予防衛生協会の30年を振り返る
2008年に予防衛生協会(協会)が国立予防衛生研究所(予研)の筑波医学実験用霊長類センター(TPC)(現在は医薬基盤研究所・霊長類医科学研究センター)とともに設立されて30周年を迎えた。TPCの設立の最初の段階からたずさわってきた私にとって大変感慨深いものがある。この節目の時点で、TPCと協会が設立されるにいたった経緯とその後の事業の進展を振り返ることにより、これからの発展への期待を考えてみたいと思う。
霊長類センターの設置計画
予研では昭和37年からポリオワクチン、昭和40年からは麻疹ワクチンの検定が始められた。これらのワクチンの安全性確認のための試験にサルは不可欠であり、ポリオウイルスや麻疹ウイルスの研究にもサルが求められた。そのため、多数のカニクイザルが東南アジアから輸入されるようになったが、野生のサルは赤痢菌をはじめ種々の病原体に感染していることが多く、また、麻疹ウイルス抗体はほとんどのサルが保有していた。実験動物というにはほど遠い品質のものであった。
サルの飼育管理を担当していた獣疫部は、この問題の根本的解決策が人工繁殖であるとして、昭和41年春にはカニクイザルの繁殖施設設置の予算要求を提出した。一方、昭和43年にはヨーロッパでアフリカから輸入したミドリザルが持ち込んだ致死的マールブルグ病の発生が起こり、サルの輸入に伴うバイオハザードの危険性が大きな問題になった。こうして人工繁殖の重要性はさらに強く認識されてきた。
それまで小規模の人工繁殖が獣疫部で試みられていたが、そこで生まれたサルの数が増えてきて収容スペースも限界に達するおそれが出てきた。そのため、昭和45年に私がまとめ役を引き受けていた実験動物委員会サル部会は、あらためて本格的な繁殖施設の予算要求を提出することになった。年間1000頭の子ザルを繁殖する計画で要求額は1億円であった。当時の予研での予算要求の限界は数千万円台であり、これは非現実的な額ではあったが、予研上層部の賛同が得られて予算要求書は厚生省に提出された。
一方、同じ年に筑波学園都市法が成立し、厚生省の付属試験研究機関の移転計画が持ち上がった。これに対して昭和46年末から移転反対運動が起こり、予研では昭和47年1月に室長、主任研究官など40数名が厚生省に乗り込み移転反対を訴えた。その結果3月中旬、厚生省は付属試験研究機関移転計画を中止し、代わりに実験動物と薬用植物関係の施設を筑波に設置する方針を決定した。これに対して予研学友会の将来計画委員会は、これまでに実験動物委員会が検討してきていた霊長類繁殖施設の構想にもとづいて、全国的な視点から国立実験用霊長類センター設立の計画をまとめ、サル類に限った施設設置の必要性を厚生省に説明し、これが受け入れられて同年8月に霊長類センター建設の方針が厚生省で確認された。
翌昭和48年には、予研および国立衛生試験所(衛試)の一部を移転させて、サル類に関しては予研支所としての実験用霊長類センターを設立するという省議決定が行われた。我々が希望した全国的な視点ではなく、予研のための施設という位置づけになったのである。
すでに米国では、国立衛生研究所(NIH)が昭和32年に霊長類研究センター計画を発足させ、昭和40年代初めから7カ所の大学医学部または獣医学部に地域霊長類研究センターを設置してきていた(現在は国立霊長類研究センターと改称されて8つになっている)。そこで私は、昭和49年2月WHOの基金により3ヶ月間、米国をはじめヨーロッパの霊長類研究施設の視察にでかけ、サルの飼育、繁殖、健康管理、研究など多面的な情報の収集を行った。当時、米国全体では年間約6万頭のサルを用いて医学全般にわたる研究が行われており、地域霊長類研究センターがその大部分を占めていた。一方、米国では95%のサルが輸入に依存しており、予研で10年あまりにわたって試みられてきた屋内での実験的繁殖はほとんど行われていなかった。こうして、日本の医学研究を支える国立霊長類研究センターの必要性が強く認識されるとともに、大規模屋内繁殖事業が世界に例を見ないものであることが、あらためて認識されたのである。
予防衛生協会の設立
昭和49年暮れには、予研と衛試がワクチンの国家検定および医薬品の慢性毒性や催奇性試験に使用するサルの繁殖育成を目的とした国立予防衛生研究所支所・筑波医学実験用霊長類センターの設置を求める予算要求が提出された。これに対して施設整備費はおおむね認められ昭和51年から建設が開始され、昭和53年に完成した。
一方、人員の面では全部で89名が要求されていたが、昭和52年12月の予算内示で認められたものは、予想もしない内容であった。センターの定員は10名で、その他の必要な人員については定員11名の社団法人の協会を設置して、そこが繁殖・育成の業務を受け持つというものだったのである。こうして、国立研究所支所と社団法人という二重構造の組織が生まれることになった。
大規模屋内繁殖の経験の蓄積
常時約3000頭というサルを保有して行う大規模屋内繁殖はTPCと協会が一体となって始められた。米国の霊長類センターで行われていた繁殖は、屋外放飼施設の野生サルから生まれたサルを実験に用いる目的のものであって、TPCが実施しようとしている屋内繁殖方式を実施している施設は米国のみならずヨーロッパにも存在していなかった。
