12.「 ウイルスと共に生きる」

2008年9月に非公開の講演会でおこなった教育講演の内容です。スライド番号にしたがって整理してあります。

(1)ウイルスという言葉はラテン語の病毒という意味です。私がウイルス学の研究領域に入った1950年代初め、これはウイルス学会が生まれる前ですが、細菌学会では、ウイルスではなく病毒と呼んでいました。現在も中国では病毒と呼んでいます。  ところで、細菌には善玉菌と悪玉菌があるのに、これまでウイルスは悪玉の側面だけが取り上げられてきました。  普通ウイルスの話題といえばキラーウイルスといった恐ろしい存在に関するものです。今日は、そのような視点ではなく、ウイルスは地球上で私たちと共に生きている生命体という視点から、ウイルスについてお話したいと思います。

(2)ウイルスは地球上に30億年前には出現していたと考えられています。地球が生まれたのは46億年前です。最初に原核生物である細菌が生まれ、ついで植物、動物などの真核生物へと進化してきました。  現在、生物の世界は、真正細菌、古細菌、真核生物という3つの大きなドメインに分けられています。古細菌は温泉など、高温や高い酸性の極限環境で増殖する細菌です。この古細菌からもいくつかのウイルスが分離されていますが、そのあるものでは、細菌のウイルスや真核生物のウイルスと共通の分子構造が見つかっています。3つのドメインが別れたのは30億年前と推定されているため、これらのウイルスの祖先はその時代にすでに存在していたと考えられたわけです。

(3)ウイルス学では、ウイルスを人のウイルスと動物のウイルスに分けています。一方、エボラウイルス、トリインフルエンザウイルスなど動物から人に感染している人獣共通感染症ウイルスがあります。この分け方を見ると、人のウイルスは昔から存在していたように思えますが、ウイルス進化の歴史を眺めると、人のウイルスは存在していません。すべて動物ウイルスに始まっています。人は動物の一種にすぎませんから当たり前のことですが、現実には人を特別の存在とみなしているわけです。  人のウイルスの由来を辿ると、野生動物から感染したもの、家畜から感染したもの、系統進化で受け継がれてきたウイルスなどがあり、それらが人のウイルスに進化したとみなせます。それぞれについて、考えてみたいと思います。

(4)生物の進化を眺めてみると、人類は地球上に最後に出現したほ乳類です。ネズミは6000万年前、牛、豚などは5400万年前に出現したと推定されています。霊長類が出現したのは、それよりはるかに遅く420万年前であり、現生人類ホモサピエンスはわずか20万年前です。  人類が出現した時には、ウイルスは動物に寄生していました。旧石器時代に狩猟採集生活をおこなっていた人間は、野生動物に寄生しているウイルスに時折感染していました。アフリカではサルに寄生する黄熱ウイルスに感染します。黄熱ウイルスは森林地帯ではサルの間で蚊の媒介による感染で存続しています。石器時代にも、森林へ入った人がウイルスを保有する蚊に人が刺されて感染する事態が起きていたはずです。しかし、せいぜい100人位の小さな集団で生活していた人の間でウイルスが広がることはありませんでした。  近代社会となり多くの人が生活する都市が生まれてからは、黄熱ウイルスを媒介する蚊が生息している地域では人の間で蚊を介して広がるという都市型サイクルでの流行が起こりました。こうして、森林型サイクルと都市型サイクルが現在起きています。  一方、寒冷地域ではオオカミなどから狂犬病ウイルスの感染が起きていました。これらは現在でも重要な人獣共通感染症ですが、人の間では広がりません。唯一の例外は移植を介して広がったものがあるだけです。

