13.「ワクチン開発の歴史に学ぶ」

2010年1月22日に北里大学薬学部コンベンションホールで開催された日本医薬品等ウイルス研究会での基調講演の内容をご紹介します。スライド番号にしたがって整理してあります。

(1)ワクチンがもたらす最大の成果は感染症の根絶です。しかし、これまでに根絶に成功したのは天然痘だけです。これに今年は牛疫が加わる予定です。ほかに根絶を目指しているウイルス感染症にポリオと麻疹があります。本日はこの4つについてお話ししたいと思います。いずれも私が直接または間接的に関係した経験のあるものです。

まず、天然痘ですが、最後の患者が1977年に見つかり、その2年後に根絶が確認され1980年にWHOが根絶宣言を出したものです。

牛疫は牛の急性伝染病ですが、これは最後の発生が2001年で、9年間発生していません。今年中に根絶宣言がFAOとOIE合同で出される予定です。

一方、ポリオと麻疹は天然痘根絶計画が進展した1974年に、WHOが根絶可能なウイルス感染症として予防接種拡大計画を始めたものです。

ポリオは、日本を含めてほとんどの国で根絶の前の段階である排除に成功しています。しかし、アフリカなどでまだ発生が続いており、根絶の見通しはたっていません。

麻疹は日本ではご承知のように発生が続いており、2012年を排除の目標としている段階にとどまっています。

(2)天然痘根絶までの歴史を振り返ってみたいと思います。最初に天然痘に対する国際的取り組みが提案されたのは1926年で、国連の前身である国際連盟の世界検疫会議で日本代表が天然痘をペスト、コレラ、黄熱と同様に届け出伝染病に指定するよう提案したことでした。しかし、スイス代表が天然痘は世界中で発生しているという理由から、この提案に反対し、結局折衷案として天然痘が流行している場合だけ届け出るということになりました。

第2次世界大戦後に設立された国連のWHOで、初代事務局長のカナダのBrock Chisholmが根絶計画を提案したのですが、これは否決され代わりにマラリア対策が採択されました。

1959年にWHO総会で今度はソ連代表のVictor Zhdanovがふたたび提案しました。すでに各国で根絶を目指す機運も高まっていた時期で、この提案は受け入れられ、1963年に根絶計画が始められました。その結果、1977年ソマリアでの患者が最後となり2年後の1979年にReview committeeが根絶を確認し、1980年に根絶宣言が出されました。

(3)天然痘ワクチンは検定基準では痘瘡ワクチンと呼ばれ、かっての名前は痘苗でした。ワクチン製造用の牛のお腹の皮膚に種ウイルスを苗のように植えて、生じた発痘病変からワクチンを調整していたことから付けられた名前と考えられます。1796にエドワード・ジェンナーが行った種痘が最初で、この際には牛痘接種と言われています。

現在の天然痘ワクチンはワクチニアウイルスであって牛痘ウイルスではありません。牛痘ウイルスは牛のウイルスではなく、リスなど齧歯類を自然宿主とするもので、それが牛に感染しているものです。ワクチニアウイルスの自然宿主は分かっていませんが、現在ではジェンナーが用いたのもワクチニアウイルスだった可能性が提唱されています。

当初、ワクチンの維持は種痘を受けた人の腕から腕へと植え継ぐことで行われていました。しかし、人から人への継代による効力の低下、ほかの病気、とくに丹毒、結核、梅毒などの伝播が問題でした。日本でも江戸時代末期には、この図のように、人から人への継代で種ウイルスを維持していました。

ジェンナーの種痘から約半世紀後の1842年にイタリア、ナポリの医師Negri(狂犬病のNegri bodyのネグリとは別人です)が子牛での天然痘ワクチンを製造する方法を発表して、やっとワクチンの姿をとることになりました。そして牛または羊での製造が普及したのです。

