これまで掲載した内容の一部も含めて一般向けの解説書を出版しましたので、「まえがき」、「目次」、「あとがき」を紹介させていただきます。
「まえがき」
宮崎県で発生した口蹄疫は二九万頭に達する大量の家畜の殺処分というこれまで日本では経験したことのない事態となり、全国民に大きな衝撃を与えた。
口蹄疫は、きわめて高い致死率を示すウイルス疾患の牛疫とならんで、もっとも重要な家畜伝染病とみなされてきた。しかし、口蹄疫がどのような病気で、なぜ重要なのか、殺処分という中世を思わせるような方式がなぜ実施されなければならないのか、これからも口蹄疫が発生したら同じようなことがくりかえされるのか、さまざまな疑問を国民は抱いたに違いない。
口蹄疫の存在は二〇〇〇年以上前から知られていたが、これにかかった牛のほとんどは回復するため、あまり問題にされることはなかった。日本でも、明治二五年(1892)に制定された家畜伝染病予防法の前身である獣疫予防法では、口蹄疫に対しては特別の対策は取られていなかった。
十九世紀後半、家畜や牛肉の国際間での貿易が盛んになり始めてから口蹄疫は貿易における障害として注目されるようになった。その結果一八九二年に英国で初めて殺処分方式が正式に取り入れられ、二〇世紀後半には国際獣疫事務局(OIE)の国際動物衛生規約に採用され、それが二一世紀まで続いているのである。ヨーロッパのほとんどの国は殺処分の代わりにワクチンの定期接種を実施していたが、EUは一九九二年からはワクチンの使用を禁止し、英国にならって殺処分方式に切り替えた。これはワクチンよりも殺処分の方が経済的という理由からであったが、ワクチン接種した場合に産生される抗体が自然感染の場合と区別できないことも理由のひとつであった。EUはこの問題を解決するために、口蹄疫ウイルス遺伝子から作られる蛋白質のうち、ウイルス粒子には含まれない蛋白質(NSP)を自然感染の目印(マーカー)に利用するアイディアに注目し、NSP抗体の検査法の開発研究の支援を一九九四年から始めていた。
二〇〇〇年の宮崎の口蹄疫はこのような国際情勢の下で発生し、いくつかの幸運に恵まれて最小限度の殺処分で清浄国に復帰できた。一方、その翌年、二〇〇一年に英国で六〇〇万頭の家畜が殺処分されるという、これまでにない大きな発生が起こった。この発生で英国政府が行った対策を調査した委員会の二〇〇二年の報告は、殺処分のみに依存してきた対策をきびしく批判し、いくつかの勧告を行った。これがきっかけになって、口蹄疫対策には大きな転換が起きてきた。これまでのワクチンを精製してNSPを除去したマーカーワクチンが実用化され、「殺すためのワクチン」から「生かすためのワクチン」に関わる研究が盛んになってきたのである。
私の研究対象は牛疫ウイルスであって、口蹄疫の専門家ではない。しかし、世界口蹄疫レファレンス・センターが併設されている英国のパーブライト研究所で、一九九〇年代終わりまでの一〇年間、私たちが開発した組み換え牛疫ワクチンについての共同研究を行っており、その間に口蹄疫研究者との交流も深まった。また、現在まで二〇年近く「OIE科学技術レビュー(Scientific and Technical Review OIE)」の学術顧問をつとめてきたため、口蹄疫に関する情報に触れる機会も多く、関心だけは持ち続けてきた。
今回の宮崎での発生では、マスコミ報道は殺処分に重点が置かれ、口蹄疫に関わる研究の進展が取り上げられることはほとんどなかった。そこで改めて最新の学術情報を収集し、それにもとづいて口蹄疫という病気の実態、口蹄疫の歴史、対策の変遷、今後の問題点などを紹介することにした次第である。
「目次」
第1章 口蹄疫とは? —— 症状は軽いが急速に広まる伝染病
1.ウイルス学の出発点
2.口蹄疫は軽い病気
3.人の衣服や風に乗って海を越えて運ばれるウイルス
4.口蹄疫ウイルスとポリオウイルス
第2章 口蹄疫と殺処分 —— 長い対策の歴史
1.殺処分による対策のはじまり
2.ワクチンか? 殺処分か?
3.ワクチンへの大きな転機
4.研究所から漏出した口蹄疫ウイルス
5.オランダでは緊急ワクチン接種
6.北米での口蹄疫 —— 日本のウイルスが初期の発生源に
7.メキシコでの大発生と国境封鎖
第3章 口蹄疫ワクチン —— 新しい展開
1.口蹄疫ワクチンの歴史
2.マーカーワクチン
— 殺すためのワクチンから生かすためのワクチンへ
3.組み換えDNA技術による新しいマーカーワクチンの開発研究
第4章 口蹄疫と日本
21世紀に初めて問題となる
1.明治時代における発生 —— 重要視されなかった口蹄疫
2.台湾の養豚産業の壊滅
3.2000年・宮崎 —— 100年ぶりの発生
4.2010年・宮崎 —— 欧州の教訓が生かされず
5.日本の口蹄疫対策に見られる非科学性
第5章 口蹄疫とどう付き合うか?