このようなまったく新しい方式が試行錯誤も繰り返しながら、これまで30年にわたって続けられ、健全なサルが確保されてきた。平成19年には7代目が生まれた。野生サルから生まれた初代のサルの最高齢は30歳を超している。このようにして30年の間にはサルの屋内繁殖・育成や健康管理に関する世界唯一の技術が蓄積されてきた。
とくに健康管理の面では、実験動物としてのサルの品質を確保するために、ほとんどのサルが感染していてヒトに致死的感染を起こすおそれのあるヘルペスBウイルスをはじめ、実験結果に悪影響を与えるさまざまなサルのウイルスによる汚染のないもの、すなわち、SPFサルの作出が重要な課題であった。米国ではこの目的でNIHが大規模なSPFサル計画を1990年代から始めていた。しかし、清浄化のもっとも重要な対象であるヘルペスBウイルスは、屋外繁殖に依存しているため現在でも清浄性の維持に苦労している。協会では清浄化に成功し、現在TPCで維持されている繁殖育成サルはすべてヘルペスBウイルス感染のないものである。これは屋内繁殖方式が貢献したものと考えられる。
研究支援業務から発展した共同研究・技術支援
協会は、予研の支所としてワクチン開発、エイズ、プリオン病など感染症に関わる研究を中心とした支援業務のかたわら、繁殖・育成業務を通じて見いだされてきたさまざまな疾患のサルについての研究をTPCの協力のもとに進めた。その結果、骨粗鬆症、糖尿病、黄斑変性、高脂血症などのサルが見いだされてきた。これらはそれぞれの疾患の貴重なモデル動物として研究に利用されている。これまでに得られてきた高齢サルを用いた加齢に関する研究の支援も始まった。この時点ですでに感染症の枠を超えた広い研究領域にかかわることになっていたのである。
平成9年度からは厚生省霊長類共同利用施設が発足し、その管理運営が協会に委託された。ここでは遺伝子治療、再生医療、移植医療、脳科学、長寿科学など先端的な医療に関する実験が行われ、協会が飼育や健康管理にとどまらず、外科手術をはじめMRIなども利用した高度の獣医学的技術を提供している。ここで、きわめて小規模ながら当初要望していた全国的な視点の霊長類センターの機能が加わってきたのである。
独自事業の開始
平成5年からは、協会の独自事業として受託検疫と受託検査が開始された。これらは長年にわたるサルの検疫の経験や健康管理における微生物学的検査技術の蓄積にもとづくものである。平成11年から施行された感染症法では輸入サルの検疫と検査が重要な柱のひとつであるが、協会は高度危険性のあるマールブルグウイルスやヘルペスBウイルスなどの検査を実施できる国内唯一の施設として感染症法の技術的基盤を支えている。
研究蓄積の社会への還元
30年間にわたって蓄積してきた高品質のサルの繁殖・育成、飼育管理に関する技術は、協会が主催する予防衛生協会セミナーや霊長類医科学フォーラムなどを通じて、国内のサル飼育に関わる技術者に伝えられている。平成21年からは予防衛生協会シンポジウムが発足し、さらに広い視点にたった霊長類医科学に関する情報提供の場になろうとしている。
一方、出版物を通じた情報提供も始められた。平成17年には「カニクイザルのMRI脳アトラス」が刊行され関係者に配布された。これは世界で唯一の貴重な資料で、サルを用いた脳科学や神経科学に役立つことが期待される。続いて平成18年には「医科学研究資源としてのカニクイザル」が刊行された。これは高品質のサルの飼育管理技術に関する集大成であって、実験用サルに関わる技術者のための貴重な手引きとなっている。
霊長類フォーラムの開設
平成5年にはTPCと協会が合同で、霊長類を対象とした研究に関する情報交換、討論、データの相互利用を目的とした霊長類フォーラムを開設し、その運営は協会が引き受けた。この時はインターネットが普及する前であって、ニフティサーブを介したものであった。私は吉川泰弘TPCセンター長の強い要請で、平成7年4月から連続講座「人獣共通感染症」をこのフォーラムに掲載し始めた。まもなくインターネットが普及しはじめ、この講座は会員以外の多くの人々にも利用されるようになり、とくにBSEでは国内最大の情報源となった。これに続いて安田徳一博士の集団遺伝学の連続講座も行われている。こうして、このフォーラムは霊長類医科学を中心として、医科学の広い分野にわたる情報センターとして現在も広く利用されている。
今後の発展への期待
以上述べてきた30年間の歴史は、協会がサル類に関する屋内繁殖、健康管理、高度の獣医学的技術を蓄積してきた国内唯一の専門家集団に成長してきたことを明瞭に示している。基礎医学研究全般におけるサル類の重要性は今更強調する必要もない周知の事実であるが、とくに現在急速に進展している先端的基盤研究の成果を医療や創薬に結びつけるトランスレーショナル研究においては、実験動物としての品質が保証されたサルの使用が求められている。この要望にも応えうる技術基盤を持った協会が、今後もTPCと一体になって我が国の霊長類医科学の推進に貢献することを期待したい。