日本では、明治政府の初代医務局長となった長与専斉が岩倉具視の欧米視察団に同行した際、オランダで初めて牛でのワクチン製造を見て、その器具を譲り受けて帰国しました。そして明治6年、牛痘種継所を設立して牛での痘苗製造を始めたのです。この種継所は北里柴三郎の私立衛生会、のちの伝染病研究所、ついで北里研究所に受け継がれました。私が北里研究所で最初に従事した業務は、この痘苗製造でした。写真は北研で私の同僚が行っている作業を示したものです。

天然痘根絶に用いられたワクチンは19世紀半ばに開発された方法で製造されたものです。

1958年には米国のCabassoが孵化鶏卵で培養したワクチンを開発しましたが、有効性が低く実用化はされませんでした。

1975年には、当時千葉血清の橋爪先生が初代ウサギ腎臓細胞で分離した低温順化株のワクチンを開発されました。これは有効性、安全性ともにすぐれていましたが、その頃インドの天然痘根絶も成功しており、日本でもその翌年には種痘が中止されたため、実際に用いられることはありませんでした。これは世界で唯一承認された弱毒天然痘ワクチンです。現在日本では備蓄ワクチンになっています。

(4)痘苗にはワクチニアウイルスだけでなく、大量の雑菌が含まれていました。そのため、ワクチンの改良の歴史は雑菌の除去法と保存法の歴史そのものです。まず、1850年に雑菌除去のためにグリセリンの添加が有効であり、それによりワクチンの保存ができるようになりました。

それから約半世紀後、北里柴三郎と獣疫部長の梅野信吉が、石炭酸が雑菌除去に有効であることを見いだし、これは種痘発明100年記念論文としてJennerに献呈されています。

その後、ロックフェラー研究所で野口英世が雄牛の睾丸内に接種することで雑菌除去が可能なことを膨大な論文として発表しています。しかし、製造に用いられることはありませんでした。

保存に関しては1909年にドライアイスで凍結し、硫酸の蒸気の上で乾燥させるという、原始的な凍結乾燥が試みらました。

1936年には釜山の朝鮮総督府獣疫血清製造所の赤沢笹雄という人が初めて保護剤として糖の添加を発表しています。

1949年にMichigan State Laboratoryで凍結乾燥ワクチンが初めて製造され、ペルーで野外実験が行われています。ここで、保存可能な天然痘ワクチンができてきたわけです。

(5)天然痘ワクチンの効力について、Jennerは種痘を受けた人での発痘の有無で確認していただけでした。

力価測定は、1901年にCalmetteと Guerinがウサギの皮膚で病変を調べる方法を考案し、これが長年用いられていました。なお、彼らはBCG(Bacillus of Calmette and Guerin)の方が有名です。私が北研に入った当時の検定基準もこれでした。

1936年にバーネットが開発した孵化鶏卵の將尿膜上のポックカウントが徐々に普及し、検定基準も途中からこれに代わりました。これは53年前に私が初めて書いた総説ですが、天然痘根絶のためのワクチンの検定基準もこの時代のものだったわけです。

(6)WHOの天然痘根絶計画で用いられたのは、前述のように牛や羊で作ったワクチンを凍結乾燥したものです。1950年代に天然痘が残っていた地域はインドやアフリカなどの熱帯であったため、英国のCollierがペプトンを保護剤とした凍結乾燥法を開発して耐熱性の改良に成功し、これがWHOの根絶計画で広く用いられました。

Collierの論文が出てすぐ、日本でも天然痘ワクチンの改良が予研、北研、BCG研究所の共同研究で始められました。当時、日本ではグルタミン酸ソーダの添加により、耐熱性のBCGが開発されていました。そこで、予研副所長で結核が専門だった柳沢先生がリーダーになって共同研究が始められました。これは私が北研で最初に取り組んだ研究です。私が牛の皮膚病変から調製したワクチンをBCG研究所に持って行き、そこで私と同様に新人の鈴木正敏さん(現在は岐阜大学名誉教授)と一緒に徹夜で凍結乾燥し、それを北研に持ち帰って耐熱性をポックカウントで調べたのです。この研究でできてきた耐熱性ワクチンはネパールでの根絶計画で用いられました。

