混乱をもたらしたWHOの発表
2020年3月28日、世界保健機関(WHO)は、新型コロナウイルスは主に、感染者の咳やくしゃみで放出される飛沫により伝達される。この飛沫は空中に漂うには重すぎてすぐに地面に落下する。空気感染は起こさないと発表した。翌日、発表された報告書では、「飛沫感染は近くにいる人(1メートル以内)に起こる。」「空気感染は一般に5㎛以下の粒子によると考えられており、長い間空中に留まり、1メートルより先の人でも感染する。」と述べられていた。(1)
しかし、アムステルダムのコンセルトヘボウで演奏された合唱を伴うバッハの「マタイ受難曲」で演奏者の間で起きたクラスター感染やダイアモンド・プリンセス号でのクラスター感染など、空気感染を示す事態が続出した。
WHOの空気感染は起こさないという見解に反対した論文が、7月6日、32カ国、239人の科学者が連名で発表された。この論文では、これまでの多くの発生例を解析した結果、空気感染は重要な伝播経路であると述べられていた。(2)
7月9日、WHOは、空気感染の可能性は否定できないと認めたものの、飛沫感染の重要性をかたくなに強調し続けていた。
2021年4月30日、WHOは、新型コロナウイルスが空中に留まり、長い距離に移動することをやっと認めた。そして12月23日、初めて、エアロゾルの用語を用いた。2022年4月7日のネイチャー誌は「なぜ、WHOはCOVIDを空気感染と述べるのに2年もかかったのか」という論説を発表した。(3)
空気感染の議論は19世紀末から20世紀半ばまで続いてきた。その経緯を紹介する。
飛沫感染と空気感染の概念はどのようにして生まれたか
飛沫感染の概念は、1895年、当時ブレスラウ大学教授だったカール・フリュッゲ (Carl Flügge)により初めて提唱された。彼は、ロベルト・コッホ(Robert Koch)の親しい友人だった。結核菌は、コッホにより1882年発見されていた。その伝播は、痰壺やハンカチに付着した痰が空気中に飛散し、それを吸い込むためと考えられていた。フリュッゲは、1895年、結核患者の新鮮な呼気から結核菌を含む飛沫が放出され、感染が容易に伝播することを実験的に明らかにした。
彼の研究グループは、結核患者たちが会話をしたり歌ったり、咳やくしゃみをしている室内の色々な場所に寒天平板を置いて細菌のコロニーを採取し、モルモットに接種して感染性のあることを示した。こうして、彼は飛沫感染を初めて実証したのである。彼は放出された飛沫が落下するまでには時間がかかると考えて、寒天平板を室内に5時間置いていた。彼が飛沫感染と述べた成績には、後に提唱される空気感染の結果も含まれていた。(4)
フリュッゲの飛沫感染の見解は受けいれられたが、公衆衛生専門家たちは、眼に見える大きな飛沫だけに注目していた。1930年代、衛生工学専門のエンジニアであるウイリアム・ウエルズ (William Wells)と妻のミルドレッド・ウエルズ (Mildred Wells)が空気サンプリングの新技術を用いて、呼吸器からの大きな飛沫はすぐに落下するが、小さな飛沫は落下する前に水分が蒸発して核となって空中に長時間留まることを示し、飛沫核(エアロゾル)と名付けた。ここで、飛沫感染とエアロゾル感染(空気感染)というふたつの感染経路が提唱された。(4)
エアロゾルの閾値5㎛の科学的根拠?
