第19回 ハワイの休暇 – ハワイ、はわい、布哇(03/01/2005)

6. 7. ハワイの休暇

手許にある「海外旅行手帖」、日本交通公社海外旅行部第11版36.2(SKP)に母と旅行したマウイ島とハワイ島のスケジュールが書き残してあった。1964(昭和39)年の8月21日の朝、ホノルルをアロハ航空560便でマウイ島カフルイ空港着、その日一日観光タクシー(オハイオから来たという老夫婦と相乗り)でイアオ渓谷を観光。ワイルク・カルフイに1泊。翌日、ハレアカラ火山に登頂。午後722便でハワイ島ケアホレ空港(コナ)に到着。海岸伝いに南下して、キャプテンクックの最後を記念碑などを見物してプナルウ黒砂海岸の付近で一泊。翌日はキラウエア火山の火口を覗き、火山観光館?で噴火のフイルムを観て、カラパナ黒砂公園、溶岩樹公園を通りヒロに着いた。虹の滝などを観光してヒロ空港から545便でホノルルに戻った。2泊3日の観光旅行であった。

当時はワイキキ海岸もそれほど日本人観光客も多く無く、それは米国入国のビザがかなり面倒でなかなか出なかったせいかも知れない。母の話しでは何度も米国大使館に呼び出され、何をしにハワイに行くのか詳しく問いただされたとのことであった。それも必ず日本に帰国する裏付けと女性の一人旅に確実な保証人が必要だったのらしい。 往復航空券は既に航空会社を経由して送ってあったので、滞在費等をこちらで出費する旨の手紙で連絡してようやくOKが出た。

ホノルル空港へは友人の運転で母を迎えに行った。何人かの友人が私の母に会いたいと同行したが、母はいくつものプルメリア、ハイビスカスなどのレイを首が埋まるほどに掛けられ、あっけにとられていた。飛行機が着いたのは多分お昼頃だったと思うが、定かでない。夕方だったかもしれない。S. Beretania st沿いの「真宗教会」寄宿舎に直行する。3年振りの再会であった。

翌日早速ワイキキへコダックのフラダンスショウを見に行った。結構楽しんで居たようで、ショウの終りに観光客も呼び込んだダンスに参加して、多くの白人観光客から拍手が起こりほどの注目を引き写真を撮られたりしていた。本人は「盆おどり」の要領で手、腰を動かしていたと言っていたが、結構、様になっていた。案外と物お怖じしないのだなと感心した。真珠湾、パンチボールなどお決まりの観光地はローカルバスを乗り継ぎ観てまわった。墓地に止まった観光バスから観光客がぞろぞろおりる様は場所にそぐわないと思ったが、これもアメリカなのかとも思った。それまで大学の構内からあまり遠出したことがなかったので、私自身も休暇を満喫することができた。その後母は母で多くの友達をつくり、その縁で結構オアフ島のあちこちを観てまわっていたようである。ダイヤモンドヘッドの頂上へ登り、素晴らしいサンセットをみたと言っていた。母はほぼ1ヵ月ホノルルに滞在した後、早く元気で帰ってね、と言って帰って行った。私の休みはもちろん1週間ほどで、当然ながらPh.D.を目標に、しなければならない計算やモートン先生との新しいアイデアのとりまとめやデスカッションがそれこそ山積みで、充実した時間を過ごしていた。いきおい、母のその日の成果を夜寝る前に聞くことが続いた。母とあんなにしんみり話しをした時間はおそらく忘れることはないだろう。今年の正月今は妹の住む実家を訪ねたところはからずしも私が撮ったフラダンスを踊っている母の写真が数枚でてきた。40年も前の状況がふと目の前を横切った。

オアフ島以外はその他カウアイ島にDr. J. Scandalios夫妻と共に2泊3日の休暇で訪ねたが、これはもう少し(1年)後であったかと思う。Scandalios氏は私より1年早く遺伝学部でPh Dを取った先輩であり、統計に難渋していたようで私はよく相談を受けたことがあった。カウアイ島のポイントは緑と水が豊富なことであろう。水田で稲作が行われていた。小さな島だがワイメア峡谷という小グランドキャニオンがすごい。リフエから山に囲まれた谷間の細道を分け入るとドカーンと迫る大きく開けた峡谷に突き当たる。まさに下から見上げるその迫り方は圧倒される。濡れた空気が顔や手足など肌もじっとりしてくる。後に米本土のグランドキャニオンを訪ねる機会があったが、そちらは赤茶けた崖を見下ろす景観がすごい。カララウ展望台からは北方に海が見えるが、飛行機で海岸を飛ぶとまた別の角度からカウアイ島のきりっとした素顔がみられるとのことである。

白人で最初にハワイ上陸したのがキャプテン・クックでその地点がカウアイ島のワイメアである。1778年のことである。島を東に向かって左まわりに進むと軍の施設に出くわした。背高い枯れ草を押し分けて行き、いきなりという感じである。どうも無人の施設らしく人影はない。君子危ふきには近寄らずと道の無いところを海岸へ出た。透き通った海水に熱帯魚が群れをなして泳いでおり、我々も泳ごうということになった。しばらく泳いだ後に浅瀬で岩に寄り掛かり、テーブル代わりの海面に缶ビールを浮かべScandalios氏曰く、Vamos tomar cerveja!(私がポルトガル語の勉強をしていることを知ってのことである)。彼のPh D 取得を祝して乾杯。Mrs Scandalios曰く、Ph Dは取ったし、職も決まったし、まさに我が世の春ね、と宣う。 Scandalios氏はMichigan State Universityに職をみつけ、その後North Carolina State Universityに移り、Genetics Departmentのchairmanになった。当時。電気泳動の技術が開発され彼は植物でその先端を行き成功した一人である。