なお、牛で作ったワクチンのため、無菌にすることはできず、検定基準では1 mlあたり500個以下の菌数でした。ただし、炭疽菌やクロストリジウム菌など危険な菌の否定が要求されていました。

現在では受け入れられない品質のワクチンで天然痘根絶は達成できたのです。

(7)次に牛疫ワクチンに移りたいと思います。牛疫は麻疹ウイルスと同じmorbillivirusに属しており、麻疹ウイルスの祖先と考えられています。麻疹ウイルスは牛疫ウイルスがヒトに感染し、それがヒトの間で広がった結果、ヒトだけに感染するようになったという考えです。牛疫ウイルスは1902年、パスツール研究所のMaurice Nicolleがコンスタンチノープル、現在のイスタンブールの研究所で発見しました。

牛疫は昨年出版した私の著書の表題にあるように、世界史をゆるがせてきた史上最大の伝染病です。4000年前のパピルスで、動物の病気がいくつか取り上げられていることから獣医学パピルスと呼ばれているものの中に、牛疫とみなされる病気の記述があります。旧約聖書にも3300年ほど前に起きた牛疫とみなされる病気が述べられています。牛疫はローマ帝国の東西分裂の引き金となり、18世紀には全ヨーロッパに広がり、この世紀に牛疫で失われた牛は2億頭と言われています。また、牛疫がきっかけとなってフランスのリヨンをはじめ、ヨーロッパ各地で獣医学校が設立され、それとともに獣医師の職業が生まれ、近代獣医学の出発点になっています。

日本では江戸時代の寛永、寛文年間に大流行があり、明治時代には大きな流行が続き畜産に大打撃を与えました。大正11年の発生が最後です。そのために、牛疫という病気はほとんど知られていません。

(8)科学的な牛疫予防法が生まれたのは19世紀終わりにアフリカ全土に広がった牛疫パンデミックの際でした。まず、Robert Kochは南アフリカで感染牛の胆汁を注射する方法を行いました。彼はさらに、インドのヒマラヤの麓の帝国細菌学研究所でこの実験を行っています。ここは現在はインド獣医学研究所となり、後で述べる私が開発した組み換え牛疫ワクチンの牛への接種実験はここで行いました。その際、彼の実験ノートやこの写真を入手しました。所長のLingard、Koch, Pfeiffer, Gaffkyが写っています。Pfeifferはチフス菌の研究やインフルエンザ菌の分離で有名です。Gaffkyの名前は結核患者の痰の中の菌量を示す単位に用いられています。

胆汁注射は日本でも行われたことがありましたが、免疫血清の方法が開発されたのち、すたれてしまいました。

免疫血清の注射は最初、Arnold Theilerが始め、のちにJules Bordetが協力しています。Arnold Theilerは黄熱ワクチン開発でノーベル賞を受賞したMax Theilerの父親で、黄熱ワクチンの開発の経緯には牛疫での経験が反映されています。Bordetは補体による自然免疫に関する研究でノーベル賞を受賞しています。

免疫血清による予防は効果が長続きしないため、まもなく免疫血清と病気の牛の血液すなわちウイルスを同時に注射する方法が、Koch門下のKolleと現地の獣医官Turnerにより考案されました。低い頻度で感染発病する牛も出ましたが、効果が長続きしたため、ワクチンが開発されるまで、免疫血清注射またはウイルスとの同時注射が唯一の予防法として広く利用されました。

日本でも明治35年、東大農学部の前身にあたる農科大学の教授の時重初熊が、ドイツでこの方法を学んできて、仮農事試験場獣疫研究室で血清の製造を始めました。ここは現在の動物衛生研究所の前身です。