(5)一方、元は家畜のウイルスが人のウイルスに進化したものもあります。人は1万年前、アフリカからインダス川流域などに移り、農耕を始めました。人口は狩猟採集時代の100倍以上に増加し集団生活をおこなうようになり、家畜の飼育も始めました。家畜との密接な接触により人が家畜のウイルスに感染し、それが人の間で広がり、最後には人にだけ感染するウイルスに進化するものが出てきました。そのもっとも典型的なものは麻疹ウイルスです。これは8000年ほど前に、牛の急性伝染病の病原体、牛疫ウイルスが人に感染して生まれたものと考えられています。麻疹では終生免疫が出来るため、常に感受性のある人にウイルスが伝播されなければなりません。そのためにエアロゾルによる呼吸器感染という効率の高い伝播が役立っています。  牛疫ウイルスが麻疹ウイルスの祖先であるという考えは40年ほど前、これらのウイルスの抗原の共通性から提唱されたものですが、現在ではウイルスの遺伝子構造の面からも推測されています。  麻疹ウイルスの場合ほどはっきりした証拠はありませんが、天然痘ウイルスは馬か牛のウイルスに由来すると考えられています。  麻疹と天然痘は、昔から人類に大きな災害をもたらしてきたウイルス感染症です。しかし、これらはアメリカ大陸には存在していませんでした。コロンブスの新大陸発見以後に持ち込まれたものです。もともとアメリカ大陸では家畜の飼育はほとんど行われていなかったため、家畜から人へのウイルス感染が起こる機会は少なかったものと考えられます。

(6)系統進化とともに受け継がれたウイルスの代表的なものはヘルペスウイルスです。ヘルペスウイルスの特徴は持続感染することです。我々が感染している単純ヘルペスウイルスや水痘ウイルスはいずれも神経細胞に一生の間、持続感染しています。  ヘルペスウイルスは無脊椎動物の軟体動物にも存在します。カキヘルペスウイルスです。脊椎動物では魚類にサクラマスヘルペスウイルス、両生類にカエルヘルペスウイルス、は虫類にイグアナヘルペスウイルス、鳥類には七面鳥ヘルペスウイルスなど、ほ乳類では牛、馬、豚、サルなどに存在しています。 脊椎動物が無脊椎動物から分かれて出現したのは5億3000万年前です。したがってヘルペスウイルスはその時代にはすでに存在していて、それが系統進化とともに現代までつながってきたと考えられます。  人の単純ヘルペスウイルスは唇などに潰瘍を作るウイルスですが、これはアジア産のサルが保有するサルヘルペスBウイルスに由来すると考えられます。一方、水痘ウイルスは子供の時に感染し、それが大人になると帯状疱疹の原因になるウイルスですが、サル水痘ウイルスに由来すると考えられています。  このように見てくると、人ウイルスは元をただせばすべて動物由来ということが分かります。人獣共通感染症のウイルスは、現在、動物から人が感染しているウイルスということになります。

(7)人のウイルスのほとんどは、はるか昔に動物のウイルスから進化してきたと考えられています。ところが、20世紀になってから人のウイルスに進化してきたものがあります。エイズの原因である人免疫不全ウイルスHIVです。HIVにはHIV-1とHIV-2の二つのタイプがあります。HIV-1はチンパンジーのウイルスが1930年代に人に感染して生まれたと考えられています。一方、HIV-2は同じくアフリカに生息するサルであるスーティマンガベイから20世紀後半に感染して生まれたと考えられています。  HIVが生まれた背景にはアフリカでのブッシュミートがあると考えられています。アフリカの多くの地域では、蛋白源を熱帯雨林に生息する野生動物の肉に頼っています。これがブッシュミートです。ブッシュミートにはサルの肉も多く含まれています。そして、サルを解体し調理している際にサルの血液に触れることなどで人に感染が起こり、それが人の間で広がっている間に人のウイルスに変わったと考えられているわけです。  最近、新種のウイルスの出現が心配される事態が起きています。アフリカのカメルーンで村人たちの血液の検査を行ったところ、サル・フォーミイウイルスに対する抗体陽性例が多く見つかっています。このウイルスはHIVと同じくレトロウイルスに属するもので、人で病気を起こしてはいません。しかし、もしもこのウイルスが人の間で広がるような事態が起これば、第二のエイズウイルスが生まれるおそれがあると、指摘されているわけです。  昔から現代にいたるまで、人と動物の関係の変化が、人のウイルスを新たに生み出しているわけです。

