4.1. アメリカへ
ここから日付の年号が西暦になる。羽田を発ったノースウエスト機はアンカレッジ経由シャトルとアメリカ大陸に向かった。日本国から初めて離れ、しかも初めて飛行機にのり、これまでの英会話のレッスンが何だったのだというくらいさっぱりわからない英語のアナウンス、初めての機内食、などなどすべてがまさに新しい体験のはじまりであった。アンカレッジに着陸する際に見た海はエンジンを止めて滑空していたせいか静かな沼を観ているようであった。入国手続き後の待合室は8月というのに暖房が入っていたのにはびっくりした。当然ながら売店のお土産品の値段がすべてドル、セントであったのも新鮮な違和感であった。給油の後、海岸線に沿って南下してシャトルに無事到着。通関も無事済ませて、シカゴ行きの別のノースウエスト機のエンジントラブルの修理を待ったため6時間ほど空港のロビーでぼやーと過ごした。日本語を話す乗客が居たので不安をまぎらすことができた。21時過ぎて太陽が沈まず、なるほど高緯度のところにいるのだなと納得したりした。いよいよ英語しか通じない世界へと暗くなってから飛行機に乗り込んだが、その便はローカル線らしく、日本の夜行列車に乗り込んだような雰囲気であった。不安と安堵が同居しているような不思議な心境であった。飛んで1時間ほどしてドスンという軽い衝撃でスポーケンという町に下りたが、しばらくして3、4人の人が乗り込んできてまた飛び上がった。夜行列車がローカル駅に止まった具合である。夜が明けるとスチュワーデスがコーヒーか紅茶かと尋ねてきたのだがとっさの返事ができずに往生した。どちらかを飲んだことは確かだが、多分コーヒーだったと思う。
翌朝11日シカゴに着き、一番難関と考えていたマジソン行きの飛行機を探す問題に直面した。しかし結構せまい通路を通ったりしてなんとか目的の飛行機に無事に乗り込むことができた。マジソンの空港までは1時間ほどであった。モートン夫妻が空港に私を迎いに来ており、さあこれからだと思い何度も反復して覚えていた’Dr. Morton, I am Norikazu Yasuda from Japan.’ と一気に話かけた。さあ、その後が大変である。会話がどう展開するかは準備してもその通り行かないのが常であるが、そのあとモートン先生のシャワーのごとき話しがさっぱり理解できないのである。ハワイ出身の日系アメリカ人である奥様のNancy O Mortonが通訳をかっていただいたので、なんとか意思の疎通は成立したが前途多難を思わせる出会いであった。
そのままモートン先生の家に連れて行かれ、長旅と時差ぼけで疲れたであろうから一休みしなさいということで、2階の子どもさんの部屋を提供してもらった。子どもさんは男の子2人女の子2人の計4人とのことだが、末っ子のエミーだけが居たように思う。寝ようにも外は明るいし、時差ぼけとあらゆることが新体験なので興奮していてなかなか眠れない。それでもうとうとしたか、眼をさますとまだ明るい。しかし時間はすでに17時を過ぎていた。ひょいとエミーが顔を出した。かわいい小さな女の子で人怖じしないで話しかけてきたが、さっぱりわからない。幼児はこの大人がしゃべれない筈がないという前提で話し掛けていたようだが、この大人はからっきし「おし」である。きょとんとした顔でこちらをしばらく見ていたが、再びはなしだす。往生した。声を聞きつけたのかモートン先生が顔をだし、眠れたかそれなら下に降りて来いというので、逃げるようにそれにしたがった。
さーそれからが大変である。お前の下宿はまだ見つけていないから、しばらく先生の自宅に滞在するようにとのこと。大分後になってからわかったことだが、白人のお宅に泊めていただくことは最大級のもてなしだということである。そんなことは知らないから結局あつかましくも1週間近くお世話になってしまった。奥様のナンシーは片言の日本語をまじえながら、私のこれからの生活の具体的な段取りを準備してくれていたことを話してくれた。ともかくしゃべれないのだから好意にまったく甘えることにした。そばでニコニコそれを聞いていたモートン先生は、今度は先生の番だとばかりこれからの勉強や研究の方針をぽつぽつと話てくれた。これはわからんでは済まないので必死になって耳をそばだてた。この詳しいことについては後ほどに触れることにする。
まず来年はブラジルへ行くのだから、まずポルトガル語を覚える。モートン先生も講義にでるとのこと。これはサボるわけにはいかないと内心思った。とにかく私のPh.D.候補者委員会を召集して私のためのカルキュラムを作るから、これまでの経歴とBS(学士)の成績表をだせとのこと、あらかじめ用意していたものを手渡した。このときモートン先生が熱ぽっく話してくれたことは不肖の学生あまり思い出せない。言葉のせいもあろうが、残念である。ブラジルはマナオスに行くとあらかじめ聞かされていたが、まだ未決定でもう一度現地の様子を調査してから決めたいという話は覚えている。