(9)最初の牛疫ワクチンは朝鮮総督府牛疫血清製造所の蠣崎千晴博士により開発されました。感染牛の脾臓乳剤をグリセリンで不活化したもので、のちにトルオール不活化に変えられました。これは韓国と中国の国境に免疫地帯を構築するために用いられました。

1928年には偶然の出来事からヤギに順化した牛疫生ワクチンがインドで英国人のEdwardsにより開発されました。これはインド、中近東、アフリカで使用されました。

1941年にはのちに日生研の創立者ともなった中村稕治博士がウサギで300代継代した生ワクチンを開発しました。これはEdwardsワクチンよりも弱毒化が進んでいました。それでも和牛や朝鮮牛はとくに牛疫に感受性が高かったため、重い副作用を防ぐために免疫血清との同時接種が行われました。このワクチンは中国、韓国、タイ、ベトナム、カンボジア、エジプトなどで広く用いられました。

中村博士は第2次世界大戦後、ウサギ順化ワクチンをさらにchick embryoに順化して単独接種ができる弱毒ワクチンを開発しました。これは朝鮮半島38度線以南に免疫地帯を構築する計画などで用いられました。

1960年代には、ポリオ、麻疹など細胞培養ワクチンが開発され、それにならって牛の腎臓細胞培養による弱毒ワクチンが英国のPlowrightにより開発されました。これが世界根絶計画で用いられたワクチンです。なお、根絶計画のワクチンは、牛腎臓ではなく、私たちが1967年に報告していたVero細胞の培養系で製造されたものです。

1990年代にはアフリカやインドといった熱帯で使用できる高い耐熱性の組み換えワクチンを、私たちが開発しました。これは前に述べた弱毒天然痘ワクチンをベクターとして、牛疫ウイルスのエンベロープのH蛋白遺伝子を組みこんだものです。インドと英国で行った牛での実験の結果、OIEが決めた野外試験のための基準を満たすことができたのですが、FAOの根絶計画が進展したため、研究を中止しました。

(10)インド、パキスタンを除くアジア地域での牛疫撲滅は1960年代までにほぼ終わりました。これには日本人科学者が大きな貢献をしています。明治44年(1911年)日韓統合が行われてすぐ、釜山に牛疫血清製造所が設置されました。これは後に家畜衛生研究所となり、現在では国立獣医科学検疫院として韓国最大の獣医学研究施設になっています。

ここで中国と韓国の国境幅20キロ長さ1200キロにわたる大規模な免疫地帯の構築が始められました。最初は免疫血清とウイルスの同時注射、ついで蠣崎ワクチン、最後は中村ワクチンでほぼ完成したところで終戦になりました。

台湾では明治38年に牛疫血清製造所が設立され大正9年の発生が最後となりました。戦後、昭和24年にふたたび発生が起こりましたが、これは中村ワクチンで撲滅されました。この写真は台湾家畜衛生研究所の玄関前に建てられている牛疫撲滅記念碑で、1993年に私が撮影したものです。

第2次世界大戦中の満州、現在の中国東北部では満鉄の奉天獣疫研究所の所員など5名が、終戦後中国解放軍に残留を依頼され東北獣医科学研究所の設立に協力し、ここで中村ワクチンのヒツジ順化を行いました。ウサギは入手困難だったためです。このワクチンで中国の牛疫は撲滅されました。なお、この研究所は現在、中国農業科学院ハルビン獣医学研究所となり、日本とインフルエンザなどの分野で共同研究を行っています。

カンボジア、タイ、ベトナムなどの牛疫も1960年代から70年代にかけて中村ワクチンで撲滅されました。

(11)しかし、インド、パキスタン、中近東、アフリカでは牛疫の発生は続いていました。1980年代終わりからFAOやEUが中心になってアフリカ、西アジア、インド、南アジアでの撲滅作戦が始められました。1994年にはFAOがこれらを一緒にして世界的牛疫根絶計画をスタートさせました。FAOがワクチン接種、サーベイランスなどを行い、清浄化の確認をOIEが行う方式で進められました。その結果、2001年にケニヤでの発生を最後として9年間まったく発生していません。

