173. 医科学研究所・奄美病害動物研究施設の変遷

1.120年前に始まったハブ毒抗血清の製造

医科学研究所(医科研)の歴史は、北里柴三郎が1892年(明治25年)、設立した大日本私立衛生会付属伝染病研究所(伝研)に始まる。1896年(明治29年)、痘苗(天然痘ワクチン)の製造が伝研の業務となった。同じ年、血清薬院の制度が設けられ伝研に任された。血清薬院では、まずジフテリア血清の製造が始まり、1900年(明治33年)からペスト血清、1902年(明治35年)から破傷風血清とコレラ血清、1904年(明治37年)からハブ毒抗血清の製造が加わった。

ジフテリアと破傷風の血清は北里のドイツでの研究成果にもとづくものであった。ハブ毒抗血清は、その数年前にパスツール研究所のアルベール・カルメットが北里・ベーリングの抗血清にならって開発したコブラ毒抗血清の製造法を、伝研の北島多一が応用したものである。コブラ毒は神経毒だが、ハブ毒は出血毒で、カルメットは出血毒に対する血清の作製はほとんど不可能としており、北島の業績は高く評価され、1909年(明治42年)第一回浅川賞を授与された。なお、カルメットは カミーユ・ゲランとともにBCG (Bacillus of Calmette-Guerin)を開発したことで有名である。

1902年(明治35年)、伝研は鹿児島県大島郡金久村字名瀬(現在の名瀬市)の295坪の民有地を買い入れ、大島出張所として仮の建物でハブ毒の採取を始めた。1904年(明治37年)には最初のハブ毒抗血清が出来上がった。1907年(明治40年)には技術室25坪、ハブ飼育室16坪のハブ毒採取所が完成した。

2.奄美病害動物研究施設の設立

終戦で奄美群島は米軍統治下に入り、大島出張所も閉鎖された。1953年12月25日、奄美群島は日本に返還され、7年半の米軍統治から解き放されて日本に復帰した。伝研は1954年大蔵省管財局から大島出張所が返還されているとの連絡を受けた。しかし、大島出張所の建物はすでに琉球政府が移築して保健所として用いており、跡地には文化会館が建てられ、それを鹿児島県が引き継いで管理していた。

1955年8月、佐々学助教授(1958年より教授、後に所長)は所長の長谷川秀治教授から代替地の調査と奄美の医療状況の視察を命じられ、伝研に入所したばかりの田中寛助手(1976年より教授)と奄美大島に向かった。島の最南端の瀬戸内町は大島海峡に面した港町で、真珠湾攻撃の際、日本海軍の艦隊は瀬戸内町沖に集結して出撃していた。当時、佐々は、海軍軍医としてマレー沖にいて、この町の名前を聞いていた。その思い出もあって、瀬戸内町を訪れたところ、町長から海軍航空隊跡地が国有地として残されていることを教えてもらった。奄美からの帰路、佐々らは熊本市の大蔵省財務局九州出張所に立ち寄り、代替地としてこの土地の取得を申し出た。1957年、瀬戸内町古仁屋須手の海軍航空隊跡地(約3000坪)の伝研への譲渡が決定された。

1959年大蔵省から、この土地に鹿児島大学との共同研究施設を設置するよう勧告された。そこで、1962年この敷地を鹿児島大学熱帯研究施設(熱研)用地として同大学に所管換えすること、将来伝研が研究上必要な施設を建設する際には鹿児島大学は出来る限り協力すること、熱研の建物・研究室の半分を伝研に使用させるという覚え書きが交わされた。

1965年、奄美病害動物研究施設(奄美施設)の設置が認可され、覚え書きにもとづいて研究棟を鹿児島大学から借用した。その後、1970年には奄美施設専用の新しい研究棟(168 m2)が竣工した。1982年には熱研の廃止に伴い、鹿児島大学から土地及び建物が医科研に移管された。

