第6回 4.3. ウィスコンシン大学の人々 (8/19/2002)

4.3. ウィスコンシン大学の人々

少なくともNewcomerに対しては包容力のある親切な人達である。最も私の貧困な英語力とshyな性向という狭い水低からの魚眼レンズで覗た世の中であるから、偏りのあることは重々承知している。それでも自分なりに精一杯頑張った1年間の真の留学生生活で触れた外国人との交流は忘れることのできない記憶として焼き付いている。
下宿の手配はMrs Mortonが予め手配して置いてくれたが、直ぐには入居できなかった。後で下宿の一家は新しい一軒家を購入したが、その手続きが遅れたためと分かった。その間、Barraiさんが自分で探せと、私とともに新聞広告を頼りに何軒かの家を回ったが、全部断わられた。喋れない人間はどうもうんさくさいと思われたらしい。モートン先生の家もこの週末は家族で出かけるから、ハワイ出身の学生が何人か住むところへ行けと言われ、トランク片手で大学の近くの街路を探し歩いた。なんとか見つけて入り込んだが、いきなりWho is?と問われ、名前を名乗った後はあなたまかせ。とにかく不安な夜が過ぎた。今から思えば皆善意の人たちであった。
下宿は大学のキャンパスからほぼ徒歩で20分ぐらいの距離で、季節のよい秋は快適な通学であったが、冬はたいへんであった。秋のキャンパスはまさに絵葉書そのもので真っ赤な紅葉、メンドータ湖の水、それにドングリを食べる小動物、そこを行きかう男女の学生、ぜひもう一度見たいと思った。Mr. S.(下宿の主人)は温厚な方で、契約と解約のとき以外は会った記憶がない。日曜など庭で芝刈り機を転がしているのを時をり見かけた。家賃の支払など日常的なことはもっぱらMrsであった。小学生の男の子がいた。朝は早く、夜が遅い私は家族とはあまり顔を会わせることもなかったが、なにかと気配りをしてくれていた様子である。
銀行や日常生活に必要な手続きほとんどMrs Mortonに手助けしていただいた。もう自分自身情けないと思うのだが、なにしろおしに近い状態だから、なり行にまかせるしかない。大学の学科登録では韓国からの留学生、Mr. Yong Jai Chungに助けてもらった。彼は京城の梨花女子大学校師範大学の助教授であったが、Dr. Crowの所へPh. Dとりにきていたのである。私とほぼ同じ年代で日本語が流暢であった。温和な方で今でもXカードの交換を行っている。学位をとった後、京城の元の大学に戻り学長にもなった。その後韓国における日本の文化勲章に匹敵する栄誉も受けている。
もう一人モートン先生の助手をのDr. CS Chungという韓国系アメリカ人が身近にいた。この方はモートン先生が開発した分離比解析の技法や分散分析、回帰分析を用いて疾患の遺伝要因の研究をしていた。分離比分析というのは基本的には核家族(両親とその子ども達)での問題とする疾患(あるいは形質)の分布から、メンデル因子を探しだすアプローチである。すなわち、メンデルの分離の法則を一般化したモデルを開発したモートン先生のモデルをチャン博士がデータを集め、それを電子計算機をを介してまとめるという三位一体の斬新な方法である。
1961年という当時では、アメリカと言えども電子計算機を使用しての遺伝研究は数少なく、おそらくヒトデータを用いての研究者として彼はトップを走っていたと言っても過言でなかろう。今考えるとMorton & Chungは今日の遺伝疫学という分野の創始者であったのだ。温厚な方で日本語も流暢で計算機のこと、疾患モデルのことなど丁寧に教えて下さった。私が統計を知っているということで、いろいろと尋ねてくれるのも嬉しいことであった。Dr. Chungには後にハワイ大学公衆衛生学教室の教授として再会する。
クロー(James F Crow)先生は1916の生まれで、私がマジソンに滞在した1961-1962年の時はウィスコンシン大学遺伝医学教室の主任であった。気軽に話しをかけてくる方で、木村、モートン両先生のPh D教授であった。理論を分かり易く解釈することについては定評があり、セミナーでそのような機会に接することもしばしばであった。私にとっては3人の大先生に一挙に遭遇する機会を得て、身にあまる光栄である。木村先生は遺伝子頻度についての拡散方程式の解をまとめてPh Dを、モートン先生は核家族のデータから連鎖分析におけるロッド値法を開発してPh Dを、お二方ともクロー先生に師事して学位をとられた。前者は集団遺伝学のその当時における集大成であり、後者は人類遺伝学の統計的方法の出発点となった学位論文である。このお二人のPh D学生を指導されたクロー先生はまさに柔軟な頭脳の持ち主で、善意のかたまりのような人柄もあって、先生を知るすべての人から愛され慕われている。
木村先生の特別講義をクロー先生の集団遺伝学の中でお聞きする機会があった。遺伝子頻度の機会的浮動がそのトピックスであった。ゆっくりと話されたのが印象的であった。ライト(S Wright)先生も進化についての御自身のSifting-Balancing Theoryの話しであったが、聞き取り難く分からなかった。あとで論文をみつけて読んでみたが、やはり分からなかった。当時は優先的に勉強しなければならないポルトガル語が頭にあり、試験には出ないというインフォーマルな情報を当てにして、自分の宿題として残してしまった。理解できたのは放医研退官後気持ちにゆとりが出たころである。
