ウルグァイ便り 第4回

ウルグァイのポピュラー音楽


戦後窮乏時代に青春を過した私達の世代の僅かな楽しみは音楽でした。 まず、ロシア民謡を主とする歌声喫茶が流行りました。 旧ソ連の天然色映画「シベリア物語」の中でのバイカル湖のほとりという歌で代表されるようにこれらの歌は当時の若者の心に妙に響くところがありました。 間もなく朝鮮戦争が始まり、いわゆる特需景気で日本の経済事情が徐々によくなると今度はラテン音楽が盛んになりました。 メキシコのトリオ・ロス・パンチェスをはじめとするいろいろなグループ、アルゼンチンのタンゴバンド、ペルー、ボリビア、パラグァイのフォルクローレの歌い手やアーチストが入れ代り立ち代り日本にやってきました。 銀座や新宿の大きな喫茶店では彼らや日本人によるラテンミュージックの生演奏が僅かなコーヒー代で聞くことができました。 日本人に分りやすいメロディーと独特なリズムが人気を呼んだのだと思います。

私事ですが今から14年前にJICAのプロジェクトでメキシコシティーに滞在したことがあります。 僅か3ヶ月でしたがそこでは数々の音楽を聞きました。 シティー中心のボレロ、グァダラハラのマリアッチ(もっともメキシコシティーでも盛んでしたが)、ユカタン地方のカンション・ユカテーカ、チワワ地方のポルカ、ヴェラクルス地方のヴェラクルサ、まだまだ沢山あります。 これら地方色豊かな生演奏を聞いて青春時代を思い出しました。 大きな市にはペーニャといって、フォルクローレを演奏している店があり簡単な食事、飲み物をとりながら音楽を聞くことができます。 金曜や土曜など夜中までいろいろなグループが出演します。 真打ちほど後になって出ます。 職場でも、たまに自宅へ招待された時でもお酒が入るとすぐ合唱します。 中でもふるさとを想うオアハカ地方の古い歌、カンション・ミステーカをよく重唱しますが、これは素朴で心を打つとてもよい歌です。

今回、ウ国に来るに当って私が期待していたのはこれら中南米のフォルクローレを存分に聞いたり、日本では入手できないCDやカセットテープを沢山求めることでした。 ところがウ国にはこういう音楽はほとんどありませんでした。 この国はメキシコやペルーなどと違ってスペイン人の侵入以前に築かれた文化的、歴史的遺産がもともとない上に、先住民が殆ど駆逐されてしまったこともあってヨーロッパからの移植分化が承け継がれています。 これがこの国独自の音楽があまり発達しなかった大きな要因だと思います。 しかし、もともとラテン系の民族ですから大の音楽好きの国民でアルゼンチンと共にタンゴが盛んです。 有名なタンゴのラ・クンパルシータはこの地の作曲家でピアニストであったヘラルド・エルアン・マトス・ロドリゲス(ニックネームをベチョ)によるもので一説ではタンゴの発祥地はブエノス・アイレスではなく、ここモンテヴィデオともいわれています。

先日、FMラジオで亡き藤沢嵐子と早川信平のタンゴ・オーケストラを放送していました。 感無量でした。その他、ギターを伴奏にしてうたうカンドンベという形式のフォークソングはウ国に独特のものでメキシコのボレロのようなシティー・ミュージックといえます。 既に亡くなりましたが、この国のアルフレッド・シタローサは中でも有名なシンガーでした。 彼のうたう「ベチョのヴァイオリン」は名曲と云われ、今でもよく放送されています。 しかし、一般的にはこの国には他の中南米諸国のような独特の音楽や楽器は少ないといえます。 最近ではどの国もそうですが若者達はロック系統の音楽に夢中です。 街やショッピングセンターに行く度にレコード屋(プラシィオ・デ・ラ・ムシカという大きな店がショッピングセンターなどに支店をもっている)をのぞいてはいますが、各国のフォルクローレのCDやカセットは殆どありません。 お隣りのアルゼンチンにはサンバ(ブラジルのとは全く違います)やチャマメ、クエカなどの形式の歌があるのにそれすら余りありません。 去年93才?で亡くなったアタウアルパ・ユパンキそれにメルセデス・ソーサ、オラシオ・グァラニーのカセットが片隅にある程度です。