奄美施設は熱帯病研究の中心となり、ハブ咬症、フィラリア症、糞線虫症、鈎虫症などの対策が行われた。フィラリア症の研究では、実態調査と治療が始められ、スパトニン(Di-ethyl-carbamazine-citrate)の集団投与により、1979年に根絶が達成された。ハブ咬症の研究は、1957年から試験製造室の沢井芳男博士が中心となって、凍結乾燥ハブ毒抗血清の開発、ハブ咬症における死亡および後遺症の原因となる壊死の発症機構の解明、予防のためのハブトキソイドの開発などが行われた。

3.リスザル繁殖プロジェクト

1979年6月、実験動物研究施設に教授ポストが設けられ、私が初代教授として国立予防衛生研究所(予研)から転任した。翌年3月私は突然、獣医学研究部藤原公策教授に奄美施設に一緒に行ってほしいと言われた。奄美施設では、寄生虫研究部の林良博助教授により、ハブの生態や咬傷予防対策、ワタセジネズミなど野生齧歯類の実験動物化の研究、海産有毒動物の調査などが行われていたが、林助教授は4月に寄生虫研究部に戻ることになり、代わりに獣医学科解剖学教室出身の服部正策助手が着任することになっていた。そして施設の運営は、寄生虫研究部から実験動物研究施設に任されることになったのである。

私は藤原教授と初めて施設を訪れ、林助教授を加えた三人で今後の研究方針を相談した。北端の名瀬空港からバスで3時間あまり揺られて南端の奄美施設までの道、本州とはまったく異なる奄美の風景に引き込まれていた私は、野生齧歯類の実験動物化などの継続に加えて、実験動物学の視点から新しいプロジェクトとして奄美の気候、風土を利用したリスザルの繁殖を提案した。

私が実験動物としてのリスザルの存在を知ったのは、思いがけない経緯で出かけた5年前の欧米の霊長類センター視察の際である。当時、私は予研の実験動物委員会サル部会の部会長として、サル繁殖室の整備のために1億円の予算要求を行っていたが、たまたま予研の筑波への移転が決定され、それに対して全所的反対運動が起きたことから、厚生省は予研の一部移転として35億円の予算で筑波医学実験用霊長類センターを設立する方針に転換したのである(人獣共通感染症、第177回)。私は、世界保健機関(WHO)の基金で1974年、3ヶ月にわたる欧米の霊長類施設の調査に出かけた。とくに注目したのは、米国、ルイジアナ州トゥレイン大学デルタ地域霊長類センター(現在はTulane National Primate Research Center)のリスザルの繁殖コロニーだった。そこでは、温暖な気候を利用して多数のリスザルがさまざまな研究に用いられていた。リスザルはグループ繁殖が可能で、成獣で体重は500-1200グラムと小型で、かつ性質が温順で取り扱いが容易なため、神経、免疫、ウイルス、寄生虫、生殖生物学など医科学の広い領域での基礎的データが豊富だった。マラリアに感受性があって、自家繁殖可能な唯一の実験動物としても注目されていた。私の調査報告を受けて、筑波医学実験用霊長類センターは主目的の大規模なカニクイザルの屋内繁殖に加えて、リスザルの小規模の繁殖事業を始めていた。

当時、医科研では施設長の兼任は内規で認められていなかった。私は実験動研究施設長だったため、獣医学研究部速水正憲助教授が施設長となり、私は運営委員長として施設の運営に携わった。1980年8月、服部正策助手が着任したので、まず、リスザルのコロニーを維持していた山之内製薬研究所で、リスザルの取り扱いなどの研修を受けてもらった。プロジェクトの予算はなかったため、予研から6頭、山之内製薬から3頭を無料で分与してもらい、一室をリスザル飼育室として繁殖プロジェクトをスタートさせた。1982年、繁殖室の拡充やサルの購入予算の要求を検討していたところ、たまたま熱研が閉鎖され、その建物が移管され、同じ頃、予研からは20頭が分与された。結局、追加予算なしで、繁殖プロジェクトは軌道に乗っていった。