Gonzalezという学生がブラジルの調査に同行するとのことで、何回かポルトガル語の授業に出てきていたが、しばらくして姿を見せなくなった。なぜかMrs Mortonから同行しないことになったと聞かされた。彼女はよく大学のキャンパスに表れ、ラボでもよくみかけた。顔をあわせると、かならずAre you Happy?と聞かれるのには最初真意が分からずとまどった。「幸福か」と言う程の意味でなく、どう思うように物事が進んでいるかの程度の問いかけであるらしいことがわかり、I am happyと答えることにした。
遺伝医学教室のセミナーでS. Abrahamsonという学生がショウジョウバエを使った放射線遺伝の実験報告をしたことがある。放射線ということで興味をもったが、貧困な語学力のため、ほとんど分からなかった。この方には日本に戻ってからだいぶ時間がたったのち、広島で再会した。放射線影響研究所の理事として何度か来日されたのである。先方も私を覚えていてくれて、うれしく思った。
二学期から多くの夜の時間をDr. CW Cottermanの工作室でブラジルでの調査の準備の手伝いをした。大柄の人で、いつもにこにこしており、私が部屋に入って行くと低いが比較的聞き取れる声で話しが始まる。これが私が帰るというまで続く。まあ随分いろいろの事を聞かされましたが、このときは有機化学と人類学の授業で化学反応式を覚えることと膨大なペーパーバックを読了せねばならず、どうやりくりしたか。ともかく時間は過ぎていきました。生物学を学ぶには化学が大事と何度も繰り返していました。そのときは知りませんでしたが、彼のU-1と称する講義ノートが教室には出回っており、その著者がコッターマン先生であったのです。U-1はドイツの潜水艦Uボートの略ではなく、”Unpublished No U-1 from the Department of Medical
Genetics of the University of Wisconsin”の意味なのです。このメモはRelationship
and Probability in Mendelian Population. American J Medical Genetics 16: 389-392, 1983に彼の死後Publishされましたが、これは彼のPh D学位論文(1940)のエッセンスをウィスコンシン大学での講義で「公表」したもので、Combinatorial Geneticsの神髄がここにあります。ゲノムのBioinformaticsの勉強をコンピュータで学ぶ人にはぜひ一読されることをお勧めします。彼のアプローチはまず場合の数を数えることから始まり、それを一般的な公式あるいはアルゴリズムを求めて行くというものです。あるとき、コミックのChalie BrownがGood Grief!という場面の話しがでて、同様な表現が何通りあるかということになりました:HEAVENS! GOOD HEAVENS! BY GEORGE! FOR PETE’S SAKE! HOW ABOUT THAT! WHAD’YA- KNOW! LAND SAKE’S ALIVE! HEAVENS TO-BETSY! GREAT JEOSEOHAT! GREAT BALLS OF FIRE! ‘CHARLES A COTTERMAN! FOR CRYING OUT LOVED! HOLY SMOKED!
HEAVENLY PAYS! GOOD GRACIOU! HOLY COW! JUMPIN’ JEOSEOHAT! SUFFERING CATFISH! GOLLY NED! GOODNIGHT MOSES! HOLY CATS! JEEPERS CREEPERS! LEAPING LIZARDS! GREAT DAY IN THE MORNING! 私の手帳には彼の自筆で25通りですが、御自分の名前も入れているところは彼らしいと思います。彼が論文を全く発表しなかったわけでなく、味盲(PTC)の遺伝など彼の先生Dr L Snyderと共著の論文や血液型遺伝学についての報告が多々ある。しかし、なぜか一番彼の本質である学位論文の内容はU-1にとどまった。彼の話しを聞いていると、バブルのようにアイデアが噴き出し、次から次へと飛び交う。周りで聞いている人にとってどれだけ有り難いことか。本人は他人がどうしようが一向に気にしない。いわば名物教授とでもいうのか。このような人をkeepしているクロー先生も凄いと思った。ブラジルには多様なマメがあるので、血清として使える種を探しに行きたいとか。ブラジルは赤い染料の採れる木のことで、その名が国名となったのだが、おそらくもう切り尽くされて人里近くでは見られないだろうとも教えてくれた。本当によくしゃベっていた。私はときどきコックリするとすかさずNori!と起こされる。トイレに行ったすきに、自分のラボに戻って勉強を始めると、すかさず呼びにくる。話しは面白いし、聞き方の訓練になることは分かっていたが、落第点はとりたくない。
正月は2日から授業開始である。凍てついた氷雪の通路を吐く息白く学生が行く。半地下の窓からの眺めである。湖は完全に凍結してをり、湖岸は氷山を思わせる氷が鋭い切り口を見せて重なりあっている。降る粉雪は突き刺さる程に痛い。夜の帰宅は渠に落ちないよう、雪風を避けて大変であった。それでもこれまで考えもしなかった外国人と知己を得て、本当に幸せである。それにしてもせっかくの機会を貧困な語学力で十分に活用できなかったのは残念であるが、別の見方をすれば自分なりのベストを尽くしたという私なりの満足感がある。この一年どうなるかと思ったが、なんとかなった。