11.「史上最大の疫病・牛疫」— 世界史への影響と獣医学のルネッサンス —

これは、日本パスツール協会がパスツール研究所創立120周年と日仏交流150周年を記念して開いた講演会で行った基調講演の講演テキストとスライドです。
牛疫は、私が予研麻疹ウイルス部で1965年以来、ウイルスの培養細胞系(Vero細胞)の確立、動物モデル(ウサギ)での発病機構、天然痘ワクチンをベクターとした遺伝子組み換えワクチン開発と、約半世紀にわたって取り組んできたライフワークともいえるものです。私たちの組み換えワクチンが実用化される前に、牛疫の根絶計画は予想以上に進展し、2010年に根絶宣言が出される段階に来ています。これは天然痘に次ぐ感染症の世界からの根絶になります。
この講演は、世界的に眺めた牛疫の歴史や根絶の現状を簡単に整理したものですが、とくに日本における牛疫に重点を置いています。
なお、テキストはスライド番号別になっています。

(1)本日はパスツール研究所創立120周年記念シンポジウムで講演をおこなう機会を与えていただき有難うございます。実は、私は1995年横浜で開かれた世界獣医学大会で、パスツール没後100周年記念シンポジウムを、フランスのアルフォール獣医科大学の元学長シャルル・ピレ教授と主催したことがあります。今回、ふたたびパスツール記念の催しに参加することができ、大変光栄に存じております。
さて、今日の話題に取り上げた牛疫という病気は、獣医学領域では有名ですが、一般の人々はあまり聞いたことのない名前かもしれません。
この病気の存在は4000年前には知られており、獣医学の歴史で最大の被害を与えてきたもので、ヨーロッパでは古くから有名な病気ですが、日本ではほとんど知られていません。その最大の理由は日本では、86年前の大正11年に撲滅されていたためです。
これもまた知られていないことと思いますが、牛疫の研究では、パスツール研究所も深いかかわりを持っています。まず、病原体である牛疫ウイルスを分離したのは、パスツール研究所の研究者でした。また、長年にわたって利用されてきた免疫血清による牛疫予防法の開発には、パスツール研究所の研究者でノーベル賞受賞者のジュール・ボルデーが協力していました。
牛疫は世界史にさまざまな影響を与え、また、獣医学の領域が生まれるきっかけをもたらしています。史上最大の伝染病とみなされた牛疫ですが、国連食糧農業機関FAOによる根絶計画が進展し、もはや世界のどの地域でも牛疫は発生していません。2010年には根絶宣言が期待されています。限られた時間ですが、4000年にわたる牛疫の歴史を振り返り、世界史への影響や獣医学の進展にかかわってきた状況の一端をご紹介してみたいと思います。

(2)牛疫は英語で、rinderpestもしくはcattle plagueと呼ばれています。rinderpestのrinderはドイツ語で牛のことで、牛のペストになります。もう一つの英語名のcattle plague、フランス語のpeste bovineいずれも牛のペストの意味です。昔からペストと同じように恐ろしい病気とみなされてきたのです。  牛疫は牛や水牛をはじめ偶蹄類に致死的感染を起こします。もっとも特徴的な症状は、まず発熱、ついで涙、鼻汁、よだれなどを多量に分泌すること、そしてはげしい下痢です。下痢の結果、脱水状態になり、普通1−2週間で死亡します。感受性の高い牛の品種では、致死率は70%にも達します。牛疫の症状の写真は沢山あるのですが、生々しい写真よりも、右の図の方が症状の特徴をよく示していると思います。これは、アフリカでの牛疫撲滅キャンペーンで関係者に配布したパンフレットに用いられたものです。
OIEの家畜伝染病分類では、牛疫はもっとも危険な感染症であるリストA に入れられています。
病原体は牛疫ウイルスで、これはパラミクソウイルス科、モービリウイルス属に分類されています。このウイルス属には麻疹ウイルスと犬ジステンパーウイルスが含まれています。
牛疫ウイルスは、1902年パスツール研究所のモーリス・ニコルとアルフォール獣医科大学を卒業したアディル・ベイにより、トルコの帝国細菌学研究所で分離されました。この研究所はパスツール研究所が協力して設立したものです。なお、モーリス・ニコルの弟のシャルル・ニコルもパスツール研究所の研究者で、発疹チフスがしらみで媒介されることを発見して、ノーベル賞を受賞したことで有名です。
ついでですが、本日のもうひとつの話題である狂犬病ウイルスは、牛疫ウイルス分離の翌年、1903年にパスツール研究所のPaul Remlingerにより分離されました。
牛疫ウイルスは麻疹ウイルスの祖先と考えられています。人は1万年前にアフリカから北上して、チグリス、ユーフラテス川やインダス川などの流域で農耕生活を始めました。家畜の利用もはじめて、家畜との密接な接触が起こるようになり、そこで、約8000年前に牛疫ウイルスに感染したと考えられています。そして集団生活をはじめていた人々の間で広がって、麻疹ウイルスに進化したと考えられているのです。私が麻疹や牛疫ウイルスの研究を始めた頃、ウイルスタンパク質の抗原性の共通性から、この考えが生まれたのですが、最近では遺伝子構造の面からもこの考えは支持されています。

