9月23日からフランスのリヨンで世界獣医学会議が開かれました。 これは4年に一度開かれる獣医学領域での最大の会議で、前回は1995年にパシフィコ横浜で開かれました。 この会議の前日にリヨンに新たに建設されたP4実験室を国立感染研の小船富美夫、東大獣医微生物の甲斐知恵子の両先生と訪問しました。 この実験室の建設計画はフランスINSERM (Institut National Scientifique Recherche Medecin国立医学研究所)のフェビアン・ワイルドFabian Wildが中心になって始められたものです。 フェビアンは英国人ですがフランスが好きなようで、20年以上、INSERMで麻疹、ジステンパーなどのモービリウイルスの研究を行っています。 私たち3人とはモービリウイルスの研究を通じての長い付き合いがあります。 私の場合は1984年に彼の研究所でセミナーを行った時からの友人です。 小船先生はWHOの麻疹根絶計画の麻疹ワクチン開発委員会で一緒に仕事をしたことがあります。 甲斐先生は文部省の学術調査官としての出張でINSERMを視察した際にフェビアンに世話になったことがあります。 それはたまたまP4実験室の建設計画の始まった時でした。 そこでフェビアンに見学の手配を依頼した結果、所長のスーザン・フィッシャーホックSuzan Fisher-Hochを紹介してもらい、メールでスケジュール調整をして会議の前日に訪問することになったわけです。 彼女はCDCの特殊病原部いわゆるホットゾーンで8年間出血熱ウイルスの研究を行ってきました。 有名な仕事としては、エボラウイルスのザイール株、スーダン株、レストン株のサルへの感染実験を行って、それぞれのウイルスの病原性の程度を比較した論文があります。 また、特殊病原部長のジョー・マコーミックの奥さんで、ふたりが著者となったVirus Huntersという本を書いています。 Huntersと複数なのは夫婦のことを指しているからです。 あいにくフィッシャーホックは留守でしたが、Chef de laboratoire(実験室主任)の肩書きのジャック・グランジュJacques Grange教授が案内してくれました。 短時間プログラムと長時間プログラムのどちらが希望かと言われたので後者を頼んだところ、午前中いっぱい、くわしい説明を交えながら、実験室区域(内部は外の廊下からだけですが大きな透明ガラスなのでよく見えます)、空調施設、、排水処理施設までくまなく案内していただきました。 この訪問の際のメモを参考にしながら、この新しいP4実験室をご紹介をしようと思います。 きわめてフランス語的な英語の説明であったため、理解不足の面もあるかと思います。 その点をあらかじめお断りしておきます。 |
1. 建設の経緯 |
これまでにフェビアン・ワイルドとCDCのウイルス・リケッチア病部門長のブライアン・マーヒーから聞いていた話を総合すると、フェビアンがP4実験室の必要性をメリユー財団の理事長シャルル・メリューCharles MerieuxにP4実験室の重要性を訴え、資金提供を依頼したのが建設計画の発端です。 シャルル・メリューの祖父マルセル・メリューはパスツールと一緒に研究にたずさわった人です。そして彼の息子のジャン・メリューはパスツール研究所で学び、後にフランスでのポリオ根絶に貢献した人ですが、1994年にTWAの航空機事故で死亡しました。 ジャン・メリューの遺産の寄付を受けたメリュー財団がP4実験室の建設資金を提供して昨年12月に実験室は完成しました。 正式名称はジャン・メリューの名前をとって、Laboratoire Haute Securite P4 Jean Merieux(ジャン・メリューP4高度安全実験室)です。 なお、スーザン・フィッシャーホックからのメールではタクシーの運転手にle P quatro (英語のP4)と言えば通じるという話です。 グランジュ教授はケミカル・エンジニアリングを学んだ後に、INSERMで学位(微生物学?)をとり27年間ポックスウイルスなどの研究にたずさわったとのことです。 微生物学からエンジニアリングまで理解していて、実験室の運転・設備のメンテナンスなど管理面の責任者のようです。 一方のフィッシャー・ホックは使用する研究者の立場です。 ついでですが、電気設備の一部はグランジュ教授の息子さんが担当したといって、その内容も説明してくれました。 電気制御システムのことで、私にはよく理解できませんでしたが。 |
2. P4実験室の立地条件と構造・設備 |