現在、OIE, FAO合同のreview committeeで根絶確認の作業を行っており、その報告を受けて今年中に根絶宣言が出される予定です。

なお、3月末の日本獣医学会で牛疫根絶シンポジウムが開かれることになっていて、この委員会のchairma, Bill Taylorにも講演を行ってもらうことになっています。

(12)根絶計画の最終段階では、流行しているウイルスはアフリカの2系列とアジアの1系列に分類され、分子疫学によるサーベイランスが行われました。

(13)世界での牛疫の発生状況の推移を見ると、1900年代に世界各国で発生していたのが1950年代にアジア、中近東、アフリカに限局し2000年には分子疫学からアフリカ、アジア系列のウイルスの限られた分布が明らかにされ、2005年にはアフリカ第2系列のウイルスが野生の偶蹄類に隠れている可能性を調べるだけになっていました。

(14)牛疫根絶は天然痘根絶に次ぐ大きな成果です。この両者をこのスライドで比較してみたいと思います。まず、天然痘根絶は科学的な面ではジェンナーのワクチンに支えられたものでした。20世紀に改良されたジェンナーワクチンを用いて、国際的な公衆衛生対策で根絶が達成されたのです。

牛疫根絶は20世紀のウイルス学の進展により達成されたものです。とくに蠣崎ワクチン、中村ワクチン、およびPlowright vaccineが根絶に貢献しています。一方、私たちが1968年に報告したVero細胞を用いたin vitro実験系が標準的研究手段となり、診断法、流行ウイルスの分離、遺伝子タイピングへと進展したのです。

(15)ポリオワクチンの話に移りたいと思います。ポリオウイルスを最初に発見したのはオーストリアのKarl Landsteinerです。1908年彼はポリオで死亡した少年の脊髄乳剤をサルに接種してポリオが起こることを見いだし、ウイルス感染症であることを証明しました。彼はサルの入手が困難だったため、ポリオの研究はこれが最後でした。彼は輸血の研究も行っており1909年にはABO血液型を発見しており、この業績によりノーベル賞を受賞しました。

最初のワクチンの試みは、1934年にJohn Kolmerがポリオに感染させたサルの脊髄乳剤をヒマ油(リシノール)で処理した弱毒ワクチンです。これは1万人に接種した結果、10名に麻痺が起こり、そのうち5名が死亡しました。対照を置いていなかったので、ワクチンの効果は分かりませんでした。なお、Kolmerは補体結合試験のKolmer法で有名です。

1936年にはMaurice Brodieがポリオを感染させたサルの脊髄乳剤をホルマリンで不活化したワクチンを作り、3000人に接種しました。しかし免疫は成立せず、そののち間もなくBrodieは自殺しています。自殺の原因はポリオワクチン接種の失敗のためではないかと言われています。

1948年にJohn Endersらが人胎児細胞培養でポリオウイルスを増殖させることに成功したのが、そののちのワクチン開発に大きく貢献しました。Endersはこの業績でノーベル賞を受賞しています。

1953年にJonas Salkがサル腎臓細胞で増殖させたポリオウイルスをホルマリンで不活化したワクチンを開発しました。当初はサルの睾丸細胞を用いていたのですが、睾丸で作ったワクチンでは人々は接種を受けないだろうという理由から、腎臓に切り替えたのです。このワクチンでSalkは一躍英雄になり、ワクチンは2年後に承認されました。ついで1962年にはAlbert Sabinが生ワクチンを開発しました。

写真は1979年、ドイツでのスローウイルス感染のシンポジウムに出席した際に私が撮影したSalkです。右は九大神経内科教授の黒岩義五郎先生です。白黒写真はSabinです。