(3)牛疫の存在を示すもっとも古い記録は、エジプトのカフン渓谷で発見された紀元前2000年の獣医学パピルスに残されており、これに牛疫とみなされる牛の病気の症状が述べられています。インドのタミル地方では、紀元前1500年に書かれたと考えられる椰子の葉が見つかり、色々な牛の病気の症状や処置法が書かれています。これには明らかに牛疫と考えられている病気が含まれています。
旧約聖書の紀元前1300年の大脱走「エジプトの第5の疫病」には、「野にいる家畜にきわめて重い疫病が発生し、エジプトの家畜はすべて死亡したが、イスラエルの家畜は1頭も死ななかった」という記述があります。これはエジプトで牛疫が発生したことを示すものと考えられています。
アリストテレスが紀元前343年頃に書いた動物誌(Historia animalium)という本には、クラウロスという牛の熱病のことが述べられており、これも牛疫を指したものと考えられています。
古代ローマの有名な詩人ウェルギリウスが紀元前29年に発表した農耕歌Georgicaという詩では、イタリアをおそった家畜の病気のことが歌われています。これは紀元前43年にイタリアで発生した牛疫の大流行を述べたものと考えられています。

(4)古代ヨーロッパから中世ヨーロッパでは牛疫の発生が社会に大きな影響を与えてきました。まず、ローマ帝国の衰退があります。ローマ帝国は4世紀に東西に分裂しましたが、そのきっかけは、ゲルマン民族大移動が始まった頃、ゲルマン民族のひとつの西ゴート族がローマ帝国に移住し、そこで農業を始めたのですが、牛疫が発生して飢饉となり、その結果暴動が起こりました。それを鎮圧するために、378年ローマ皇帝自ら出馬してアドリアノープル、ここは現在はトルコ領のギリシアとの国境の近くですが、ここで有名なアドリアノープルの戦いとなりました。しかし、ローマ軍は敗北し、皇帝も戦死してしまいました。その結果、ローマ帝国の中央に西ゴート族が居座って、東西ローマへと分裂したのです。その後、まもなく西ローマ帝国は滅亡しました。
1222年ジンギスカンに率いられたモンゴル軍の侵入により、牛疫はハンガリーからオーストリア、イタリア、ドイツ、フランス、英国まで広がりました。写真の牛はモンゴル軍が連れていた grey stepp cattle、草原の灰色の牛という意味ですが、これが牛疫には抵抗力が強く症状をほとんど示さないままウイルスを排出していたため、ヨーロッパ各地での牛疫発生をもたらしたものと考えられています。いわば、最初の農業生物兵器というわけです。
18世紀には全ヨーロッパで牛疫が大流行し、2億頭の牛が死亡したと推定されています。最初はロシアで発生し、1711年にはイタリアで発生、ついでフランス、ドイツ、英国に広がりました。一方、オーストリアの継承戦争、これはマリア・テレジアの王位継承をめぐる戦争でしたが、ここではハンガリー軍が食糧用に連れていた牛から牛疫が広がりました。
1756年からは、英国、プロイセン、オーストリア、ロシア、フランスなどを巻きこんだ七年戦争が起こりました。この際、ロシアから牛疫が東ヨーロッパに広がりました。
これらの戦争にともなって広がった牛疫は、戦局にさまざまな影響を与えてきました。
一方、フランス革命の頃には、フランスでも牛疫が飢饉を招くなど社会に大きな影響を与えていました。そのため、牛疫がフランス革命のきっかけのひとつになったと言われています。この点について、私はその背景に関する具体的な資料をいろいろと探したのですが、どうしても見つかりませんでした。OIEの元事務局長をはじめ中世の獣医学の歴史に詳しいフランスの人たちに調べてもらったのですが、牛疫とフランス革命の関連を示す証拠はやはり見つかりませんでした。