モートン先生はかって広島のABCC(原爆障害調査委員会、現在の放射線影響研究所の前身)に滞在したことがあり、日本人の英語能力は先刻ご承知であることはこのとき私の頭にはまったくなかった。それに気づいたのはハワイに行ってからのことである。そのせいにはしたくないが、アーウンの呼吸のコミュニケーションが成立してしまって、私の英語は駄目になってしまった。私が一言話だすとモートン先生に先を読まれてしまうのである。
ウィスコンシン大学遺伝医学部のモートン先生の研究室に行った。モートン先生は準教授である。まずは学部長のJ F Crow教授に紹介されたが、この方が木村先生の先生で身近に話ができることがとても信じられなかった。木村の所から来たのは君かね、期待しているから頑張りなさいと励ましていただいた。その他いろいろの人を紹介されたが、ほとんどHi!,Halloo!と気さくに声を掛けられた。最後に、実験室の出入り口に近いコーナーをここがお前の場所だと決めてもらった。この実験室は半地下にあり、窓からはキャンパスを歩く人々の足を下から見上げるような位置にあった。机の上にはモンローの電動計算機があり、自由に使ってよいといわれ、さすがアメリカと妙なことで感激した。三島の遺伝研では木村先生が使っておられたのは知っていたが、放医研ではもっぱらタイガーの手回し計算機であったのである。私のとなりはP. Michael Coneallyで、かれはモートン先生の最初のPh.D. studentである。私の到着後まもなく学位をとり、後にインデアナ大学でハンチントン病の遺伝疫学研究でモートン先生の分離比分析や連鎖分析を駆使して顕著な実績をあげた。何事でも彼の説明に対しておうむ返しにすぐYESという私に奇妙に思ったのか、説明の後Do you understand? If so, repeat what I said.と確認をとるようになった。これにはまいったが、よくぞ鍛えてくれたと感謝している。英語はNoは頻繁に使うが、Yesという返事はよっぽど確信がないかぎり言わないようである。モートン先生のところにはイタリアのProf. L.L. Cavalli-Sforzaのところから来たDr. Italo Barraiというポストドクがいた。一年の間よく彼と大学のキャンパスを散歩した。彼にはドイツ人の友達がいて、あるとき私も含めて3人がカフテリアで落ち合ったとき、日独伊枢軸連盟だとかいっておどけるなど、よくしゃべる明るい人であった。とかく引きこもりがちな私を呼び出して散歩につれていってくれた。宿題が山ほどあっていやいやついていったこともあったが、結果的に息抜きとなったのは感謝している。
木村先生は私より1ヶ月ほど前に家族と共に来ておられ、大学のキャンパスでお会いした。数理研究所の先生の研究室をみせてもらったが、セキュリテイが厳重なのにびっくりした。とにかくPh.D.をとるよう頑張りなさいと励ましていただいたのをおぼえている。ミズリー大学から「丸山毅夫」さんがやってきてクロー先生のPh.D.学生となった。ショウジョウバエを使って実験をしていたのを覚えている。彼はやはりクロー先生のPh.D. studentの韓国人のChungさんと台湾からのTanさんと3人で机を並べオリエンタルセクションと称していた。その後丸山さんは遺伝学でPh.D.をとり、その後数学でMA.を取った。日本でいえば博士号をとった後に修士号をとったわけで、遺伝研に就職したとき履歴書の順序が間違っていると庶務から言われたといっていた。学位の内容でなく形式からくるお話である。彼とはその後、遺伝研の集団遺伝部で3年ほど一緒することになる。
そうこうするうちに下宿もきまり、日用品もそろえ9月から始まる新学期にそなえることにした。当時は1ドルが360円の固定レートで日本からの持ち出しも200ドルが上限であった。ドラッグストアで生活用品を買ったときの感触は100円/ドルぐらいが実感であった。研究助手としての給料が195ドルぐらいの中途半端な数字であったのを覚えている。当然9月から払う授業料がない。研究助手なので「州出身者」と同じ扱いで安くなるが、結局モートン先生から借りることにして、月割りで返却することになった。銀行に口座を開いて、自分用の小切手を入手する手続きなどナンシー夫人がすべて手伝ってくれた。すっかりお任せであった。ドル紙幣のサイズが金額に関係なく同じサイズで同じ色。高額紙幣は高々20ドルが出回っているようであった。現金は人前でみせるな、特に金持ちだということを他人の前であからさまにしないようにとは、ナンシー夫人の忠告であった。場合によっては銃で撃ち殺されるかもとは物騒な話である。最初はおっかなびっくりで小切手を切っていたが、さすがに大学のカフテリアは現金払いであった。50セントも出せば大きなステーキが食べられた。
マジソンはウィスコンシン州の州都で、私がビックタワーといってナンシー夫人をびっくりさせたドーム付の議会が中心の学園都市である。メンドータ湖ともう一つのマノーナ湖に挟まれており、静かな公園のようなただ住まいである。自動車を使うつもりも買うお金もないので、下宿からキャンパスまで20分ぐらいの道のりを朝晩歩いた。9月からの新学期に備えて、すこしづつ新環境への順応が始まった。