WHOは、粒子サイズの5㎛をエアロゾルの閾値としていた。この数値はテキストブックでも述べられており、疑問は提示されていなかった。空気感染は天然痘、麻疹、水痘などで提唱されていたが、この見解は疫学的根拠にもとづいたもので、飛沫の粒子サイズは考慮されていなかった。COVIDで初めて、注目された数値である。
ウエルズはエアロゾルのサイズの閾値を100㎛と述べていた。5㎛という値は1940年、産業衛生の分野で発表されていた。鉱山などで石英の粉塵を吸い込むことによる珪肺症が問題になっていた際、肺の奥まで到達する鉱物粒子のサイズが5㎛と報告されていたのである。(5)
フリュッゲは5㎛以下の飛沫で肺結核が重症になるということを述べているので、おそらく珪肺症が念頭にあったと思われる。それがいつの間にか、病原体のエアロゾルのサイズの閾値になったのかもしれない。(4)
空気感染を証明したモルモットでの結核菌暴露実験
1956年、ウエルズはジョンズホプキンス大学疫学教授のリチャード・ライリー (Richard Reily)と共同で、結核菌が空気感染を起こすことを実験的に証明した。彼らは、ボルチモア在郷軍人病院の屋上に小屋を建て、その中に、結核菌が外部に漏れないように設計したチェンバーを設置して、そこへツベルクリン反応陰性のモルモットを入れ、結核菌を含む咳や痰が排出されている結核病棟の空気を換気システムを通して送りこんだ。毎月、ツベルクリン検査を行い、陽性になったモルモットは解剖して病理検査で感染を確認した。飼育や検査はすべて、助手のクレティ・ミルズ(Crety Mills)だけが行っていた。2年間で総計373匹のモルモットが用いられ、71匹が結核に感染した。この結果は1959年に発表された。(6)
この論文に対して、対照実験がなく、餌からの感染の可能性が指摘された。そこで新しいチェンバーにモルモットを入れ、紫外線照射で滅菌した空気を送り込む実験が、ふたたび2年間にわたって行われた。ツベルクリン検査陽性のモルモットは、まったく出なかった。この実験でもミルズがひとりでモルモットの世話をした。実験終了後、彼女は結核で倒れた。ウエルズは実験計画中に精神異常を来していて、実験結果の確認はできなかった。この研究の論文は1962年に発表されたが、彼の名前は載っていない。1963年ウエルズは死亡した。(7)
英国バーミンガム大学に起きた天然痘感染の悲劇
天然痘根絶が間近となった1978年8月11日、著名な天然痘ウイルス研究者のヘンリー・ベドソン(Henry Bedson)教授の動物実験室のすぐ上で働いていた解剖学教室の写真技師ジャネット・パーカー(Janet Parker)が突然、発熱、発疹の症状を呈し、入院した。彼女は電子顕微鏡検査で天然痘と診断された。この検査を行ったのはベドソンだった。
パーカーの容態は急速に悪化し、9月11日に死亡した。彼女は史上最後の天然痘での死亡者となった。天然痘ウイルスには大痘瘡と小痘瘡があり、前者は致死率30%、後者は1%以下である。パーカーからは大痘瘡ウイルスが分離された。大痘瘡ウイルスは1975年以後、世界のどこにも見つかっていなかった。1977年に見つかった最後の天然痘患者のアリ・マオ・マーラン(Ali Maow Maalin)は小痘瘡ウイルス感染で回復している。
パーカー死亡の2年後の8月30日に発表されたバーミンガム大学調査委員会の報告では、感染源はベドソンの実験室で用いられたウイルスで、感染経路は発煙筒を焚いて調べた結果から、空調設備の欠陥で漏れた汚染空気によると推定された。しかし、人との接触の可能性も否定できず、はっきりした結論は出なかった。ベドソンは、9月2日、喉を切って自殺をはかり、5日後に死亡した。(8)
COVIDがもたらした教訓
物理学の視点から生まれたエアロゾルの概念は感染症の分野に持ち込まれ、結核で空気感染という伝播様式が明らかにされた。COVIDは初めてウイルスの空気感染の問題を提示したのである。呼吸器感染を起こすウイルスのほとんどは空気感染する可能性があり、最新のウイルス学の視点で検討する必要がある。とくに新型インフルエンザの発生に対して、COVIDで起きた混乱をふたたび起こさないよう備えておくことが求められる。
文献
- World Health Organization: Modes of transmission of virus causing COVID-19: implications for IPC precaution recommendation. Scientific Brief. 29 March 2020. https://search.bvsalud.org/global-literature-on-novel-coronavirus-2019-ncov/resource/en/grc-741057
- Morawska, L. et al.: It is time to address airborne transmission of coronavirus disease 2019 (COVID-19). Clinical Infectious Diseases, 71, 2311-2313, 2020.
- Lewis, D.: Why the WHO took two year to say COVID is airborne. Nature, 604, 26-31, 2022.
- Randall, K.: How did we get here: what are droplets and aerosols and how far do they go? A historical perspective on the transmission of respiratory infectious diseases. Interface Focus 11: 20210049. https://doi.org/10.1098/rsfs.2021.0049
- Wijk, A.M. et al.: The percentage of particles of different sizes removed from dust-laden air by breathing. Journal of Industrial Hygiene, 22, 31-35, 1940.
- Riley, R.L. et al. : Aerial dissemination of pulmonary tuberculosis. A two-year study of contagion in a tuberculosis ward. American Journal of Hygiene, 70, 185-196, 1959.
- Reily, R.L.: What nobody needs to know about airborne infection. American Journal of Respiratory and Critical Care Medicine. 163, 7-8, 2001.
- 山内一也:近代医学の先駆者 ハンターとジェンナー。岩波書店、2015.