ラジオはモンテヴィデオに40局、地方に73局あるものの、日本から持参のラジカセのダイヤルを辛抱強く廻して探索した結果、AMで一局、FMで一局やっと目的とする局を見つけました。 いずれもタンゴとフォルクローレを交互に30分ずつ一日中流しています。 クラシックはたった一局でした。 それぞれスポーツ、コマーシャルなど専門化しています。 メキシコには私の好きなジャンルの局が多くありました。 これらを含めたラジオ局がメキシコ大地震の時に情報伝達に大いに役立ったことはご承知のとおりです。 テレビは20局位うつります。 私の好みの音楽専門はなく、ニュースを主とする局、動物や旅、芸能、スポーツなど局によって重点のおき方が違うのはラジオと同じです。 2月末迄は学校が休みでしたからアニメなど子供向けの番組を数局がずっと流していました。 ご存知、セーラー・ムーンもやっていました。 音楽専門の局としてはテレムシカという局があり、現代の若者むきのものと最近のラテンミュージック、例えばメキシコのルイス・ミゲルやスペインのフリオ・イグレシアスの歌などを映像と共に一日中流しています。

2回程訪れた近くのイタリアレストランでは、金、土の夜9時頃からその店のウェイターとギター、キーボードの2人組の歌が始まります。 2人組の方のレパートリーは広く、メキシコのボレロからパラグァイのグアラニア、ペルーのワルツなどかなり上手に歌います。 ウェイターの方はタンゴ専門で素晴らしい声の持ち主です。 こんなに上手な人が街の一介のレストランでウェイターをしているなんて全く考えられません。 その他、タンゴの演奏を聞きながら食事、お酒を楽しむところもあります。 ベチョが長くピアニストとして働いていた「ベチョの家」とか「ソロカバーナ」はその代表的なところですが残念ながらまだ行っていません。 タンゴの本場らしくそのレベルは非常に高いものと思われます。


在留邦人

ウルグァイの在留邦人は120家族約300人でブラジルやペルー等に比べると非常に少数です。 殆どの人が昭和30年前半に日本からあるいはパラグァイ、ブラジルなどの南米諸国から移り住んだ方達です。 入国当時は大変苦労なされたのですが、ほとんどの方がモンテヴィデオ近郊で花き栽培で成功しています。 その子供達すなわち二世の方々は親の職業を継いだり、電気店、歯医者など自営の方々や公務員、会社員などのサラリーマンになっております。

私が今まで会った邦人の方はこの中のほんの一部にすぎません。 最初は家庭電気店を営むOさんです。 日本から持参した炊飯器の修理を頼みに行って会いました。 すごく世話好きな二世の方で日本人会の副会長として飛び廻っています。 もっと沢山在留邦人がいればフジモリ大統領とはいわないまでも市長ぐらいにはなれるのに、と思いました。 それから、リーダーの井上氏が紹介してくれて、一緒に泊まりがけで釣りに行ったGさんとその奥さん(山形県出身)、それにHさん夫妻です。 ともに花き栽培を手広くしています。 Gさんは北海道出身で62才、話好き、快活でやはりとても世話好きです。 今は息子さんが結婚して近所に住みGさんの後を継いでいます。 農水省の家衛試に一時在職していたE氏が、以前ウ国に滞在していた時知り合ったのが井上リーダーと親しくなったきっかけということです。 一度、ホテルにGさんから電話がかかってきました。 一世ですからときどき日本人がなつかしく話をしたいのでしょう。 Gさんと同じかもう少し若い感じのHさんは福島県の出身、とても物静かな方です。 ウ国生れの奥さんと娘さん2人と暮らしておられます。 モンテヴィデオとプンタ・デル・エステの中程にあるソリスという所にあるHさんの別荘に魚釣りの時泊りました。 3月末から1ヶ月間、それこそ何十年ぶりに日本を訪れるとかで楽しみにしておりました。

