人獣共通感染症連続講座 第85回

新刊書「異種移植」


本講座ではこれまでに何回か異種移植の話題を取り上げてきました。 それらをもとに幅広く異種移植の全体像について、今回「異種移植」という本を河出書房新社から出版しました。

ご参考までにまえがきと目次をご紹介させていただきます。 ご意見やご感想をお寄せいただければ大変幸いです。


まえがき

臓器移植はシクロスポリンをはじめとする免疫抑制剤の開発と医療水準の向上により確立された医療となってきている。 わが国では1999年に初めての脳死からの移植が行われ、移植医療の普及が期待されている。 しかし、すでに脳死からの移植が広く行われている欧米では深刻なドナー不足が大きな問題になっている。 全世界で移植を待っている患者は年間10万人に達するともいわれている。

ドナー不足の根本的解決の手段として登場してきたのが動物の臓器を用いる異種移植である。 1980年代半ばから本格的になった異種移植の研究は人の補体制御蛋白遺伝子を導入した豚の作出により現実的な医療技術として期待されるようになってきた。 一方で、豚の臓器を用いることに対する生命倫理の問題、さらに豚由来のウイルスによるリスクといった問題が大きく取り上げられてきている。

とくにウイルス感染の問題は患者個人にとどまらず、周辺の人々、最悪の場合には社会も巻き込むおそれのあることが指摘されている。 21世紀の重要な医療技術としての期待の反面、第2のエイズの危険性といった側面が問題になってきているのである。

この新しい医療技術を受け入れるかどうかを最終的に決めるのは社会である。 そのためには科学的基盤をはじめ周辺の問題も含めて一般の人々への情報提供が不可欠である。 個々の医療で患者へのインフォームド・コンセントが普及してきているが、異種移植では社会へのインフォームド・コンセントが求められているといえよう。 そのためには研究開発の段階から、一般社会へのわかりやすい説明が必要である。 本書はそのような観点からまとめたものである。

ところで、日本では移植に関する本は多数出版されているが、ほとんどが脳死に関する記述でしめられていて医療技術としての移植という側面が一般にはあまり紹介されていない。 そこで、本書では、まず移植がどのようにして確立された医療技術になってきたか、その歴史を振り返ることにした。 その後で、本題の異種移植の基盤となる研究についての解説を試みた。

異種移植での主役になる豚も取り上げた。 豚の貢献を理解していただきたいという、獣医学出身の私の個人的な感情も加わったものである。

もっとも大きな問題とされているウイルス感染のリスクは、ウイルスが専門の私にはきわめて身近な問題でもある。 異種移植でこれが問題になってきた背景をエマージングウイルスという観点からとらえた上で、考えられるリスクについての解説を試みた。

異種移植では感染とならんで生命倫理がきわめて重要な問題である。 医学研究および医療での生命倫理の対象は患者だけではない。 実験に用いられる動物も含まれている。 そこで、医療の面での異種移植の倫理と動物福祉の両者をとりあげた。 とくに動物福祉は私の専門にも関連する分野である。 しかし、これもまた全体像についての解説書は日本には皆無であるため、幅広く動物福祉の問題について解説を試みた。

そして、最後にクローン羊に象徴される動物バイオテクノロジーを異種移植の基盤技術という観点からとりあげた。

各章はそれぞれ独立した内容になっているが、いろいろな形で異種移植とその周辺の問題につながるものである。 本書が異種移植の総合的な理解にいささかなりとも役立てば幸いである。


目次

プロローグ ベビー・フェイの20日間

  1. ヒヒの心臓を移植されたベビー・フェイ
  2. 異種移植が巻き起こした議論と波紋

第一章 移植の歴史

  1. 古くから存在した移植 〜 神話の時代から近代まで
  2. 臓器移植への扉を開く 〜 ウルマンとカレルの血管縫合
  3. 移植の基盤となった免疫学 〜 メダワーとバーネットの貢献
  4. 拒絶反応を回避する手段 〜 免疫抑制剤の研究と開発
  5. 1950〜60年代の心臓移植 〜 医療技術として確立するまで
  6. 動物臓器の人への移植 〜 実験的治療の歴史と経緯
  7. エイズ患者へのヒヒの骨髄移植 〜 ウイルス感染をめぐる議論