4. 奄美施設閉鎖の危機

2001年、私の研究室出身で農学部獣医微生物学助教授の甲斐知恵子博士が、実験動物研究施設教授として医科研に戻ってきた。内規は変わっていて、彼女は実験動物研究施設長と奄美病害動物研究施設長を兼任することになった。最初に新井賢一所長から命じられたのは、奄美施設の人事枠だけを医科研に引き上げて、奄美施設を閉鎖することだった。彼女は、私が運営委員長の時代、実験動物研究施設助手として何度も奄美に出張しており、奄美施設は東大としても、医科研としても大切な財産だと思っていたので、この指示に驚かされた。所長に、奄美はすばらしい財産と話してみたものの、既に執行部として協議を重ねた上での結論だったようで、再考してもらえる余地はないと判断した。

実際に現地を見たことがあるか訊ねたところ、執行部の誰も奄美施設へ行ったたことがないことがわかった。そこで、最後に執行部全員で訪問することを提案した。まずは見てもらって、奄美施設の存続意義を考えてもらうことしたのである。

所長、副所長、病院長、事務部長、経理課長を含むかなりの数の団体で現地視察に出発した。羽田空港で搭乗する際にも新井所長は「方針は変わらないからね」と付き添いの関係者にもらしていた。奄美行きの飛行機の中では、閉鎖に向けての方針を語り合っていた。甲斐施設長は何も語らなかった。

到着後、甲斐施設長と服部講師は、一行をまず、当時奄美にあった旧世界ザルの飼育会社に連れていった。次に明治時代にハブ毒採取所が設置されていた場所を訪ねて奄美施設の歴史を説明した。見学の途中では、佐々学元所長の奄美におけるフィラリア根絶という大きな成果、奄美での経験を生かした熱帯病対策が東南アジアの人々からも広く感謝されていること、奄美施設が島民に大事にされていることを知ってもらった。

奄美施設に到着後、新井所長は奄美施設の敷地内を歩き回って、思っていたより広いことに驚いたらしい。医科研の貴重な財産であることを認識し、有効利用について甲斐施設長に質問してきた。そこで初めて、彼女は、国内の大学にはサルを用いた実験ができる施設は極めて限られていること、サルの飼育会社のある島でサルの感染実験ができる実験室を整備することの利点、また南米産サルの飼育環境としても適していることなどを説明し、そのような施設としての展望を伝えた。

その後、新井所長は、執行部一行と相談を始め、東大の他学部など広い研究領域の研究者のための共同利用施設への発展や、学生の宿泊施設を建てて学生の教育の場としての利用など、次々と新たな構想を打ち出していった。

服部講師は、奄美の生き字引のような存在で、自然や動植物について博識のナチュラリストであり、島民にも愛されている。新井所長は、彼のような人材を擁する医科研の施設が奄美の島にあることの意義に気付いたのである。帰りの飛行機では、廃止ではなく、建物の増設に必要な経費と期間の相談に変わっていた。

5.サル感染実験施設の整備

帰京後、直ちに新井所長の指示で、新たにP2サル感染実験室の建設が始められた。P2一般実験室とP2サル感染実験室の整備は甲斐教授により行われた。2003年副所長を併任した甲斐教授は、感染症国際研究センターの新設計画を立ち上げ、その概算要求書に奄美施設のP3サル感染実験室が含められた。こうして、P2, P3サル感染実験施設が完成したのである。通常、このような施設の建設に対して起きやすい抗議活動は、地元住民に信頼されている服部講師による建設計画ではまったく起きなかった。サルの飼育設備も整備され、多いときには、カニクイザル20頭、リスザル50頭が飼育されていた。

P2サル実験室では、甲斐教授チームにより、ワクチンのベクターとして用いる麻疹ウイルスやガン治療のための腫瘍溶解性麻疹ウイルスの安全性確認など、数多くのサル感染実験が行われた。その実験成績に基づいて開発されたニパウイルスワクチンは、フランス国立衛生医学研究所(INSERM)のP4実験室で行ったミドリザルを用いた感染防御試験で、致死的感染を防御することが確認された。ニパウイルスは、マレーシアでの発生では90%の致死率の脳炎を起こし、現在もインド、バングラデシュで発生していて、WHOが提唱する「優先すべき疾患のブループリントリスト」に含まれている。2019年、国際的な研究支援組織の感染症流行対策イノベーション連合(CEPI)から約34億円の支援を受けて、甲斐教授をリーダーとした日本、米国、オランダ、バングラデシュの国際チームが結成され、ニパウイルスワクチンの実用化に向けた研究が開始されている。腫瘍溶解性麻疹ウイルスでは、乳ガン治療の第1相医師主導治験が2022年から開始されている(本連載167回)