(5)18世紀にヨーロッパで大流行を起こした牛疫は、獣医学のルネッサンスをもたらしたとみなせます。
まず、摘発淘汰方式の誕生です。これは、伝染病にかかった動物と、感染した可能性のある動物を殺処分するものです。摘発淘汰は現在の家畜伝染病対策の重要な手段で、口蹄疫やBSEでは牛が多数殺処分され、鳥インフルエンザでニワトリが殺処分されているのが、その一例です。この方式は、1711年にイタリアで発生した牛疫に対する対策として生まれたものです。この年にローマ法王の領地で牛疫が発生した際、法王の侍医をつとめていたジョバンニ・ランチシが詳細な対策を法王に提言したのですが、その中核になっているは、発生地域からの動物の移動禁止と、病牛を殺処分し、焼却または土に埋めることでした。これは現在、BSEや鳥インフルエンザで行われているものとまったく同じです。ただ、これに違反したものに厳罰を加える点が異なります。一般の人が違反した場合には絞首刑や四つ裂きの刑になり、牧師など聖職者の場合には一生ガレー船の漕ぎ手とされました。ガレー船は人力で動かす軍艦などですが、その漕ぎ手はおもに罪人でした。牛の殺処分を免れるために病気になった牛を売ったりすることを防ぐために、このような罰則が実施されたのです。現在では、殺処分する動物には補償を行っています。
右の図は1713〜1714ボローニャでの牛疫発生を描いたものです。
牛疫の発生はヨーロッパ社会をゆるがせてきましたが、その当時、獣医師の職業はまだありませんでした。医師が牛の病気に対応しなければならず、また、農民や牧畜業者は牛の医者と自称する人に助けを求めたりしましたが、ほとんどは役にたたず、むしろ事態を悪化させる場合も多くありました。そこで、獣医師を教育する場が求められるようになったのです。
最初の獣医学校は1762年、フランスのリヨンに設立されました。馬術の名人だったClaude Bourgelatがルイ15世の財務長官から資金を提供してもらって設立したものです。財務長官は牛疫が与えている大きな被害を憂慮していたため、すぐに資金の提供を決めたのです。ブルジェラは1766年にはパリ郊外にアルフォール獣医学校も設立しました。
リヨンの獣医学校は古い宿屋を改造したものでしたが、そののち新しいキャンパスに移っており、この銅像は新しいキャンパスにあるものです。アルフォール獣医学校は昔の場所のままで、そこにも同じ銅像があります。
つづいて、ウイーン、トリノ、コペンハーゲン、ギーセン、ベルリン、ハノーバーとあいついで獣医学校が設立されました。これらの設立も牛疫が最大の目的でした。そして、獣医学校の卒業生により獣医師という職業が確立されたわけです。

(6)19世紀の大きな出来事は蒸気機関の発明でした。多数の牛が鉄道や蒸気船で運ばれるようになり、牛疫もヨーロッパ各地で発生しました。その結果、牛疫を中心に口蹄疫など家畜伝染病についての第1回国際獣医学会議(International Veterinary Congress)が1863年にハンブルクで開かれました。そののち定期的に開かれるようになり、これが世界獣学協会(World Veterinary Association)に発展しました。この協会が開催する世界獣学大会(World Veterinary Congress)は獣医学領域の最大の集会となっています。日本では1995年に横浜で第25回大会が開催され、1万人が参加しています。
国際獣疫事務局OIEはBSEの国際基準などで日本でも有名になりましたが、これの設立も牛疫がきっかけです。1920年インド産の牛がブラジルへ送られる途中、ベルギーのアントワープ港で検疫を受けたのですが、その中に牛疫に感染していた牛がいて、ベルギーで牛疫が発生しました。また、ブラジルでも牛疫が発生しました。なお、アメリカ大陸での牛疫発生はこれが最初で最後のものです。
ベルギーでの牛疫発生をヨーロッパ諸国は深刻に受け止め、家畜伝染病の国際的広がりを防ぐための中央情報機関として1927年にOIEを設立したのです。OIE (Office international des Epizooties)は、フランス主導で設立されたため、フランス語の名称になっていますが、2003年にWorld Organization for Animal Health、つまり動物のWHOという英語名が正式名称になりました。しかし、一般にはOIEの呼び名が用いられています。

