第7回 ブラジルへ(8/8/2003)

筑波へは毎年一回、8月の初めに訪ねることにしている。今年も8/2(土)に実行した。

その間、このフォーラムの記事を一年間も冬眠?してしまった。寺尾さんとの年に一度の話が弾んだのはよかったが、小生のつたない文章が中断していることをさりげなく触れられた。まったく申し訳ない。なにせ45年も昔の話を、日記を付けていたわけでもなく、はるか彼方の記憶も順序がすっかり混乱している。前後のことはともかくも、なんとか書き続けましょうということになりました。よろしくお願いします。

5.1. ブラジルへ

とにもかくにも「集中勉強」が終わり、いよいよブラジル行きである。木村資生先生に一夕招かれて、先生の御家族とご一緒に夕食を御馳走になった。なにはともあれ一年間よく頑張ったとねぎらいの言葉をいただき、私もとにかくも第一難関を通り抜けたのだという深い実感があったことを覚えている。アーテイチョ−クとかいう食べ物を生まれて初めて御馳走になった。奥様と坊ちゃんと先生に囲まれてなにを話したかもう記憶にないが、とにかくPh. D.を取ったら連絡しなさいと励まされた。木村先生はその後しばらくはマジソンで仕事をされて日本に戻られた。

クロー先生からも身体に気を付けて頑張るようにと励まされ、ご一緒に写真を撮った記憶があるが、多分書類を入れた段ボール箱のどこか自宅にある筈だが、残念ながらみつかりません。諸先生やお世話になった人たちや友だちには時間のゆるす範囲で挨拶をすませた。丸山さんは英語を話さない国に行くということで、凄いことだと妙な関心を示していた。モートン先生は相変わらず多忙な方で、安田助手はブラジル行きの荷づくりの大忙しでした。整理の上手なコッターマン先生をしてお前はパッキングのプロだと言わせるほどまでに腕前が上がった。それほど荷造りする日々が続いた。

コッターマン先生もブラジルに行くと言っておられたが、モートン先生のプロジェクトとは関係なく、マメの種を収集したいとか。血液型をタイピングするための植物抗体を探すのだと言っていました。MN血液型用のウサギ抗体、Rh血液型用の赤毛サル抗体などの動物抗体よりも安定した植物抗体をマメ科インゲン属でみつけたいということでした。たしかA抗体がすでにいくつか植物抗体として知られていた。どんなメカニズムかわかりませんがよい抗体が発見できればそれでよい、と言っていたのにはなるほど実験サイエンスとはこんなものなのかなと独り妙な納得をしました。コッタ−マン先生はまた国名「ブラジル」の由来を話してくれました。これは「赤い木」ということで、ブラジルがヨーロッパ人に発見された後、樹皮を剥くと赤い樹液がしみだす大きな喬木が盛んに切り出された。赤い樹液は染料として利用されたのである。あまりにも切ってしまったので、いまではほとんど「ブラジルの木」はブラジルで見ることができないとか。緑のジャングルといアマゾン河流域にでも行けばあるいは見つかるのかも知れないが、私のブラジル滞在中には見る機会はありませんでした。何本もの予防注射や健康診断を受けると、ああ、いよいよブラジルへ行くのだなという実感が湧いて来たのを思い出します。W. Nance, MDが健康診断書を書いてくれたが、要点だけ聞くとあとはさらとサインした書類を手渡された。あまりにも簡単なのでびっくりした。聞けば、彼はPh.D.をとるためにDepartment of Medical Genetics に勉強しに来ていたドクターでした。彼のPh.D.委員会の一人としてモートン先生が加わっており、その縁で好意的にサインをしてくれたようです。彼は血漿タンパク質の多型に興味があり、その手法(統計)を学びたいとのことでした。

昭和36年7月24日発行の私の日本国(一般)旅券(黒色)をみると、1962年6月8日にサンパウロのコンゴニアス空港からブラジルに入国しています。モートンご夫妻とお嬢さん2人と坊ちゃん3人と共に私が加わった、計8人の御一行様の道行きでした。飛行機の中で1泊していますので多分6月7日にマジソンを飛び立ち、ニューヨークを経由して一気に南下したことになります。マジソンから離陸したとき五大湖の一つミシガン湖が一望の下に見え、えらい小さい湖やなと思った次第です。ニュ−ヨークは降りたときの記憶はありませんが、初めて見た大西洋ということでしっかり印象に残っています。とにかくすべてが新鮮な体験でした。ヴァリグ航空に搭乗したとき、英語のアナウンスはうまく聞き取れなかったが、ポルトガル語の放送が理解できたのには感激でした。いよいよブラジル行きだ!時刻は夕方で、大西洋は間もなく暗闇に沈んでいきました。夕食後、今赤道を通過したとのアナウンスがあり、その後スチアーデスが「赤道通過証明書」なるものを配ってきました。どのくらいうとうとしていたか定かではないが、まもなくサンパウロに着くという機長のアナウンス。窓の隙間から明かりがもれているのでシャッターを開け、下を見下ろした。なんとブラジルの大地の赤いこと!飛行機は着陸前の滑空状態なので地上の様子がこと細かくみえる。木々や草地の緑があるのだが、その緑がすっかり透明になって大地の赤さが上空に迫ってくる感覚は鮮烈であった。この赤は酸化鉄の色だということは後で知った。