(8)ウイルスは単独では増殖できません。動物の細胞の代謝機構やエネルギー産生機構に頼らなければなりません。動物が死ねばウイルスも増殖できなくなって死んでしまいます。したがって、ウイルスが存続するためには、宿主との共存がもっとも重要です。  ウイルスの生存戦略を整理してみると、このスライドのようになります。 まず、持続感染もしくは潜伏感染があります。ヘルペスウイルスやB型肝炎ウイルスがその一例です。単純ヘルペスウイルスは三叉神経に潜伏し、時折唇などの上皮細胞に移動してヘルペス潰瘍を作ります。子供の時にかかった水痘ウイルスは知覚神経に潜伏しており、大人になってから知覚神経に沿った部位で増殖すると帯状疱疹を作り激しい痛みを引き起こします。現在では抗ヘルペス剤で症状は治まりますが、ウイルスはふたたび神経に潜んでしまいます。一生の間共存するわけです。  ウイルスに感染すると、それを排除しようと免疫反応が起こります。しかし、天然痘ウイルスのウイルス蛋白には、免疫反応にかかわる蛋白と同じようなものが含まれていて、免疫反応をごまかして排除を免れる機構として働くと考えられています。一方、ヘルペスウイルスが潜伏する神経細胞は免疫反応が到達しにくい場所にあり、また、ウイルスも冬眠のような状態で免疫反応から異物と認識されないような状態になっています。そのために、持続感染できるわけです。  急速に広がることで生存する戦略をとるものもあります。これは空気感染を起こす麻疹ウイルスや天然痘ウイルスです。これらのウイルスに感染して回復すればウイルスは排除されてしまいます。しかも終生続く免疫のためにふたたび同じウイルスに感染することはありません。そこで、なるべく早く、感受性のある新しい人に感染することで、存続しているわけです。 一方、インフルエンザウイルスは変異を起こして免疫反応を逃れて存続します。また、黄熱ウイルスをはじめ多くの昆虫媒介ウイルスは、蚊などを介して別の宿主動物に感染することで、存続しています。

(9)ウイルスのもっとも効果的な生存戦略は、宿主と共存することです。ウイルスと宿主の共存関係は長い年月をかけて作られてきたものですが、20世紀になって人為的にその状態を作り出した有名な例があります。 これはオーストラリアでウサギ粘液腫ウイルスとウサギの間で起きたものです。オーストラリアでは19世紀終わりに偶然ヨーロッパから持ち込まれた野ウサギが、天敵のいない新天地で猛烈な勢いで繁殖しました。ウサギの被害がひどくなったため、1950年、野ウサギ退治のためにウサギ粘液腫ウイルスがヨーロッパから輸入され放出されました。これは、蚊が媒介するウイルスで、ウサギでは100%近い死亡率を示します。このウイルスが放出された最初の年に野ウサギのほとんどが全滅し、生き残ったのは0.2%足らずでした。ところが青の点線の死亡率の変化に見られるように、6年後には死亡率は20%近くまで低下しました。80%位が生き残るようになってしまいました。ウイルスに抵抗性を示すウサギが増えたのです。  一方、実験室で隔離飼育していてウイルスにまったくさらされたことのない野ウサギに、6年後に流行していたウイルスを接種してみると、ウイルスの毒性も変化していました。ウイルスの毒性は最初100%近い死亡率を示したのに対して2年後には80%位に低下していたのです。  結局、宿主であるウサギは抵抗性を獲得し、一方、ウイルスの毒性も低下していったため、宿主とウイルスは共存するようになってしまったわけです。  進化生物学では、赤の女王仮説というのがあります。これはルイス・キャロルの有名な物語「鏡の国のアリス」の中で、赤の女王がいくら走っても、景色が追いかけてくるために、女王は永遠に同じ場所にとどまっているという話しにもとづいたもので、複数の集団がいっしょに競いあって存在する場合、適応と、それに対する適応は、両方が存続できるように起こらなければならないことを示したものです。  ウサギ粘液腫ウイルスとウサギは、こうして共存の道を選んだことになります。自然界では昔から、このようなことが繰り返されて、ウイルスと動物は共存してきたと考えられます。

(10)ウイルスが自然界で存続する場を提供している動物は、自然宿主と呼ばれています。自然宿主では一般にウイルスは平和共存しています。キラーウイルスはウイルスの本来の姿ではありません。たとえば、現在、大きな問題になっているトリインフルエンザウイルスの自然宿主はカモで、カモにはほとんど病気を起こしません。それがキラーウイルスの姿を見せているのは、カモのウイルスがニワトリに感染し、ニワトリの免疫機構で排除されるのに対抗して毒性を増加させ、一方、大規模養鶏のおかげで、ウイルスはニワトリからニワトリへと広がりつづけて、さらに毒性を増加させた結果です。このようにして生まれてきたウイルスが、ニワトリに対するキラーウイルスとなり、一部の人でもキラーウイルスになっているのです。  キラーウイルスの代表的なものにラッサウイルスがあります。これはマストミスと呼ばれる大型のネズミを自然宿主として平和共存しています。都市化が進み、マストミスが人家の周りで生息するようになったため、マストミスの尿に排出されているウイルスに人が感染する機会が増えて、時に致死的な感染を起こしているのです。  すなわち、自然宿主ではキラーではなく、別の動物宿主に感染を起こした際にキラーに変身しているといえます。