ハワイ群島は地球のプレート運動とマグマ噴出のホットスポットとの合作である。主な島々は南から、ハワイ島、マウイ島、ラナイ島、モロカイ島、マウイ島、オアウ島、カウアイ島、それにニイハウ島である。ハワイ島の少し南にある海底火山は現在ホットスポットの位置にあり、盛んに地球のマグマを湧出している。海底のプレートは東北の方向に動いており、はからずもハワイ群島はその方向に分布している。島々の地質的年代も北に位置する島ほど古く、その方向をたどるとミッドウエー島を経由して、途中少し北へ方向が変わるが、何故か日本の歴代天皇の名のついた海底死火山がカムチャッカ半島の方向に続いている。太平洋のど真ん中に地球の穴があり、その表面のプレートの動きが海底死火山や島嶼として記録されているのである。地球の歴史の一面がハワイ群島の地理的分布にみられ、これはプレートのホット・スポット通過時間の長さの反映である。またホット・スポット経過後の時間の長さにより、地質年代的に若い島から古い島へと並んでいる。生物相の多様性も当然この事実が反映しているいずれにも見られるというわけである。

モートン先生はハワイ大学の学生であったころオアウ島のいくつかの谷で採集した、野生ショウジョウバエの変異に興味をもったのが遺伝学にのめり込む切掛であったのだと言っていた。

 

6.8. ハワイ、はわい、布哇

ハワイ群島 The Hawaiian Islands の呼び名は一番大きい島 The big island によるが、ポリネシア原住民は昔からハワイ・ロアと呼び続けていた。キャプテン・クックが1778年に、これを発見し、サンドウイッチ島と名付けた。この名称がハワイ王朝の末期近く迄用いられていたが、1898年アメリカ合衆国に併呑されてから、原住民が呼び続けていた「ハワイ」が正式な名称となった。当時は布哇県(日系人はこう呼ぶ) The territory of Hawaii であったが、1959年にアメリカ合衆国の第50番目の州となり今日に至っている。したがって、私は州となってから4年を経過したハワイ州に上陸した次第であった。ハワイ群島は大きさの順序で、ハワイ島、マウイ島、オアフ島、カワイ島、モロカイ島、ラナイ島、二イハウ島、それにカホオラウエ島などから成る。

ハワイ原住民はポリネシア族に属するといわれ、その祖先はインドあるいはコーカサスから移動し、マレイ族や東洋人と混血しながら、東太平洋の広い海をカヌーで漕ぎ渡り、ハワイに到達したものと考えられている。すべては口伝で想像をたくましくするストーリーに埋もれている。キャプテン・クックがカワイ島のワアイメアに上陸したときは、ハワイは幾つもの「アリ・ワイ」と呼ぶ酋長達の戦国時代の末期に相当していた。1796年にカメハメハ大王がハワイを完全に征服統合した。空港からホノルルのダウンタウンに入り、キング・ストリートを進むとイオラニ宮殿と向き合った位置にその大王像がある。ハワイの観光客はワイキキへ向かう途中に必ず右手を挙げた大王にお目にかかる筈だ。ハワイ王朝は1893年に第8代のリリオカラニ女王が強制的に退位させられる迄続いた。かの有名な「アロハ・オエ」は女王が退位するとき「ハワイ・ロア」への愛惜の情を込めて歌ったという。政治の実権はアメリカ合衆国にThe territory of Hawaiiとして引継がれた。

ハワイ王朝は日本との関係も深く、第7代のカラカウア王は1874年(明治7年)に日本を訪問しており、明治天皇に御会いしている。その際、日本人移民の渡航の実現、皇婿を王室への懇望、太平洋地域の発展について話し合ったといわれる。第2の話題は実現しなかったが、以後の日本とハワイの関係をみると大変興味深い。

日本人のハワイとの最初の掛かり合いは1258年(日本は鎌倉時代、執権 北条長時)にオアフ島のマカプ−岬(観光地、シーライフパークの近く)に漂着した船に日本人が乗り組んでいたと伝えられている。日本の記録に現れている最初のハワイ到着者は1804年にロシアの軍艦ナデジタ号に便乗して、日本へ戻る途中に立寄った仙台藩の津大夫ら一行4名である(弧愁7参照)。彼等は南米南端のホーン岬を経由する長い船旅ののちハワイに上陸し、そのご長崎に帰着したのだが、私は飛行機とはいえはからずも彼等の後をブラジルからハワイへ、帰国は横浜と辿ったことになる。偶然のことで特別な意味はない。

このころから記録は次第に明らかとなる。その後明治初期までには100名を越える漂着者がいる。中でも異色の人物、中浜万次郎(ハワイ着1841年)は難破後に漂着した鳥島で何年か過ごして後、アメリカの捕鯨船に助けられハワイに上陸している。後に感臨丸に乗船し日本の遣米使節の通訳として活躍している。いわゆる「元年者」153人が1868年(明治元年)にサトウキビ栽培労働者としてホノルルに到着し、これを契機に日本人の移民が始まった(この項は 増補再版 「ハワイ日本人移民史」ハワイ日本人連合協会 代表者 迫田正男、ハワイ報知社、1997年による)。