P4実験室はリヨンの街の中心から車で10分くらいのところにあります。 昔、屠畜場のあった広い敷地に10年あまり前にINSERM、獣医大学、パスツールメリューのワクチン製造所などが集まった、いわばリサーチパークといったところです。 そこのマルセル・メリュー研究所の屋上にP4実験室は建設されました。 敷地は広いのですが多くの建物が建っていて余裕がなく、さらにINSERMなど協力機関に近い場所といった場所にしなければならなかったために、INSERMとつながっているマルセル・メリュー研究所の上が選ばれたわけです。 実験室は1階が排水処理施設、2階が隔離実験室区域、3階が給排気処理施設の3階建てです。 これがなんと、地下7メートルまで埋められた大きな柱3本で支えられて、既存の建物の上に設置されています。 ほかの国では考えられない方式です。 建物の周囲は透明なガラスでおおわれ、外から内部がすけて見える開放的な雰囲気です。 しかも、もっとも目立つガラス壁の部分にはP4 Jean Merieuxのネオンサインが付けられています。 P4実験室を取り囲む窓のすぐ下は激しい交通量の道路で、四方の窓からのリヨンの街の眺めは展望台からの感じがします。 とてもP4施設に居るという気はしません。 建物の壁はポリウレタンを吹き付けた厚さ12センチメートルの鉄製で、シリコンで接着されています。 実験室全体をとりまいているガラスは3.5 cmの防弾ガラスです。 グランジュ教授は潜水艦に近いものになっていると自慢していました。 実験室区域への入り口には、建物の内部の配置と作業の内容を模式的に示した大きな図があります。 メリユー研究所は牛のもっとも危険な感染症である口蹄疫のワクチンを古くから製造しており、私は10数年前にその工場を訪問したことがありますが、そこで見た隔離状態での口蹄疫ワクチン製造の図を思い出しました。 この隔離施設の経験が生かされているものと思います。 実験室は2つのユニットからできています。 平面図にスケールが入っていないので正式の広さは分かりませんが、感じではCDCのものとほぼ同じように思われます。 四方を緩衝帯としての廊下がとりまいており、ここは非隔離区域で、大きなガラス窓を通して内部がよく見えるようになっています。 実験室の中からも外の景色が見えるはずです。 基本的には現在のCDCのP4施設と同じですが、使用開始前で内部がきれいなためもあってか、CDCのものよりもすっきりした感じです。 これまでいろいろな人から聞いていた話とは異なり、最新のテクノロジーが応用されている面がいくつもあります。 私はこれまでにCDCの古いP4実験室(現在は多剤耐性結核菌研究用)、現在のP4実験室、フォートデトリックの生物兵器研究施設、米陸軍微生物病研究所USAMRIID、国立癌研究所、英国の生物兵器研究施設(ポートンダウンにあります)など、南アフリカのP4施設以外の主なP4施設はすべて訪問していますが、このリヨンの施設はたしかにユニークです。 最新のテクノロジーが応用されており、グランジュ教授が自慢するように21世紀の施設といえるかもしれません。 特徴的なところは、フランスの原子力産業の技術が積極的にとりいれられている点です。 まずプラスチックスーツですが、CDCなどで使用しているものは5キログラムもあり、作業者には重労働になっていますが、ここのスーツは改良されて2キログラムです。 工業技術面のことでよく理解できませんでしたが、いろいろな配管の電気溶接はウラン精製の際の方式だそうです。 配管が壁を貫通する箇所のシールは建物の機密性を保つために重要ですが、これにも原子力施設の方式が使用されています。 排水処理などの配管からのリークは電気伝導度の検査装置が付けられており、リークが生じる前に検出できるようになっています。 これは原子力施設で使用されているものだそうです。 排気用ダクトの継ぎ目の部分には柔軟性を確保するためにパラシュートの素材が用いられています。 余談ですが、グランジュ教授は英語の語彙が多くなく言葉を選ぶのに苦労しており、パラシュートの英語も大分考えていましたが、パラシュートはフランス語から生まれた英語だったようです。 |
3. 消毒・除染処理 |
スーツ方式のP4実験室では作業者がスーツの中に封じこめられて、感染防止がはかられます。 スーツの外側には病原体が付着する可能性があるため、作業終了後にまず、スーツの外側を薬液シャワーで完全に消毒することがもっとも重要です。 さもないと実験者がスーツを脱いだ際に感染するおそれがあります。 消毒薬としてこれまで、CDC, USAMRIIDなどではいずれもフェノールを用いてきています。 レベル4に分類されているのはエンベロープを持ったウイルスだけで、すべてフェノールで容易に不活化されます。 しかし、フェノールには発癌物質である塩酸オルトフェノールが生じる危険性があります。 そこで、この新しいP4実験室では、氷酢酸、次亜塩素酸ソーダなどを含めて15の消毒剤を試験した結果、最後に残ったものがSanytexという薬剤でした。 これはRochexが販売しているもので病院や実験室の床の清掃などに用いられているものだそうです。 成分は4塩化アンモニウム、アルデヒド、パインオイルの混合物ということでした。 パインオイルには抗カビ作用もあるそうです。 この薬剤をヒト免疫不全ウイルス、アデノウイルス、ポックスウイルス、バチルス、カビなどで試験して消毒効果を確認した上で採用したとということでした。 匂いもよく、市販のものがあるのも好都合ということです。 ただし皮膚に付くと傷害を与えます。 これまでのP4実験室では薬液シャワーは頭上から浴びる方式です。 ここのは両側の12個のノズルから薬剤がエアポンプで放出されます。 