(11)現代社会はウイルスにとっても激動の時代になっています。自然宿主の動物と共存しているウイルスでは、宿主の免疫反応で排除される機会が少なく、変異の必要はありません。カモと共存しているトリインフルエンザウイルスでは、ほとんど変異は起きていません。  鳥インフルエンザウイルスは呼吸器ではなく、腸管で増殖します。ウイルスは糞便とともに排出され、ウイルスが含まれた水を別のカモが飲むことで経口感染します。そして、ふたたび糞便とともにウイルスは排出されます。冬になると湖沼の水は凍結しウイルスも凍結保存されます。それが翌年には新しく生まれた子カモに感染を広げるといった形で、ウイルスはずっと存続してきたと考えられます。  ところが、ニワトリに感染すると、本来の自然宿主ではないニワトリは抗体を産生してウイルスを排除しようとします。それに対してウイルスは変異を起こし抗体に抵抗性のウイルスが生まれてきます。抗体の選択圧による変異です。1960年代から盛んになってきた大規模養鶏は、この変異の速度を増加させています。  一方、抗ウイルス薬による変異の問題もあります。たとえば、1990年代から進展したエイズ治療薬です。これはもちろん患者にとっての大きな恩恵ですが、ウイルスにとっては変異を促進する刺激になり、治療薬抵抗性HIVの出現が起きています。  ウイルスの存続環境が大きく変動するようになったのは、20世紀後半からで、ウイルスの長い歴史の中で初めてのことです。

(12)1960年代後半から新しい危険なウイルスが出現するようになり、社会的にも大きな問題になっています。これらはエマージングウイルスと呼ばれています。そのおもなものを表に示してあります。細かい説明は省略しますが、ほとんどが野生動物の保有するウイルスで、いわゆる人獣共通感染症です。

(13)エマージングウイルスの出現をもたらしているのは、現代社会です。現代社会では、森林破壊や都市化により野生動物と人間社会の距離は短縮し、それが動物のウイルスに人が感染する機会を増加させています。そのほか、グローバリゼーション、公衆衛生基盤の破綻など、いずれも現代社会が抱えている問題で、それが本来は野生動物と平和共存しているウイルスをキラーウイルスに変化させていることになります。

(14)30億年にもわたって存在していたウイルスが単に病気の原因として働いていたとは考えられません。しかし、これまでウイルスの昔の名前、病毒が示すように、我々はウイルスを悪玉とみなしてきました。しかし、最近、ウイルスがほ乳類の存続にきわめて重要な役割を果たしていることが明らかにされました。  それは人内在性レトロウイルスです。このウイルスは霊長類の祖先の染色体に2500万年前に組み込まれたウイルスで、まさに化石のような存在と考えられてきました。一方、人の胎児は母親と父親の両方の遺伝形質を受け継いでいます。父親由来の形質は母親にとっては異物ですから、本来ならば臓器移植の場合と同様に、免疫リンパ球により排除されてしまうはずです。その母親由来リンパ球による攻撃を胎児から守っているのは、胎盤の外側を取り巻く合胞体栄養膜です。この膜は胎児の発育に必要な栄養分を通しますが、リンパ球は通しません。この膜のおかげで胎児は発育できるのです。この重要な膜はシンシチンと呼ばれるタンパク質により形成されますが、最近シンシチンは人内在性レトロウイルスの産生するタンパク質であることが明らかにされたのです。同じ結果は、山羊での動物実験でも得られています。  善玉としてのウイルスの役割はこれまで調べられなかっただけで、これからだんだん明らかにされていくものと考えられます。