P3サル実験室で最初に行われたのは、柳井徳磨・岐阜大学教授との共同研究で、同大学で飼育されていた新世界ザルのタマリンから分離された致死的ヘルペスウイルスに、ヒトへの感染の危険性が疑われたため、旧世界ザルのカニクイザルへの接種が行われた。この成果はジャーナル・オブ・メディカル・プリマトロジー誌に発表された。

次ぎに行われたのは、喜田宏・北海道大学特別招聘教授との共同研究で、まず高病原性トリインフルエンザウイルスの肺内噴霧によるカニクイザル・モデルが確立された。ついで、麻疹ウイルスをベクターとした高病原性トリインフルエンザワクチンを開発して、その有効性がカニクイザル・モデルで確認された。これらの成果は、プロスワン誌とサイエンティフィック・リポーツ誌に発表された。

東京都総合医学研究所小原道法博士が開発した、ワクチニアベクターを用いた高病原性トリインフルエンザワクチンの有効性の確認実験も行われた。

6.改築記念シンポジウム

甲斐教授は2019年3月、退官した。その年の12月末、新型コロナウイルスが出現し、2021年2月から全国的ワクチン接種が始まった。政府は、ワクチン後進国から脱却するため、国家戦略として大型予算のワクチン拠点構想を打ち出し、医科研が中心拠点として選ばれた。その際の理由のひとつに、奄美のサル感染実験施設の存在と実績があった。甲斐教授の退官後、使用されずに老朽化してきたP2, P3サル感染実験施設では、大規模な整備が行われ、マラリアなど蚊が媒介する病原体の感染実験も可能となった。2023年10月5-7日には、奄美施設第3棟改築記念シンポジウムが名瀬市のアマホールPLAZAで開かれた。中西真・医科研所長、川村知彦・東大副学長、兵藤晋・東大大気海洋研究所長、医薬基盤・健康・栄養研究所霊長類医科学研究センター(元、予研筑波医学実験用霊長類センター)の保富康宏センター長など、100名以上が参加して、感染症、免疫領域などの医科学研究、海洋研究、ハブ研究など、奄美施設に関連した様々な分野の講演34題、ポスター26題が2日にわたって発表された。3日目には市民公開講座が開かれた。施設は以下のように紹介されている。

「当施設は、奄美大島で120年余りの歴史を誇り、東京大学の有する日本最南端の施設です。古くはフィラリア症やハブ咬傷の治療法の開発等で成果をあげてきました。現在は、奄美の気候に適応した新世界ザルのコロニーを維持し、霊長類を用いた感染実験を通して、熱帯~亜熱帯地域の風土病をはじめとする世界中の感染症の克服を目指し、国内外の様々な機関と連携して研究活動を行っています。」

参考文献
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小林照幸:「フィラリア:難病根絶に賭けた人間の記録」TBSブリタニカ、1994.
山内一也:「ウイルスと私」小学館スクウェア、2021.
服部正策:「奄美でハブを40年間研究してきました」新潮社、2024.
Yoneda, M. et al.: Recombinant measles virus vaccine expressing the Nipah virus glycoprotein protects against lethal Nipah virus challenge. PloS ONE,8(3),2013: e58414.
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Fujiyuki, T. et al.: Experimental infection of macaques with a wild water bird-derived highly pathogenic avian influenza vrus (H5N1).(2013) PLoS ONE 8(12): e83551. doi:10.1371/journal.pone.0083551
Fujiyuki, T. et al.: Efficacy of recombinant measles virus expressing highly pathogenic avian influenza virus (HPAIV) antigen against HPAIV infection in monkeys. Scientific Reports. (2017) Article No.12017. DOI:10.1038/s41598-017-08326-x
奄美施設改築記念シンポジウム
https://www.ims.u-tokyo.ac.jp/amami/index.html