(7)19世紀終わりにはアフリカ全土を巻き込んだ牛疫のパンデミックが起こりました。感染源としては、1887年にエチオピアと戦ったイタリア軍が食糧用としてインドから持ち込んだ牛がもっとも可能性が高いとされています。図の矢印が示すように発生は南下し南アフリカに到達しました。
このパンデミックはアフリカの植民地化を促進しました。英国ではケニアの統治を始めようとしていた時でした。その際、マサイ族との戦いの危険性があったのですが、牛疫によりマサイ族は貴重な財産である牛をほとんど失ったために経済が破綻し、戦闘能力を喪失してしまったのです。こうして、英国は容易にケニアの植民地化に成功しました。
南西アフリカ、現在のナミビアでは、ドイツが植民地化を進めようとしていた時に牛疫の発生に見舞われました。同時に、マラリアも発生し、牛疫とマラリアにより、先住民の経済は破綻し、政治組織はすっかり弱体化してしまいました。こうして、ドイツは先住民の伝統的社会をくつがえして、ドイツのシステムに組み込むことに成功したのです。

(8)牛疫は日本における獣医学の出発点となり家畜伝染病対策の確立に深くかかわりました。まず日本での牛疫の歴史ですが、江戸時代に牛疫の発生は起きていました。この史実は、山口県畜産試験場に勤務していた獣医師、岸浩博士のライフワークにより明らかにされたものです。
牛疫は昔はタチと呼ばれていました。もっとも古い記録としては、日本イエズス会が1603年に刊行したオランダ語辞書で、これにTachiは牛のペストに似た病気と書かれています。元禄時代、1692年に出版された食べ物の百科事典のような本朝食鑑には、「牛の病をタチと呼ぶ。これは立の字で、牛の伝染病が流行すれば村中の牛がかかり、最後には国中に広がる。これが牛疫である。」と述べられています。
図は1720年に出版された牛科撮要という本にあるタチの図です。この本は日本におけるもっとも古い獣医書ともみなされていますが、この図の中の症状の記述の最後に、「これをたちという」と書かれています。
岸博士は、古文書について、牛だけが急激にかかって、多数の牛が死亡する伝染病という条件を備えた記録を探した結果、寛永年間と寛文年間に発生していたことを明らかにし、それぞれ寛永牛疫、寛文牛疫と名付けました。
寛永牛疫は寛永15年から19年にかけて西日本で発生し50万頭以上の牛が死亡しています。寛文牛疫では長州藩で約5万頭、四国で1万頭以上の牛が死亡しています。
これらの発生時期は、朝鮮半島での牛疫の発生時期に相当しており、朝鮮半島から持ち込まれたものと考えられています。しかし、当時は鎖国時代だったため、岸博士は日本海沿岸にしばしば漂着した船の記録を調べて、これらの船に積まれていた牛が感染源であったと推測しています。