(16)Salk ワクチンが承認され大規模接種が始まってまもなくCutter事件が起こりました。カリフォルニアのCutter Labで製造したワクチンの接種を受けた人でポリオ患者が発生し、全部で204名となり、そのうち11名が死亡したのです。原因はホルマリンで不活化されなかったウイルスが含まれていたためでした。ウイルス汚染は12万ドーズと推定されました。

Salk ワクチンの品質管理は、試験段階では開発にかかわっていたNational FoundationによりSalkのプロトコールに従って行われていましたが、製品の品質管理は、NIHのLaboratory of Biologics Controlによる国家検定で行われました。なお、このLabは1901年にジフテリア免疫血清製造用のウマが破傷風に感染していた結果、感染者が20名出たことを受けて設立されたものでした。Salkワクチンの検定基準はSalkのプロトコールよりも簡略化されており、製造の際の品質管理条件もはっきりしていませんでした。また、政府のメーカー監督の法的枠組みも不十分でした。

この事件を受けて3ヶ月後にはLaboratory of Biologics Controlはdivisionに格上げされました。なお、1972年以後、FDAに移管されています。

Cutter事件ではいくつもの訴訟が出されました。その結果、Cutter Labには過失はないが製造責任はあるという革命的判決が出されました。

(17)ポリオワクチンの開発はサルからの人獣共通感染症の問題も提起しました。その典型的なものはBウイルスです。このウイルスの正式名称は昨年Macacine herpesvirus 1となりました。

最初の感染は1932年、カナダ生まれのWilliam Brebnerで、ニューヨーク市衛生局のポリオ研究部長としてポリオの研究を行っている際にサルに咬まれ、急性進行性髄膜脳炎で死亡しました。インターンだったAlbert Sabinが解剖に立ち会いサンプルを採取し、それからウイルスを分離し、新しいヘルペスウイルスとしてBrebnerの名前の頭文字からBウイルスと命名したのです。Sabinはそののち生ワクチンを開発したのですが、この時の経験が彼のポリオ研究に大きな影響を与えたと言われています。

Bウイルスは1970年代半ばに病原体分類でレベル4に指定されましたが、それ以前には、日本でもポリオワクチンに関連して研究が行われていました。伝研ではタイワンザルから、予研ではカニクイザルから少なくとも3株のウイルスが分離されました。1頭は検疫で見いだされたもので、写真はその際の口腔粘膜病変です。またHSVとB virusは血清学的にほとんど区別できないため、それぞれに特異的な抗血清の作製も行われました。この抗血清は、伝研で解剖したサルにBウイルスを疑わせる病変が見つかり、素手で解剖していた病理学研究部の人たちにパニックが起きた際に、サルの感染はHSVであったことを証明するのに役立ちました。私が初めて人獣共通感染症に関わるようになったきっかけもBウイルスでした。

(18)日本では最初、Salk不活化ワクチンが採用され1959年には接種が始まりました。その頃、ポリオの大流行が起きていて1960年には5600人の患者が発生し、生ワクチンの輸入をもとめる市民活動が起こりました。1961年には生ワクチンの緊急輸入が政治決定され、ソ連とカナダから輸入されました。米国ではまだ承認されていなかったのです。これがワクチンの特例承認による輸入の最初で、2回目は今回の新型インフルエンザワクチンです。

不活化ワクチンから生ワクチンに切り替えられたため急遽、北里研究所が中心となって日本生ポリオワクチン研究所が設立されました。Sabinの種ウイルスが輸入され、1964年には最初のロットが検定に合格しました。ポリオの発生は激減し、1980年の患者を最後として排除に成功しています。

私は、ソ連のポリオワクチンを製造したモスクワのポリオおよび脳炎ウイルス研究所を1972年に訪問した際、所長室で日本からお礼に送られたパネル写真と唐獅子の人形を見せてもらいました。パネルの写真に写っていたのは上の写真の女性でした。