第二章 臓器不足

  1. 移植医療が直面する課題 〜 不足する臓器と増え続ける待機患者
  2. 臓器不足の解決策を求めて 〜 臓器提供の促進と人工臓器の開発

第三章 異種移植の時代へ

  1. ドナー動物として選ばれた豚 〜 選択された理由と背景
  2. 超急性拒絶反応のメカニズム 〜 抗体と補体の共同作用
  3. 超急性拒絶反応を回避する手段 〜 補体反応のコントロール
  4. 遺伝子導入豚の研究開発 〜 補体反応を阻止するアイデア

第四章 移植ドナーとしての豚

  1. 豚とはどんな動物か 〜 起源と家畜化の歴史
  2. 生物医学研究での有用性 〜 人によく似ている豚
  3. 微生物感染を排除した移植用豚 〜 SPF豚の生産方式と応用
  4. ドナー豚からの臓器移植 〜 代替臓器としての可能性
  5. 豚胎児の脳細胞移植 〜 パーキンソン病の治療
  6. 豚の膵臓・肝臓の細胞移植 〜 糖尿病、肝臓病の治療

第五章 感染のリスクと対策

  1. 未知の危険なウイルス 〜 エマージング感染症
  2. 動物臓器からのウイルス感染 〜 異種移植に伴う感染の可能性
  3. 微生物学的安全性の確保 〜 感染リスクの科学的評価
  4. 移植用豚から除去すべき病原体 〜 細菌、ウイルスの確認と検出
  5. 豚内在性レトロウイルスの危険性 〜 染色体に組み込まれたウイルス
  6. ウイルスのレセプターとプリオン病 〜 きわめて低い感染可能性

第六章 異種移植の倫理

  1. 生物医学と生命倫理 〜 国際規範「ヘルシンキ宣言」
  2. 異種移植の倫理的問題 〜 欧米での検討と報告書
  3. 科学的観点からの倫理性 〜 ケネディ委員会の報告書
  4. 遺伝子導入豚から派生する問題 〜 社会的影響に関する議論
  5. 臨床試験の実施に伴う問題 〜 多岐にわたる検討課題
  6. 患者の視点からの発言 〜 異種移植を体験した人々

第七章 動物福祉

  1. 動物実験と動物虐待防止運動 〜 欧米の歴史と変遷
  2. 動物実験の国際的原則 〜 「3R」と「人道的配慮」
  3. 西欧における動物観の歴史 〜 宗教的、哲学的な背景
  4. 動物の解放と動物の権利 〜 議論の時代を経て実践へ
  5. 異種移植と動物福祉 〜 「豚の苦痛」対「人間への恩恵」
  6. 日本における動物福祉 〜 不明瞭な論理と倫理
  7. 日本の動物バイオテクノロジーと動物福祉 〜 国際的規範とのギャップ

第八章 動物バイオテクノロジー

  1. クローン羊の誕生と動物バイオテクノロジ 〜 ー先端技術の背景
  2. 動物工場とクローニング技術の開発 〜 医薬品製造の最先端領域
  3. 基盤技術としての発生工学 〜 胚の人為的操作による動物の作出
  4. 体細胞クローニング技術 〜 異種移植と動物工場の新たな展望
  5. 人のES細胞とEG細胞 〜 医療と基礎研究における期待可能性

ミスプリントの訂正

かなり注意して見たつもりでしたが、やはり活字になってみるとミスプリントが見つかりました。訂正させていただきます。

  • 175ページ9行目と13行目の環流は灌流。
  • 211ページ:4行目の(1988)は(1998)。
  • 索引:日本動物実験学会は日本実験動物学会。

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