1.口蹄疫バイオテロ
2.動物福祉と口蹄疫対策
3.口蹄疫は人間が作り出した疫病
「あとがき」
二〇〇〇年の宮崎での口蹄疫の際に私はホームページの人獣共通感染症連続講座で「口蹄疫ウイルスは人に感染するか」という記事を掲載し、二〇〇一年の英国での大発生の際には「口蹄疫との共生」という記事でヨーロッパがNSPフリーのマーカーワクチンの方針を取り上げたことを紹介した。それらが出版・報道関係者などの目にとまったらしく、今回の宮崎での発生では非常事態宣言が五月十八日に出された直後から、雑誌や新聞評論の原稿依頼がいくつか寄せられた。
マスコミからの取材の電話も多くかかってきた。その度に米国への入国カードに家畜との接触の有無を書く項目があることを取り上げ、その目的を尋ねてみたが、それが口蹄疫対策であることを知っていた記者は皆無であった。あらためて日本では口蹄疫の重要性についての認識が欠けていることを痛感させられた。
獣医学では口蹄疫を重要な家畜伝染病と認識はしているが、テキストブックには獣医師国家試験のための情報程度しか述べられていない。そのため、獣医学領域の人たちでも口蹄疫に関する理解はきわめて限られたものになっている。
今回の宮崎での農林水産省の対応を見ていると、口蹄疫担当者たちは国際動物衛生規約に述べられた対策を忠実に実施していた。しかし、それらの対策がどのような経緯で決められ、どのように変わってきたのかといった背景は十分に理解していないように見える。二〇〇一年に英国で大発生した口蹄疫が「殺すためのワクチン」から「生かすためのワクチン」への方針転換をもたらし、ワクチン接種を最初の選択肢とみなすようになっていたことを認識していたとは思えない。
宮崎の発生は「生かすためのワクチン」が必要となった最初の大きな発生であった。日本の対応に懸念を抱いた欧州家畜協会が本文で紹介したような緊急声明を発表したのは、日本が「殺すためのワクチン」にこだわっていたためである。結局、日本は欧州家畜協会が心配したように、二〇〇一年における英国やオランダの二の舞を演じることになった。
英国での大発生の際に、農林水産省担当者は英国の発生を他山の石として準備を行わなければならないと述べていたが、英国の調査報告書や、その後の科学の進展を把握していれば今回のような事態にはならなかったはずである。
本書の初校が印刷に回されたのちに日本の対策についての海外の見方を確認する機会が二回訪れた。最初はOIEのトップ、ベルナール・ヴァラ (B. Vallat)事務局長とのインタビューが紹介されたテレビ番組であった(TBSクロス23、八月十六日放映)。これは私のマーカーワクチンに関する見解が朝日新聞(前述)で取り上げられたことがきっかけで作られた番組であった。その中でヴァラ事務局長は、「現代的なワクチンを投与された動物(の体内に産生される抗体)と自然感染(による抗体)を区別することは出来る」と明言していた。さらに民間の種牛を処分した問題について、「OIEには希少動物の生命を保護する規則があり、動物園動物や和牛の種牛は勿論これに含まれる」と答えていた。すなわち、殺処分ではなく、生かすことを考えるべきであるという趣旨であった。希少動物の保護という視点があったことは私にとっても初めての認識となった。
民間の種牛処分をめぐる動きは、今回の日本政府の対策における象徴的なものであった。マスコミからの取材に対して、私は科学的に感染していないことを証明するのは容易であり、検査を行った上でその点が確認されれば生かしておくべきであると答えていたが、この意見は報道されなかった。結局、政府の「胸を張って清浄国に復帰する」という方針が貫かれた。家畜伝染病予防法の冒頭に書かれている「畜産の振興を図ること」という目的に照らし合わせた説明はなされなかった。
八月十八日には東京で口蹄疫に関する国際ワークショップが開かれた。ここで農林水産省の担当官が日本での対策を発表したあとの討論で、座長をつとめていたパーブライト研究所・世界口蹄疫レファレンスセンターのリーダー格の研究者が、真っ先に二つの質問を投げかけた。なぜ発生確認直後からワクチン接種を行わなかったのか、ワクチン接種動物について感染とワクチン接種の識別を行ったかという内容であった。今回の日本政府の対応が初めて海外研究者から評価される結果となったのである。
本書は、科学的立場から口蹄疫全般について一般向けの解説としてまとめたものである。しかし、口蹄疫は、致死的な牛疫や高病原性鳥インフルエンザとは異なり、家畜への健康被害は比較的軽いという特殊な家畜伝染病であって、本文でも紹介したように近代畜産の時代になって貿易や経済の面から重要とみなされるようになったものである。そのため、口蹄疫への対処には現代社会における貿易、経済に関わる問題も考えなければならない。
本書が口蹄疫についての正しい科学的認識を得るのに役立つとともに、口蹄疫に関わる科学以外のこれらの問題を考えるきっかけになることを期待したい。