(9)明治維新になり西洋の文化が取り入れられるようになり、明治3年には西洋医学が公式に認知されました。その翌年、明治4年にシベリアで牛疫が流行しているというニュースが日本の感染症対策のはじまりをもたらしました。
上海で開業していた米国人医師から駐日公使への手紙で、「シベリア海岸で牛疫が流行している。これはヨーロッパで大きな被害をもたらしたものであり、日本に侵入すると日本中の家畜が死亡することもありうる。」そこで、日本への侵入の危険性を日本政府に知らせてほしいといった内容でした。
おそらく同じ情報にもとづくものと考えられますが、大学東校、現在の東大医学部の石黑忠悳(タダノリ)が大学に建白書を提出し、牛疫の侵入の危険性と、牛疫がどのような病気かを述べたオランダの家畜治療書の翻訳を添付したのです。なお、石黒忠悳はのちに軍医の制度を確立して軍医総監をつとめた明治初期の医学界での中心的人物でした。
明治政府ははじめて伝染病の脅威に遭遇し、直ちに牛疫予防について、太政官布告を出しました。いまで言えば政府通達のようなものです。
その内容は、動物だけでなく、人の健康保護まで述べたものでした。生きた動物や皮革の輸入禁止は妥当ですが、人について病人の上陸は医師の診察が必要、体を清潔に保ち、酒の暴飲をやめる、さらには房事すなわちセックスは節制し、動物は食用に殺したものだけを食べるといったことが詳しく述べられていました。石黒忠悳が提出したオランダの本には人には感染しないと書いてあったのですが、政府は人に感染すると思って狼狽したことが分かります。
かなりお粗末な内容ですが、これは日本で最初に出された家畜伝染病予防と人の伝染病予防対策ということになります。
この布告を受けて、シベリアからの輸入窓口になっていた樺太では、牛疫が人にかかると通知し、またシベリアからの侵入に危機感を抱いた山形県酒田港では、人体用予防薬法まで告示しています。

(10)図は明治4年に作られた家畜伝染病リュンドルペスト予防法で、牛を焼却している様子を示しています。リュンドルペストはrinderpestのことです。牛疫の最初の発生は、明治5年に内藤新宿、これは現在の新宿御苑ですが、ここの勧業寮の牛で起こり、297頭の牛が死亡しました。勧業寮とは、産業奨励のために設置されたもので、そこで外国産の家畜や作物の育成などが行われていました。その牛で牛疫が発生したのです。ただ、これを牛疫と診断した根拠ははっきりしません。
翌明治6年には東京府、大阪府ほか20県で大流行を起こしました。この際には日本人医師がオランダ人医師の助言を受けて死亡した牛を解剖して、牛疫と診断し、論文で発表しています。これは日本でのはじめての牛疫に関する論文です。この流行は4年間続き4万頭以上が死亡しました。
明治25年には東京の白金村の屠畜場で牛疫が発生しました。この場所は私がつとめていた東大医科研のある白金台に相当します。余談ですが、私はこの話に興味を持って、古い資料をいろいろと調べてみたところ、明治以前にすでに白金村には屠畜場が作られていました。当時、芝高輪の東漸寺というお寺にイギリス公使館があって、そこへ横浜の業者が牛肉を納めていたのですが、運搬中に牛肉を腐らせてしまうことがあったため、お寺の近くの白金村の地主の土地に屠畜場を作ったというのです。これが東京で最初の屠畜場でした。それから20数年後に、新たに2万坪という広い土地に屠畜場が作られており、ここで牛疫が発生したと考えられます。ここがどこなのか調べているのですが、まだ分かりません。
明治25年の発生は、東京、大阪、京都の3府、北海道、および16県で起こりました。そののちも、明治33年を除いて毎年発生していました。大正年代には、大正9年に横浜で2回、それと大阪と京都で発生しました。大正11年に徳島と香川で発生したのが日本での最後の牛疫になりました。

(11)牛疫は日本における家畜伝染病対策を作るきっかけになりました。明治4年には牛疫侵入防止のため、港湾での家畜検疫が始められました。それでも牛疫の侵入を防ぐことはできず、朝鮮半島からの侵入は続きました。しかし、朝鮮牛は農耕用の役牛として重要であったため、輸入禁止することはできませんでした。その代わりに、輸出港で検疫を行い、日本の港でも検疫を行うという二重検疫制度が設けられ釜山検疫所が設立されました。これは、現在、家畜や野生サルの輸入などで行われている対策とまったく同じです。
家畜伝染病予防法の制定も牛疫がきっかけになりました。一番最初は、先ほど述べた明治4年の太政官布告ですが、これはあまりにもお粗末なものでした。家畜伝染病予防法の最初とみなされるのは、明治19年に制定された獣類伝染病予防規則です。これには牛疫など6つの家畜伝染病が対象になっています。明治26年には、税関が6つの港に設置されました。そして、明治29年に獣類伝染病予防規則が獣疫予防法として制定され、大正11年に家畜伝染病予防法となりました。平成16年にはBSEの発生をきっかけに大改正が行われ、家畜の健康だけでなく、食の安全のための畜産物の安全確保の内容が盛り込まれた現在の法律になっています。
動物衛生研究所の出発点は獣疫調査所です。これはまず、明治24年に仮農事試験場に獣疫研究室が作られ、明治37年に農科大学教授の時重初熊が研究室主任となり調査研究部と製造部に分けられました。農科大学は現在の東大農学部です。そして製造部で彼がドイツ留学で学んできた牛疫免疫血清の製造が始められました。大正10年には獣疫調査所として独立し、昭和22年家畜衛生試験場となり、平成13年に現在の動物衛生研究所に改称されました。