私達のJICAプロジェクトチームにアルバイトで来ているM嬢は有能な女性で、日←→西の通訳をはじめ翻訳、一般事務をしています。 重要な会議や研究打合せなどでは必ず通訳してくれるので大変助かります。 供用機材のトラブル、ホテルの予約、病院の予約など複雑なことには彼女は不可欠な存在です。 二世で現在国立大学の経済学部に在学しています。 大学ですが、ウルグァイには国立大学が一つ、私立大学が1校あるそうです。 日本と違って入学は資格さえあれば容易ですが卒業するのは大変難しいのです。 彼女も7年間在学しています。 さきに私立の幼稚園、小、中(高)校の入学金や授業料の高いことを紹介しましたが、国立校であれば小学校から大学まで一切費用はかかりません。 7年間在学するのがごく当り前なのも、単位取得の難しさもさることながら費用がかからないことも関係しているかもしれません。 一般に邦人の進学熱は高いようです。

M嬢のお姉さんは日本で生まれこちらで育った方で両国語とも非常に達者です。 既にウルグァイ人の方と結婚して子供さんもいます。 公式的な会議の通訳とか、日本への研修生に対する日本語会話レッスンとか大活躍をしています。


在留邦人運動会

先日(1997年3月2日)、モンテヴィデオ市の郊外にある体育クラブの運動場で在留邦人の運動会があったので出席しました。 クラブの建物等の施設はおそらく近くの地区の方々の寄付金を主に公費で作られたのでしょうが、見渡す限り人家のない所にありました。 建物はお世辞にも立派とはいえませんが、広い体育館をもちそこでは300〜400人用の食事がとれる広さがあります。 何かの催しがあると売店も出ます。 もちろん、屋外には沢山のアサード(焼肉)を作るところもあります。

集まったのは300人位でしょうか。 中にはウルグァイ人もかなりおり、聞いてみると二世の方の連れ合いとかその友達、近所の人達でした。 私はGさん、M嬢のお父さん等数人の一世の方とずっと一緒でした。 60〜63才、すべて昭和30〜32年に移住してきた方で、始めは主としてウルグァイ人の農園で働らき苦労しながらお金を貯めて園芸で身を立てた人達です。 辛いことはもちろんだったけれども食事は当時の日本より遥かによかったそうです。 その頃のウ国のGNPは日本より遥かに上でしたので豊かな食生活を彼らは送っていたのでしょう。 60〜63才といえば昭和1桁に近い生れでその人達の話は共通しています。 戦後の日本のみじめな生活、とくに食生活に関する思い出です。 子供達すなわち二世は完全にウ国の教育を受けていますから一世の思い出話は全く通じない内容であり、次第に微妙な点で意見の違いが蓄積し世代間にずれが出てきます。 今回の運動会の立案、運営をめぐって、たとえば一世は開会、閉会の挨拶をすべきだと主張したのに対し、二世はウ国式に自然に始まって自然に終わればよい、堅苦しいセレモニーは不要と云ってもめたと聞いています。 競技種目についても一世組はかなり不満をもっていました。 一世はパイオニアとしてのプライドを持ってはいるものの、今では経営等の実権は二世に移っているので結局二世の主張が通っているそうです。 三世は今最高で10才位、可愛い盛りです。 一緒に遊んだりしましたが彼らは皆スペイン語でした。 この世代ではウルグァイ人と同じ考えをもつようになり、さらに世代間の差が広がると思います。 帰る際に一世の方々と握手をかわしたところ、皆ゴツゴツしたかたい手で長年の苦労が伺われました。 私は夕方6時に帰りましたが、運動会が終わったのは夜8時だったそうです。


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