(15)ウイルスは生物か無生物かという議論が古くから行われてきました。しかし、最近ウイルスは生きているという立場の議論がNatureやScienceのレビューに見られるようになってきました。  ここで、生命体としてのウイルスについての話題を取り上げたいと思います。 まず、寄生生命体という視点からウイルスの一般的特徴を眺めてみたいと思います。  ウイルスはあらゆる生物に寄生しています。細菌には細菌ウイルス、別名バクテリオファージと呼ばれるウイルスが寄生しています。植物、昆虫、動物ウイルスも数多く見付かっています。  ウイルスは子孫を複製する遺伝情報としてDNAもしくはRNAを持っていますが、子孫の複製、すなわち増殖には寄生する生物の代謝系を利用しています。 ウイルスの増殖様式は、ウイルス粒子を構成する蛋白、つまり部品を組み立てる方式で、1個のウイルスから10万個もの子ウイルスを数時間で作り出すことができます。

(16)この図のように、ウイルスは細胞に感染すると、外側の殻がはずされ核酸は裸の状態になり、核酸の複製が起こります。同時に核酸からウイルス構成蛋白が産生されます。それらが集合してウイルス粒子が形成されます。この増殖様式は、真核生物や原核生物が2分裂で増殖するのと、まったく異なり、きわめて高い増殖効率を示します。

(17)図15にウイルスの増殖曲線を示しましたが、ウイルス感染細胞では一旦ウイルスは見付からなくなります。これはエクリプス期で、それから対数的にウイルス増殖が起こります。  ウイルスの遺伝子としては、DNAまたはRNAがあります。遺伝子の数がもっとも少ないウイルスはD型肝炎ウイルスで、1個しか遺伝子を持っていません。増殖には、ヘルパーウイルスとしてB型肝炎ウイルスに依存しなければなりません。インフルエンザウイルスは8個、もっとも大型のウイルスである天然痘ウイルスはDNAとRNAの両方を持ち、タンパク質をコードする遺伝子を200個以上持っています。  ところが、最近、天然痘ウイルスよりも大きなミミウイルスという新しいウイルスが見付かり、これまでのウイルスとは非常に異なった性状が明らかになってきました。ミミウイルスの存在は、ウイルスが生命体であるという考え方を支持する証拠にもなりつつあります。

(17)ミミウイルスは1992年に英国で見付かりました。肺炎患者が多く発生したため、レジオネラのような肺炎の原因となる細菌が空調を介して感染を起こしたのではないかと疑われました。レジオネラ菌はかって米国で在郷軍人病の原因として冷却水から初めて見いだされたものです。そこで、クーリングタワーを調べたところ、冷却水中にいたアメーバから細菌と思われる微生物が見付かりました。しかし、最初に見つけた研究者が定年になったため、長い間冷凍庫で眠っていました。  1998年になって、遺伝子構造を調べた結果、細菌ではなく、ウイルスということが分かりました。そして、細菌に似ている(mimic)ということからミミウイルスと命名されました。このウイルスはタンパク質をコードする遺伝子を911個も持っており、その中には代謝機能に関係する遺伝子もあります。ゲノムサイズは約120万塩基対もあります。もっとも小さな細菌であるマイコプラズマは遺伝子が480個,ゲノムサイズが58万塩基対ですから、それよりもはるかに大きく、細菌とウイルスの間の存在のように考えられます。細菌は原核生物として、生物進化の系統樹の根本に存在しています。これまでウイルスは生物進化の系統樹からははずされていましたが、ミミウイルスをどうとらえるかが、新しい問題とみなされています。

(18)さらに8月のNatureに、ウイルスに寄生するウイルスが報告されました。これは衛星の名前をとって、スプートニクウイルスと命名されました。  寄生するウイルスはママウイルスと命名されました。ミミウイルスは英国で分離されたものですが、ママウイルスはパリの冷却水から分離されました。これはミミウイルスと同じグループのウイルスと考えられましたが、サイズがミミウイルスよりも大きいことから、ママウイルスと命名されたのです。  ママウイルスの電子顕微鏡写真を調べると、別の小さなウイルスが一緒に見つかってきました。これがスプートニクウイルスです。これは50nmと小型で、タンパク質をコードする遺伝子も21個しかありません。このウイルスはママウイルスと一緒に増殖します。ママウイルスがヘルパーウイルスになっているわけです。このように単独では増殖できないウイルスには先に述べたようにD型肝炎ウイルスがありますが、D型肝炎ウイルスと非常に異なる点は、ヘルパーの役割をしているママウイルスを破壊していることです。ちょうど、細菌ウイルスが細菌を破壊するのと似ていることから、細菌ウイルスの別名バクテリオファージになぞらえて、ヴィロファージ(virophage) という分類名が提案されています。ウイルスを食べるという意味です。ウイルスの世界には私たちが知らない多くの側面があるものと考えられます。