(12)牛疫の予防は昔からいろいろと試みられてきましたが、実際に予防法として役立ったものは免疫血清とワクチンです。
免疫血清法は牛で作った免疫血清を感染にさらされた牛に注射して発病を防ぐもので、19世紀終わりのアフリカでの牛疫パンデミックの際に開発されました。
この方法は現在でも麻疹で行われています。まだワクチン接種を受けていない乳幼児などが麻疹患者に接触して感染のおそれのある場合、ヒト免疫グロブリンの注射で発病を防ぐものです。
ところで、牛疫で最初にこの方法を応用したのは、スイス人のアーノルド・タイラーのグループで、これにはパスツール研究所から派遣されたジュール・ボルデーが協力していました。タイラーは黄熱ワクチンの開発でノーベル賞を授与されたマックス・タイラーの父親です。ジュール・ボルデーは自然免疫に関する研究でノーベル賞を受賞しています。
彼らに続いてドイツのロベルト・コッホのグループが免疫血清法に取り組んでいます。
牛疫ワクチンの第1号は、牛疫に感染した牛の脾臓の乳剤を不活化したものです。これは、韓国併合の頃に日本が釜山に設立した牛疫血清製造所で蠣崎千春博士が開発したものです。この写真は私が蠣崎博士の息子さんの家を訪ねてコピーさせてもらったものです。このワクチンは後で述べますが、韓国と中国の国境に免疫地帯を構築する計画に貢献しました。
1928年には、インドで英国人エドワーズが山羊に順化した生ワクチンを開発しました。これはおもにインド、中近東、アフリカで使用されました。
1941年には、蠣崎博士の研究室で、中村稕治博士がウサギに順化した生ワクチンを開発しました。中村博士は私が勤務していた日本生物科学研究所の創立者です。このワクチンは中国、韓国、タイ、ベトナム、カンボジア、エジプトなどで使用されました。中村先生の写真は日生研で探してもらったのですが、なかなかよいのが見つからず、これが中村先生の雰囲気を伝えていると考えた次第です。
中村博士は戦後、ウサギ順化ワクチンよりも副作用がはるかに弱いワクチンとして、鶏胎児順化ワクチンを開発しています。これは朝鮮戦争終結後に38度線で免疫地帯を構築するのに用いられました。
これらはいずれも動物の組織から作られたワクチンでしたが、1950年代にポリオワクチンや麻疹ワクチンが細胞培養法で作られるようになりました。それにならって、1962年英国のWalter Plowrightは、牛の腎臓細胞で培養した生ワクチンを開発しました。これは副作用がほとんどなく、品質管理も容易で、それまでのワクチンにとって代わりました。そして後で述べるように世界根絶計画はこのワクチンにより進められました。
なお、この根絶計画に用いられたワクチンは当初の牛の腎臓細胞ではなく、ミドリザル腎臓細胞株であるVero細胞で製造されています。この細胞は1950年代に千葉大学で安村義博博士が開発したもので、牛疫ウイルスの増殖に適していることは私たちが1967年に報告したものです。Plowrightの写真は1994年に新宿京王プラザホテルでの国際学会の際に彼と一休みしていた時に写したものです。