4分間、この薬液シャワーを浴びたのち、2分間普通の水のシャワーでゆすいでからスーツを脱いではだかになり、普通のシャワーを浴びることになります。 普通、P4実験室では入室の時はシャワーを浴びる必要はありません。 出る時に汚染を除去するためにシャワーを浴びます。 ここも同様と思っていましたら、後で述べる火星からのサンプルについての作業では入室の際にも浴びることになると言っていました。 地球上の微生物で火星サンプルを汚染してはいけないということでしょうか。 排水は128度の高圧蒸気滅菌で処理されます。 そのために1階に2つの高圧蒸気滅菌タンクが備え付けられています。 容量は1立方メートルで、スチームジャケットが取り囲む方式です。 これはほかのP4施設のものより大分小型です。 私の記憶では感染研のP4実験室は5立方メートルだったと思います。 滅菌処理する排水の80%は消毒用シャワーの水です。 |
4. 今後の利用計画 |
この実験室の建設費は4,000万フラン(約8億円)で、すべてメリュー財団が支出しました。 完成後はINSERMのヨーロッパ・ウイルス・免疫センターに移管する予定でしたが、まだ調整作業中で、移管は実現していません。 現在はメリュー財団が維持費もすべて負担しています。 施設の使用開始に向けての安全確認に関して、リヨンとパリの両方の行政からの許可を現在待っているところです。 これが済めば実験が開始されることになります。 現在具体的に検討されている実験にはラッサ熱ワクチンがあります。 これはカナリアポックスウイルスをベクターとして、それにラッサウイルスの糖蛋白遺伝子を組み込んだ、いわゆるベクターワクチンです。 ワクチンの各種の性状はレベル2で実験できますので、P4実験室ではサルにワクチンを接種した後、ラッサウイルスで攻撃して免疫力を確認する実験が行われるのだろうと思います。 研究費はパスツールメリューとECの両方から提供されるそうです。 サルの飼育ケージとしては1ラック、4ケージ1組のものが4台ありますから、最大16頭のサルでの実験が可能です。 観察用の赤外線カメラは天井に設置されています。 そのほかに多剤耐性結核菌、多剤耐性チフス菌などへの使用も考慮中だそうです。 これらはレベル3でも可能ですが、リヨンでは最近、ルーマニアから来た人の中で4例の多剤耐性の結核患者が見つかっており、この分野でも協力しなければならないだろうとのことです。 一方、フェビアン・ワイルドはモービリウイルス専門家の立場から、マレーシアで130人の人の死亡と100万頭の豚の殺処分を引き起こしたニパウイルスの研究を行いたいと話していました。 非常に意欲的に計画しているものに火星サンプルの試験があります。 ここのP4実験室には2つのユニットがありますが、そのひとつを2008年にヨーロッパのロケットが火星から採取してくるサンプルの研究に利用する計画が進められています。 地球上に存在しない微生物を持ち込むおそれがあるかもしれないという考えからです。 実は、このような計画は1960年代にアポロが月から持ち帰ったサンプルについて実施されたことがあります。 その際の月サンプル研究室Lunar Receiving Laboratoryの概念図や経緯は私の著書「エマージングウイルスの世紀」で紹介しています。 宇宙からの微生物という発想にもとずいたマイケル・クライトンの「アンドロメダ病原体」という推理小説は、このNASA計画がヒントになったものです。 アンドロメダの話がまた復活するわけです。 なお、NASAでも月サンプル研究室は老朽化したため独自に新たに火星サンプル用の実験室建設計画を進めていて、リヨンのP4実験室の視察にもきたそうです。 |
訪問を終えて |
見学を終えた後、フェビアン・ワイルドのオフィスを訪問しました。 彼によれば資金を提供したシャルル・メリューがこの建設に際して付けた条件はただひとつ、自分が生きている間に完成させるということだったそうです。 フェビアンには100%この計画に従事してほしいと要求したそうですが、フェビアンはINSERMという国立研究所の職員であり、自分のウイルスの研究も忙しく、とてもそれだけの時間はさけないということから、CDCにかって所属していたスーザン・フィッシャーホックにバトンタッチしたということです。建設計画の最初にはCDCの専門家を呼んで、2カ月間検討を行った後、全部で5カ月で建設計画がまとまりました。 シャルル・メリューの要求はとにかく、時間を急ぐことで予算は問題外であったとのことです。 そして、昨年12月の開所式にシャルル・メリューは出席できました。 彼は現在、92才です。 4年前の横浜での世界獣医学会議ではフランスのアルフォール獣医大学の元学長のシャルル・ピレ教授と私とが企画したパスツール記念シンポジウムに出席されましたが、大変お元気でした。 しかし、現在は重態とのことです。 アメリカのP4実験室とは非常に異なって開放的でかつ、フランスの独自性を強調した施設には大変強い印象を受けました。 また、設立のいきさつにはパスツールの意思が現代にも脈々と続いていることが感じられました。 |