日露戦争終結後に日本は南満州での鉄道利権を獲得し、南満州鉄道株式会社を設立して開拓を進めた。沿線の地域では家畜伝染病が多発していたため、北海道大学の葛西勝弥教授が中心となって1925年(大正14)、奉天(現在の瀋陽)に獣疫研究所(獣研)が設立された。
この研究所の重要課題に、牛疫と豚コレラ対策があった。牛疫室では、釜山の獣疫血清製造所の蠣崎千晴が開発した不活化牛疫ワクチンによる防疫活動とともに、牛疫ウイルスのウサギ順化の研究が行われていた。豚コレラ室では、ホルマリン不活化豚コレラワクチン(114回)の製造などが行われていた。
1944年(昭和19)、戦局が緊迫して奉天が危険になり、 疎開の目的でハルビンに支所が設けられたが、翌年、敗戦を迎えて獣研本部、支所いずれもが瓦礫と化した。1946年(昭和21)、邦人全員の帰国準備が整った時、獣研の中堅所員6名など12名の獣医師が中国共産党の東北民主連軍(後の中国人民解放軍)に呼び出され、新生中国の建設に家畜衛生の面で協力するよう、強制的に留用された。
その後も共産党と国民政府の内戦が続いていたため、留用された獣医師らは2年余り民主連軍と各地を転々とした。1948年(昭和23)11月、奉天が中国人民解放軍により解放され、東北人民政府が樹立された。翌12月、唯一焼け残っていたハルビン家畜防疫所の建物や器財などを利用して、全中国家畜防疫の拠点として「東北人民政府獣医科研究所」(現・中国農業科学院ハルビン獣医研究所)が設立された。発足時のメンバーは、共産党政治部部員で女性の陳凌風を所長として、獣研牛疫室の氏家八良と豚コレラ室の富岡秀義など5名の獣研所員、獣研豚コレラ室の中国人技術職員4名、満州国獣医関係の中国人技師2名、ハルビン家畜防疫所の日本人所長ら2名だった。1950年秋には、氏家、富岡らの設計によるコンクリート3階建ての研究所本館が完成した。
氏家は、釜山の獣疫血清製造所で中村稕治が開発したウサギ順化牛疫ワクチン(ウサギ400代継代)が、北京に保管されていたのを知り、それを取り寄せて中国人科学者と共同で、ヤギで100代、さらにヒツジで100代継代して、ヒツジに順化させた。これで、ヒツジでのワクチン大量製造が可能になり、中国の牛疫は撲滅された。ヒツジ順化牛疫ワクチンの開発は新中国の第1回科学賞のひとつに選ばれた。氏家は1955年に帰国した。
(北京には、華北産業科学研究所という日本政府の外務省が設立した農事試験場のような組織があった。中村はここで彼のウサギ順化牛疫ワクチンの大規模接種を計画していた。そこへ敗戦となり、牛疫ワクチンは敗戦処理の一環として、廃棄・焼却されることになったが、たまたま処分が終わる前に、米軍に接収されていた。)
もうひとつの成果として、1950年代半ばに、豚コレラウイルスをウサギで継代して弱毒化した生ワクチンが開発された。これがのちに、豚コレラC株ワクチンと呼ばれるようになった。このワクチン開発の経緯についての具体的資料は見当たらない。獣研豚コレラ室で20年にわたって豚コレラの研究を行っていた富岡秀義、豚コレラ室出身の中国人科学者、牛疫ウイルスのウサギ継代について豊富な経験を持った氏家らが共同で、豚コレラワクチンの開発に取り組んだと考えて間違いないであろう。なお、富岡は弱毒化が達成される前、1950年に朝鮮との国境の延辺大学の教員として派遣された。このワクチンが、日本での豚コレラ対策にも用いられることになったのである。
富岡は、ハルビン獣医研究所の創建について、「留用日系技術者らにとっては、心密かに奉天獣研の再建で、奉天獣研創立の精神と20年来の業績を、今こそ中国人民による中国人民のための研究所」として、家畜伝染病の撲滅に役立たせることを期待していたと回想している。
文献
回想・奉天獣疫研究所の20年。奉天獣疫研究所回想誌刊行委員会、1993.
続・回想奉天獣研20年。奉天獣疫研究所回想誌刊行委員会、1994.
国際協力事業団:家畜衛生プロジェクトの手引。 昭和57年10月。
http://open_jicareport.jica.go.jp/pdf/10093433.pdf
富岡秀義:私の歩んだ道 : 難民・抑留の8年札幌市役所の13年 1945年~1967年。1991。私家版。