(13)牛疫対策では日本の研究者は大きな貢献を果たしてきました。まず、朝鮮半島における国境免疫地帯の構築があります。韓国の牛疫は中国から侵入してきたため、それを防ぐために、幅20キロ、長さ1200キロにわたる国境地域の牛すべてを免疫するという壮大な計画でした。1911年に釜山に設立された牛疫血清製造所で免疫血清を作り、それに牛疫感染牛の血液を混合して牛を免疫していました。この方法は牛が感染して死亡する危険性もあるものでした。大正11年に安全な蠣崎ワクチンが開発されたことで、これに切り替えられました。
台湾では、日本の植民地になっていた時代、明治38年に牛疫血清製造所が設立され、牛疫の発生防止につとめた結果、大正9年を最後に撲滅されました。戦後、昭和24年に再発しましたが、これは中村先生のウサギ順化ワクチンで制圧され、そののち発生していません。この写真は台湾家畜衛生研究所の玄関前にある牛疫撲滅記念碑で、私が1994年に訪ねた際に写したものです。
中国では、かって満州国と呼ばれていた東北部に、満鉄が奉天獣疫研究所を設立して牛疫などの対策を行っていました。奉天は現在の瀋陽です。敗戦後、この所員を中心とした日本人が、当時の人民解放軍に依頼されてハルピンでの東北獣医科学研究所の設立に協力し、そこで、中村先生のウサギ順化牛疫ワクチンの改良を行いました。現地では、ウサギが入手できなかったので、容易に入手できる羊に順化したのです。これは新中国の第1回科学賞のひとつに選ばれました。このワクチンをさらに中国側で改良を加えたワクチンで中国の牛疫は撲滅されました。なお、この研究所は現在は、中国農業科学院ハルピン獣医研究所として、中国の獣医学研究の中心になっています。  そのほか、カンボジア、タイ、ベトナムの牛疫も中村ワクチンで撲滅されました。

(14)プローライトの細胞培養ワクチンが開発されたことで、FAOなどによる牛疫根絶作戦が1980年代終わりからアフリカ、西アジア、インド、南アジアで始められました。1994年には、これらの根絶作戦を一緒にした世界的牛疫根絶計画がFAO、OIEなどが中心になって始められました。
図は牛疫の発生地域の変動を示したものです。1900年代には世界中に牛疫が発生しており、1950年代にもインドを中心としたアジア、中近東、アフリカで発生していました。この時代には流行を起こしている牛疫ウイルスのタイプを区別することはできなかったため、発生地域は赤で示されています。2000年以後にはアフリカに2つの系列、アジアに1つの系列のウイルスが存在することが、遺伝子解析により明らかにされました。黄色がアフリカの第1系列、青がアフリカの第2系列、桃色がアジア系列のウイルスの存在地域です。2000年にはパキスタンと、いわゆるクルド三角地帯、ここはイラン、トルコ、イラクにまたがる地域ですが、ここと、イエメンにアジア系列のウイルスが残り、アフリカでは、ソマリアの自然放牧地とスーダンにウイルスが残っていました。2001年以後は、どの地域でも発生は起きていません。現在、クルド三角地帯とソマリアの自然放牧地について、フリーを確認するためのサーベイランスが続けられているところです。そして、2010年には根絶宣言が出される可能性が高まっています。

(15)歴史上人類にもっとも大きな被害を及ぼしてきた天然痘は1980年に根絶されました。写真はその根絶宣言です。牛疫の根絶は天然痘に次ぐ成果になるものと期待されています。
天然痘根絶は微生物学の最大の成果と言われていますが、根絶に役立った天然痘ワクチンは、微生物学がまだ生まれていない時代、200年以上前にジェンナーが開発したものです。根絶計画で実際に用いられたワクチンは牛や羊の皮膚で製造したもので、この製造法も100年以上前に考案されたものです。検査では孵化鶏卵でウイルスを分離することと、寒天ゲル沈降反応で天然痘ウイルスであることを確認したのですが、これだけが20世紀、微生物学が進展し始めた時代に開発されたものでした。天然痘根絶は、微生物学が生まれる以前の、ジェンナーの偉大な業績に支えられていたといえます。
牛疫の根絶は、18世紀に生み出された摘発淘汰に続いて、20世紀になって開発された一連のワクチンにより達成されてきました。検査の手段も20世紀になって開発され、とくに20世紀後半に導入された遺伝子工学の技術が非常に役立っています。これらのワクチン開発の歴史、検査法の開発の歴史、いずれも、20世紀における微生物学の進展の歴史そのものを反映したものです。そして、中でも蠣崎千春、中村淳治といった日本のパイオニアたちが大きな貢献を果たしてきたことを、最後に強調して、私の講演を終えたいと思います。