので、今回新たに分かった事実だけに絞ります。

科学者のひとりウスチノフが感染して死亡したのです。 彼はウサギを押さえる役で同僚がウサギにマールブルグウイルスの接種を行っていました。 本来はウサギは保定板にしばりつけておくのですが、ウスチノフはこの保定手順を守らず手でウサギ押さえていたところ、同僚がウスチノフの親指に注射針をさしてしまったのです。 その後の経緯は本講座第69回でご紹介したとおりです。 治療には抗ウイルス剤のリバビリン(これはラッサ熱には効果があります)、インターフェロン、抗血清なども試みられましたが、結局3週間後に死亡しました。

さらに解剖に当たった医師団の病理医が骨髄採取に使用した注射器を自分に刺して発病、死亡したということです。 結局2名の実験室感染が起きたことになります。

ウスチノフの臓器から分離したウイルスは元のウイルスよりも毒性が強く安定性が高いためにU株という名前で生物兵器用になったのです。

そしてカザフスタンの生物兵器研究所でこのマールブルグウイルスが詰め込まれた小型爆弾の効果が12頭のサルで確かめられたということです。

5. ミエリン毒素産生ペスト菌

ミエリン鞘は神経軸索を包んでいるもので、これが破壊されれば全身の神経伝達が阻害され麻痺などの重い神経症状が出現します。 ミエリンに対する毒素の遺伝子を分離し、それをペスト菌に導入するのに成功したという話が出てきます。 ペスト菌の毒素とミエリン毒素を兼ね備えた強力な生物兵器というわけです。 このミエリン毒素産生ペスト菌はソ連崩壊まで製造されそうです。

ミエリン毒素とはどういった物質なのか、科学的な詳細はまったく語られていないので、これ以上の内容は分かりません。

6. 天然痘・エボラ兵器

ソ連時代に本気でこの課題に取り組んだことが述べられており、現在も続けられているはずだとアリベックは述べています。 その証拠として1997年にワクチニアウイルスのゲノムにエボラウイルスの遺伝子を導入するのに成功したという論文が発表されたことをとりあげ、これはワクチニアウイルスを天然痘ウイルスの代用物とした実験であると述べているのです。

Medlineで検索してみると、たしかにベクター研究所のチェプルノフChepurnovたちが「組換えワクチニアウイルスで発現させたエボラウイルスp24蛋白の免疫原性」というタイトルの論文をVopropsi Virusologie 42巻 115ページ(1997)に発表しています。 これはエボラウイルスのエンベロープの糖蛋白であるp24遺伝子をワクチニアウイルスに組み込んだもので、エボラワクチンの仕事です。 私は、麻疹ウイルスと同じグループでウシの急性感染症を起こす牛疫ウイルスのエンベロープ蛋白を種痘ワクチン(ワクチニアウイルス)に組み込んだワクチンの開発の研究を続けています。 これとまったく同じタイプの研究です。

エボラウイルスのエンベロープ蛋白を組み込む研究は米国陸軍感染症研究所USAMRIIDのピーター・ジャーリングPeter Jahrlingがすで論文に発表しています。 本講座第55回でご紹介したマイナス鎖ウイルス・シンポジウムでもジャーリングはこの内容の研究を発表しています。 このシンポジウムにはチェプルノフも参加してエボラウイルスに関する研究論文をいくつか発表していますが、この組換えウイルスについてはまったく触れていません。 研究がうまくいっていないものと推測されます。

本書の帯に「最新の遺伝子工学の技術を使って、エボラウイルスにもっとも感染力の強い天然痘ウイルスが挿入されているところを想像してみるといい」という衝撃的な表現があります。 これは大変な間違いです。 実際はエボラウイルスのエンベロープ遺伝子をワクチニアウイルスに導入する実験が行われたのが真相で、この組換えウイルスがエボラウイルスの病原性を示すことはあり得ません。 エボラワクチンになる可能性をもつものです。 天然痘ウイルスへの導入ができるだけの技術基盤はとても考えられませんし、仮に導入できても、やはりエボラウイルスの病原性は消失しています。 このような間違った宣伝はしないようにしてほしいものです。

ピーター・ジャーリングが天然痘・エボラウイルス兵器はまったくの幻想と言ったと本書に書かれていますが、私もまったく同じ意見です。

7. インドの生物兵器研究の疑惑

アリベックが1989年ソ連代表団の一員としてインドのネパールとの境のヒマラヤ山脈のムクテスワールMukteswarという小さい村へ行った時のことが紹介されています。 ここには私は2回訪れたことがあります。 ニューデリーから800キロくらい離れた辺鄙な山の中ですが、ヒマラヤ山脈での日の出を目の前で見ることができるすばらしい場所です。

アリベックはここの総合生物研究施設見学した際に、警備はニューデリー以上に厳しく、どの建物にも付き添いなしで入ってはいけないと言われ、わけを尋ねると危険すぎるからとの回答であったと述べています。 そして、厳しい警護の状態から、ここでも間違いなく生物兵器の開発研究を行っていると疑い、インドの生物兵器開発の証拠とみなしています。

ここは正式にはインド獣医学研究所のムクテスワール・キャンパスです。 現在の支所長も私とは旧知の間柄です。 1886年に英国の著名な細菌学者アルフレッド・リンガードAlfred Lingardが設立したものです。 インドはもちろん、全世界の牛に大きな被害を与えていた牛疫の研究のために、山の中に完全隔離の施設を作ったのです。 当時、ロベルト・コッホなどもここを訪れて牛疫の研究をしたことがあります。 ついでですが、彼の自筆の実験ノートも残っており、私はそのゼロックスコピーをとってきて大事に保管しています。

アリベックが訪問した同じ年に、私は1週間あまりここに滞在して私たちが開発した組換え牛疫ワクチンのウシでの有効性についての実験を行っていました。 ここを生物兵器の研究所と信じたというのには驚きました。

分厚い本ですが生物兵器の開発に関する骨格部分は以上にまとめた程度です。

古典的な細菌学にもとずく生物兵器の開発の実態は想像以上にすさまじいものです。 天然痘ウイルスや炭疸菌は古典的な方法でおそろしい生物兵器になりうるもので、それらが大量生産されていたことは事実でしょうし、さらにそれらがほかの国にも広がっているとすると非常に危険なことです。

しかし、本書に紹介されているウイルス兵器の話に先端的な技術は見受けられません。 アリベック自身のウイルス学の知識も非常に疑問です。 ベクター研究所からの研究発表は、これまで私が知っているかぎりでは、とても最先端のウイルス学の知識を応用した生物兵器開発にはつながるレベルのものではありません。 ただし現在、最先端の技術が導入されつつあることも事実です。

ウイルス学の新しい技術の応用は現在ではそれほど難しいことではなくなってきています。 今後、古典的生物兵器と同様に先端生物兵器についての注意が必要です。