(19)ウイルスは生物か無生物かといった議論が古くからおこなわれてきました。この議論が始まる大きなきっかけになったのは、1935年、スタンレーがタバコモザイクウイルス蛋白の結晶化に成功し、これが感染性を持っていたことから、ウイルスは自己増殖する蛋白であるという説を提唱したことでした。しかし、彼は結晶化したサンプルにウイルスRNAが含まれていたことには気がつきませんでした。  ウイルスが生物か無生物かといった議論は、生物の定義はなにかという問題につながります。新しい科学知見が蓄積してきている現在、生物の定義の議論は容易ではないと思います。私は、この表にまとめたように、ウイルスは細胞を持たない生命体という視点でとらえるのが、ウイルスの存在意義を知る上で重要と考えています。

(20)これまでの話は動物ウイルスを主体にしたものでしたが、ウイルスに関する大きなブラックボックスは海に存在するウイルスです。海洋生物には陸地を上回る膨大な量のウイルスが存在していることが1980年代終わり頃から指摘されるようになりました。メキシコ湾では、藍藻の群落の上の海水には、1 mlあたり10億個ものウイルスが含まれていることが報告されています。藍藻は細菌の一種なので、これは細菌ウイルスと考えられます。海には植物プランクトンも多く存在していて、これには植物ウイルスが寄生しています。  最近、世界の海に含まれるウイルスについて興味ある試算が発表されました。それによると、 1 mlの海水中のウイルス量を深海では100万個、沿岸では1億個と仮定した場合、海のウイルスの総量は、ウイルスに含まれる炭素の量では2億トンとなり、これはシロナガスクジラ7500万頭に相当します。ウイルスの長さを100 nmと仮定すると海のウイルスを全部つなげた場合、銀河系に到達する1000万光年にもなるという結果です。  我々は陸地だけでなく海水も含めて、膨大な数のウイルスに囲まれて生きているということになります。ウイルスの生態、ウイルスの存在意義について、病気の面だけでなく、ウイルスを単なる物質ではなく生命体という視点からもっと理解を深めることが必要ではないでしょうか。

(21)最後に生命体としてのウイルスの役割を考えてみたいと思います。 ウイルスの起源については、いろいろな議論がありますが、そのひとつに、ウイルスは地球上に現れた最初の生命体という見解があります。46億年前に地球が誕生し、最初に生命の情報を持ったRNAが出現しました。この時代はRNAワールドと呼ばれていますが、これが5億年くらい続いたのちにDNAが出現しました。遺伝情報としてRNAを持つものはウイルスだけです。そこで、ウイルスはRNAワールドの遺物であって、それからDNAが生まれ、さらに原核生物である細菌、ついで真核生物の植物、動物が生まれたという見解です。これが正しければ、すべての生物の最初の祖先はウイルスということになります。もちろん、この見解には反論もあります。  次に、ウイルスは進化の原動力になってきたという見解です。ウイルスは遺伝子をほかの生物に運ぶ能力を持っています。遺伝子治療はその性質を利用したものです。進化の過程を見ると、単なる変異では説明できない大きな変化が時折、起きています。これはウイルスが新しい遺伝子を運び込んだことによると考えるのが妥当です。  人の妊娠維持に役立っている側面は、先ほどお話しした内在性レトロウイルスで見いだされています。  さらに大きな視点では、ウイルスは地球環境での生態系の調節にかかわっているという側面が指摘されはじめています。そのひとつに、海水中で植物プランクトンが植物ウイルスにより溶解されることが温室効果ガスの放出の引き金になっている可能性があげられています。海は有機性炭酸ガスの最大の貯蔵庫になっていますが、このガスの蓄積の原因のひとつとして、植物ウイルスによる植物プランクトンの溶解が考えられています。広島湾では赤潮が収まる時にウイルス粒子の数が増加することが見いだされており、植物ウイルスが赤潮の植物プランクトンを溶解しているものと推測されています。  私たちはウイルスと共に生きているということを改めて認識する必要があると思います。