生命の謎に迫ったノーベル化学賞
2026年のノーベル化学賞は、フランスのアンリ・カガンと日本の硤合憲三に授与されることになった。授賞理由は「不斉有機合成における非線形効果と自己触媒作用の発見」である。
私たちの右手と左手は、鏡に映したように対称的な形をしている。しかし、右手を左手に重ねても、ぴったりとは一致しない。このような性質は、ギリシャ語で手を意味する言葉に由来する「キラリティ」と呼ばれる。
生命を構成する有機分子にも、右手型と左手型が存在する。ところが、生物のタンパク質を構成するアミノ酸は、ほとんどすべてが左手型(L型)であり、DNAやRNAの糖は右手型(D型)である。このように、生物が一方の型を選択している性質は「ホモキラリティ」と呼ばれている。
生命はなぜ、一方の型を選んだのだろうか。
今回のノーベル化学賞は、この長年の謎に新しい光を当てるものである。そして、この研究の原点をたどると、1848年、若きルイ・パスツールによる酒石酸の研究に行き着く。
酒石酸の結晶が明かした秘密
1846年、高等師範学校を卒業したパスツールは、化学者アントワーヌ・ジェローム・バラール教授の研究助手になった。
当時、化学者たちを悩ませていた問題があった。酒石酸とパラ酒石酸は、化学組成や多くの性質が同じであるにもかかわらず、水溶液に偏光(光線の進行方向が一つの面に限られている光)を通すと、酒石酸は偏光面を回転させるのに対し、パラ酒石酸は回転させなかったのである。
パスツールは、この違いが結晶の構造にあるのではないかと考えた。
顕微鏡で結晶を注意深く観察したところ、酒石酸塩の結晶では一方の角が欠けていた。さらにパラ酒石酸塩を調べると、右側の角が欠けた結晶と左側の角が欠けた結晶が混在していることを発見した。
パスツールは、この2種類の結晶をピンセットで1つずつ選り分け、それぞれを水に溶かして偏光を通した。すると、一方は偏光面を右に、もう一方は左に回転させた。両者を等量混合すると、その作用が打ち消し合い、偏光面は回転しなくなった。
それまで同一と思われていた物質の中に、鏡に映したような二つの異なる分子が存在することを明らかにしたのである。
この発見を知った高名な物理学者ジャン=バティスト・ビオーは、パスツールを自分の研究室に招き、実験を再現させた。結果を確かめたビオーは、若いパスツールの手を取り、深い感動を伝えたという。
パスツールは、まだ二五歳だった。
結晶の非対称性から生命の非対称性へ
それから約10年後、パスツールは酒石酸の研究から、さらに重要な発見へと進んだ。
パラ酒石酸の溶液にカビを繁殖させると、二つの鏡像異性体のうち、一方だけが消費され、もう一方は残されたのである。
これは、カビの生命活動そのものが、分子の右と左を識別していることを意味していた。
パスツールは、生命を構成する分子にも非対称性が存在し、生物は特定の向きの分子を選択していると考えた。そして、生命の非対称性は自然界の根本的な性質ではないかという壮大な構想へと発展させた。
今日、私たちは、生物のタンパク質が原則としてL型アミノ酸から構成され、核酸にはD型の糖が使われていることを知っている。
しかし、生命が誕生する以前の地球で、どのようにして一方の型が優勢になったのかという問題は、なお完全には解明されていない。
わずかな偏りが一方の型を生み出す
今回ノーベル化学賞を受賞したカガンと硤合は、この問題に化学反応の立場から重要な手がかりを与えた。
カガンは、不斉触媒において、触媒に存在するわずかな左右の偏りが、生成物では大きな偏りとなって現れる「非線形効果」を明らかにした。
一方、硤合は、1995年、生成された分子自身が同じ型の分子を作る反応を促進する「不斉自己触媒反応」を発見した。最初はごくわずかだった左右の偏りが、反応を繰り返すうちに増幅され、最終的には一方の型が圧倒的に優勢になるのである。
これは、生命の誕生以前にも、化学反応だけで分子の左右の偏りが増幅され得ることを示した重要な成果だった。
ただし、これによって生命のホモキラリティの起源が完全に解明されたわけではない。最初のわずかな偏りがどのように生じ、それが生命を構成する分子へと受け継がれたのかは、依然として大きな研究課題である。
宇宙にまで広がる生命の非対称性
生命のホモキラリティの起源を探る研究は、いまや地球を越えて宇宙にまで広がっている。
オーストラリアに落下したマーチソン隕石では、一部のアミノ酸にL型の過剰が見いだされている。一方、探査機はやぶさ2が小惑星リュウグウから持ち帰った試料や、NASAの探査機オシリス・レックスが小惑星ベンヌから採取した試料では、調べられたアミノ酸の左右の比率はほぼ等しかった。
これらの結果は、生命の誕生以前の化学進化を考えるうえで重要な手がかりとなっている。
1848年、パスツールは顕微鏡の下で、酒石酸塩の小さな結晶の角が左右で異なることに気づいた。その観察から、分子の非対称性という新しい世界が開かれ、やがて生命そのものの非対称性へと研究が発展した。
それから178年を経た今回のノーベル化学賞は、パスツールが見いだした問題が、現代化学の最前線で受け継がれていることを示している。
参考文献
山内一也:『知の行進―ジェンナー、パスツール、コッホと無数の探索者』みすず書房、2026、pp. 106-111