入国審査はもちろんポルトガル語です。最初のやりとりは何とかフォローできたのですが、1年間の長期滞在というのでいろいろ聞かれました。ブラジルへ入国する目的は?何処で何をするのか?入国後の住所は?… 。事務的な手続きはすっかりモートン先生(奥様?)におまかせでしたので、大分冷や冷やしました。しかしなんとかなりました。最後に入国後、居住地で外国人登録を2週間以内にするようにとの通達。どこで手続きをするのか具体的な説明があったのでしょうが、解放されたときは真っ白になっていました。その間モートン先生ご家族を長々と待たせる始末と相成った。

ここで小休止をして、ブラジルに最初に足跡を残した「日本人」について調べたことを紹介したいと思います。幕末における日本人の漂流船の話しに興味があり、在職中にも「北槎聞略」(桂川甫周 著−岩波文庫)の読後感を放医研の所内サーキュラー「パルス」に投稿したりした。これは伊勢の大黒屋光太夫らが嵐によりアリューシャン群島に漂着し、その後シべリヤを横断してペテルスブルグでエカテリーナ女帝に帰国許可の請願をし、許されてロシアから帰国した話しを桂川甫周がまとめた記録である。時は1782 – 1792年。ロシア語のロの字もわからない光太夫らが、言葉を覚えて、厳しいし冬の自然に向かう生きざまには私も身につまされる点が多々ありました。とても私ごときの留学初年度の体験どころではない!彼等には積極的に対処しなければたえず生命の危険に直面していたのである。

この後に続きがあることを最近「環海異聞」(大槻玄沢 著 雄松堂)で知った。これも漂流者、仙台藩の津太夫らの話しを聞き、まとめたのが大槻玄沢である。彼等もアリューシャン諸島の一つの島に漂着し、カムチャッカからシベリアを経てペテルブルグでロシア皇帝アレキサンドル一世に拝謁して帰国の許可をもらっている。途中のイルクーツクで光太夫グループの残留者と会い色々と世話になっている。光太夫もそうであったが、当時ロシアは日本とコンタクトを取りたく使節を派遣すると同時に漂流民を送ってきたのである。光太夫はシベリアを往復したが、津太夫らはなんと地球を一巡りして帰国したのである。1793年12月に仙台を出航してから11年が経過している。そのときのロシア使節はレザノフで、ペテルブルグの近くのフィンランド湾に面するクロンシュタット軍港から(1803年6月16日出航)、バルト海を進みデンマークのコペンハーゲンに着いた。漂流民の一人、太十郎が上陸して町を見物した由。かれは好奇心が強く珍しいものはなんでも見てやろうというところがあったという。イングランド南西端のファルマス港に寄り、南下してカナリア諸島のテネリフェ島のサンタクルス港に寄港。赤道を通過してブラジル南部のサンタカタリーナ島(フロリアノポリス?) に1808年10月16日に着いた。太十郎のみが上陸した。はからずも太十郎はブラジルに足跡を残した日本人第一号として記録されることになった。もっとも徳川家光の時代に数十人の日本人が奴隷としてリオデジャネイロにいたという話しがある(「ブラジルの日系人」角田房子(潮新書116頁))が、確とした記録は無い。使節船はさらに南下して南アメリカ大陸の最南端ホーン岬をまわり太平洋に出た。南半球で夏に当る季節とは言え氷山をみる機会もあったに違い無い。マルケサス島を経由し、再び世界の真中、赤道を(南から北半球へ)通過した。ハワイ島(当時はサンドイッチ島と呼んだ)で食料を入手して、大平洋を北上して再びカムチャッカに戻った(1804年6月28日)。約1年の歳月をかけた船旅であった。カムチャッカから長崎へのあらましはレザノフの「日本滞在日記」(岩波文庫)に詳しい。「環海異聞」のあらましは「漂流記の魅力」吉村 昭(新潮新書)が手ごろである。今日の日本人でも世界一周の旅をした人はどれほどいるのか、また一度の旅で北大平洋と南極洋の氷を見、赤道を別方向から2度も通過したたという人になると冒険家でも少ないのではないか。

話しが脱線したが、日本からブラジルへの記録に残る移民は明治41年(1908)4月28 日に神戸を出航し同年6月18日サントスに着いた「かさと丸」乗船の783人である。太十郎の船でのフロリアノポリス着の154年後、かさと丸移民のサントス着の95年後に私は空路サンパウロでブラジルの大地に立ったのである。