(19)最後に麻疹ワクチンについて話したいと思います。麻疹の予防の歴史は、先に述べた牛疫の予防の歴史を追いかけた形になっています。

ワクチンが開発される前、パスツール研究所のCharles Nicolleは麻疹回復者の血清を注射して一時的免疫を与えることを試み、ついで回復血清と患者の血液の同時注射による免疫を試み、その成果は当時非常に注目されました。彼は牛疫ウイルスを分離したMaurice Nicolleの弟で、牛疫については強い関心を持っていました。そのため、牛疫での免疫血清や同時注射をみならったのです。なお、彼は発疹チフスのシラミ媒介をチンパンジーでの実験で証明した業績に対してノーベル賞をもらっています。

Charles Nicolleの免疫血清法が基になって、1940年代には人免疫グロブリンの注射が普及しました。1964年にはWHOが麻疹抗血清の国際単位を導入し、標準品が配布されました。それを元に予研で私たちはサルで国内標準品を作り、検定基準に麻疹抗体測定を追加しました。基準は現在も1 ml中5単位以上と変わっていないはずです。これはリスクのある人がワクチン接種前に麻疹に暴露されたおそれのある場合に用いられています。

(20)麻疹ワクチンの開発は1954年John EndersがEdmonstonという少年からウイルスを分離したことから始まりました。1960年にはEndersのワクチンが開発され、1963年に承認されました。しかし、副作用を軽減するために人免疫グロブリンとの併用が必要でした。これは牛疫の中村ワクチンの場合と同じです。この方式はまもなく不活化ワクチンすなわちkilled vaccineの投与後、live vaccine 投与というKL方式に切り替えられました。

Endersに続いて、阪大微研の奥野良臣先生のワクチン、ソ連のレニングラードワクチン、伝研の松本稔先生のワクチンが開発され、1962年に麻疹ワクチン研究会で比較実験が行われました。そして1966年には奥野ワクチンと松本ワクチンがKL方式で承認されました。

(21)ところが1962年頃から異型麻疹の問題が起きてきました。KLやKKL、すなわち不活化ワクチンを1回または2回接種した後に生ワクチン接種を受けた子供が自然麻疹にかかる例が出始め、その場合には発疹分布などの症状が異なっていたために、異型と呼ばれたのです。KワクチンによりLワクチン免疫が成立せずにKワクチンの免疫だけが残っていて、それによるアレルギー反応が異型麻疹の原因と考えられました。

そこで、単独で使用できる弱毒ワクチンとして、米国ではSchwarz vaccine、日本ではCAM vaccineとAIK-Cワクチンが開発されました。CAMは漿尿膜で順化したことで付けられた名称です。AIK-Cの名称は開発者の北研の牧野慧先生が付けたものです。Edmonston株を用いたことから、アメリカのA、イランから来ていた研究生がchick embryo cellの代わりに羊の腎臓細胞でワクチン製造ができないか相談したのがきっかけで羊腎臓細胞で低温変異株を分離したことからイランのI、北里研究所のK、chick embryo cellでよく増殖する株を選んだことでCをつなげたものです。

(22)麻疹ワクチンは1988年にはムンプスと風疹ワクチンを混合させた3混ワクチンになりました。しかし、ムンプスワクチンによる無菌性髄膜炎の発生で定期接種が中止になり、2005年にMRワクチンが定期接種になりました。その間に麻疹ワクチンの接種率は著しく低下してしまいました。

ムンプスワクチンの承認の際には私は調査会で副作用の問題を指摘していたのですが、最終的に承認された経緯がありました。ムンプスワクチンは個人防衛を目的としたもので、それが集団防衛を主目的とした麻疹ワクチンと混合したことが麻疹に対する集団防衛の目的を妨げる結果になったと考えられます。

(23)左はJennerの種痘についての最初の報告の表紙です。彼が種痘を行った家はTemple of Vaccinia(種痘神殿)と呼ばれ、Jenner博物館の庭に保存されています。私は種痘200年記念の1996年にここを訪れました。今回、Jennerから現在までのワクチンの歴史を振り返ってみて学ぶことが多くあるのを改めて認識した次第です。