口蹄疫対策として多数の牛や豚が殺処分されています。これはBSEや鳥インフルエンザの場合と同じで、感染家畜と感染のおそれのある家畜は、すべて殺処分するという国際獣疫事務局(OIE)の国際規約にしたがったものです。
殺処分方式が始まったのは18世紀の初めです。その詳細は私の著書「史上最大の伝染病牛疫」に書いてありますが、簡単にご紹介します。
1711年にイタリアのパドゥア近くの司教の牛に牛疫が発生しました。司教の友人でローマ法王の侍医をつとめていたジョバンニ・ランチシ(Giovanni Lancisi)は、法王の領地に牛疫が広がるのを防ぐための措置を法王に提言したのですが、その主な点は、病牛をただちに殺すこと、病気の出た地域から動物を移動させてはならないことでした。これが現在の殺処分と動物の移動禁止という措置の最初でした。ただし、彼はこれらの規則に違反した場合には、絞首刑もしくは四つ裂の刑、教会の牧師の場合には一生ガレー船(木造の今でいえば軍艦)の漕ぎ手にするというきびしい刑罰を与えることも決めていました。この対策は法王の領地でただちに実施され、牛疫は9ヶ月で終息しました。イタリアのほかの地域では発生が数年間続いていたのに対して、めざましい成果でした。
1714年には英国で牛疫が発生し、国王ジョージ1世の外科医トーマス・ベイツ(Thomas Bates)がランチシの方式を国王に進言したのですが、ランチシの場合と違って刑罰の代わりに殺処分された牛に対して補償することにしました。この対策は功を奏して3ヶ月で牛疫は終息しました。この際、ベイツは病気が発生した農場のすべての牛を殺処分し焼却していたのですが、牛の数が多すぎたため、途中から地中に埋めて石灰をかけることにしました。現在とまったく同じ方式です。
ビクトリア女王の時代1839年に、英国で初めての口蹄疫の発生が乳牛で起こりました。感染源はアルゼンチンから輸入した肉や乾し草と推測されました。しかし、口蹄疫は軽い病気とみなされ、農民は家畜市場に出荷を続けていました。その結果、口蹄疫は地方病として定着してしまい、被害が大きくなってきたため、1892年に牛疫にならって殺処分の方式が用いられました。そして1920年代初めに殺処分は国の公式対策となったのです。1922年と1924年の2回の発生では約25万頭が殺処分されています。この際、殺処分対象の牛の数が多くなりすぎて、順番が回ってくるまでに回復する牛が出始めて、農民は殺処分に疑問を持つようになりました。殺処分するか、それとも口蹄疫と共存するかという議論が起こり、議会での投票の結果、わずかの票差で殺処分が勝ったと伝えられています。
OIEは1955年に「口蹄疫予防のための国際衛生条約」案の検討を行い、1957年には日本も条約に調印しています。殺処分方式は国際的に承認され、現在にいたっています。